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カナダで出会った「優しく楽しく美しい柔道」~北米柔道訪問記(1)~

みなさま、こんにちは!3.0マガジン編集部です。judo3.0に興味をお持ちの方は、柔道を通しての国際交流に興味がある方や、海外の道場に興味をお持ちの方が多いと思います。そこで今回は昨年6月から9ヶ月間、北米にて柔道道場を巡る旅に出ていた長﨑徹眞さんにお話をいただきたいと思います。長﨑さんは京都大学柔道部出身、いわゆる七帝柔道出身です。そのような“文武両道”を体現された方が、海外の道場で感じたものはどんなものだったのでしょうか。

カナダに渡航する

かねてから、海外に定住してみたいという思いがあり、前職を退職後、セブ島語学留学、長野での短期アルバイトを経て、カナダに渡航することとなった。2016年7月のことである。英語の上達が主な目的であったが、judo3.0発起人酒井との出会いにより、自分を育んでくれた柔道に恩返しをし、社会に自分の力を還元しようと決心。北米の地で柔道を再開すると共に、日本と柔道交流をする道場開拓を実施することに。

大学最後の試合で敗れたことが、心に残って離れない。「自分のすべてをぶつけられなかった」という思いがある。その気持ちを持ちながら仕事にも打ち込んだが、柔道への気持ちが晴れないままであった。代表酒井との出会いは、そこにもう一度柔道に関わる機会を与えてくれた。

カナダという国について

カナダではトロントに6か月滞在した。滞在中、Annex Judo Academy、JCCC、Sho JinJudo club(Fight night)、およびオンタリオ州柔道連盟のクリスマスキャンプ(U-19強化指定選手の合宿)に参加することとなった。このクリスマスキャンプには、judo3.0のJUDOプチ留学プログラムとして、日本の学生2名の参加をコーディネートしたが、ここは次回詳述したい。

カナダは移民国家である。17世紀にフランス人の入植から始まり、イギリス統治の時代を経て独立した。今年は、建国150年の年になる。私が滞在したトロントはカナダ最大の都市で、特に移民の構成比率が高いと言われる(首都はオタワ)。実際、限られた範囲だが、私が現地で知り合った友人たちで三世代カナディアンという人を探すのは、むつかしいように思う。到着初日にキャリケースを引きずりながら歩いていると、車を横づけされ道を聞かれたり、働いていた日本食レストランでは、各テーブルで異なる言語が話されていたり(多くの人がバイリンガルだ)。日本の月9ドラマにあたるプログラムが、韓国系コンビニエンスストア一家の話だったり。とにかく、文化の多様性を感じる頻度が非常に多い。

「投げられても抵抗しない」から見えてきた新しい境地

主に練習をさせて頂いたAnnex Judo Academyももちろん例外ではない。ブルガリア、チリ、メキシコ、インド、コンゴ、中国、韓国、日本 etc…様々なバックグランウンドを持った人たちが、子どもから大人まで柔道を楽しんでいる。

道場主のDavid Miller先生は、カナダ重量級で活躍された方で、日本の東海大学で約6年間修業し、講道館の紅白試合で西洋出身柔道家として初めて『抜群』を達成された方でもある。柔和でユーモアにあふれたまさに『お父さん』と呼ぶにふさわしい好々漢である。私が感じたこのクラブのモットーは、『優しく、楽しく、美しく』。この三つは三位一体である。

①優しく

これは『ケガなく』と言い換えてもよい。柔道は対人接触が激しい競技であり、特に立ち技はケガのリスクが高い。かつ特に初心者は、まだ体の使い方に慣れていない場合が多く、指導者としても、十分に注意が必要である。

David先生は、オーソドックスな形とは異なる投げ方を教える場合がある。体落としでつま先を立てない、背負い投げで釣り手を上げない等。もちろん、オーソドックスな形と先生の意図の違いを明らかにして。ささいなことだが、ここから小さなケガを防ぐことができる。

・・・当たり前だが、格闘技等に精通していない限り、人々は身体の痛みに敏感である。大きなケガでなくても、皮膚・関節に痛みが出るだけで、競技から離れてしまう可能性もある。そもそも、痛い思いをするために柔道を行っているわけではない。みんなが練習を長く続けられるように、という先生の思いを感じる。

②楽しく

したがって、Annexでは、投げられても抵抗しないことが第一とされる。勝負にこだわるあまり、投げられたときに抵抗してしまうのが、人の性である。しかし、先生は毎回の乱取りの前に、何度も『投げられても抵抗しないように』と口を酸っぱくしておっしゃる。結果として、何が起きるか・・・・、

 『楽しんで』柔道ができるのである。生徒たちは、自分が学んだ技術を試すことに集中できる。投げても投げられても、そこに優劣はなく、よい練習を共にできたという達成感のみが残る。『競争』の原理がない練習に初めて自分は出会った。練習は決して激しいものでないし、時間も短い。しかし、自分の立ち技を明らかに向上させることができた。それは、技術的というよりも自分の意識の変化によるものだった。

『投げられる』ことから意識を遠ざけると、自分の力が抜ける。もちろん、それは抵抗することをやめるから。お互いの動きに合わせて動き、交互に技をかけあう中で、一つの「流れ」を感じることができる。一つの円を二人で描いているようなそんな感覚である。自分の競技人生の中で、そのような感覚を得ることはなかった。自分が立ち技で感じていたのは、直線の感覚である。円の感覚に気づかなかったは、日本での自分の鍛錬が未熟であったことを示すものだが(柔道家としての力量はとてもでないが、日本で高いレベルにはない)、カナダの地ではじめて、立ち技の『柔道』に出会ったと、気づくことができたのである。

③美しく

 そして、『美しく』。カナダで出会った親友と話していたのだが、彼曰く、「投げられるのも柔道の一部であり、それは名誉なことだ。なぜなら、きれいに投げられるとき、自分が芸術の一部になれる。柔道は一人では決してできない。柔道は二人で一瞬の美を作り上げる芸術のようなものだ。」新しい、けれども誰もが気付くべき視点である。

美しい一本の動画は、インターネットの動画媒体にあふれている。誰もが、その技の「取り」を称賛する。しかし、形と同じくして、「受け」がいなければ、その技は成立しない。その美しい技術を発露できる一瞬を、「二人」で作り上げているのだ。その視点に立つと、「組み合わない」「リスクを冒して一本を狙わない」ことに対する批判も、別の角度から語ることができる。

私は、勝負が前提の場面で、そこに固執することに全く批判的な視点は持っていない。何をしてでも結果を得る。そこにも泥臭い美しさがあることを大学時代に学んでいる。しかし、もし批判するなら、このように語りたい。

「二人で、この世で二度とみられないかもしれない芸術を創る瞬間を、止揚の瞬間を、逃している。」

もちろん、多くの人が試合における美しい一本に感動するのは、二人が勝利を求めて真剣に戦っているからである。二つのベクトルが激しくぶつかり、これまでの練習、思いを賭けて相手を倒しにいく。その一瞬に二人の息がぴったりと合う瞬間が訪れる。ベクトルの方向が全く異なれば異なるほど、強ければ強いほど、その一瞬は輝く。寝技でもそれは同じだ。そこに人々は美を見出す。

これは、競争の場面で実現されることだが、勝負に固執せずとも、普段の練習、特に生涯スポーツとして柔道を志向している練習の中で学ぶことができるのだ。その環境がAnnexにはあると思っている。二人で芸術を創るのだ。その時、投げられるのも大事な練習だと気づく

どう投げられるか。「負ける」のは、負けではない。新しい、そして本当の(?)柔道をカナダで発見することができた。『ケガなく、楽しく、美しく』柔道できた自分は本当に幸せである。

大人の精神修養としての柔道

Annex Judo Academyでは、子どもから大人まで、幅広い年齢層の方が柔道を学んでいる。みな、柔道を愛している。なぜ彼らは他の競技ではなく柔道を選んだのか。メンバーは語ってくれた。

「普段の自分はまじめでもなく、とても規律正しい人間とは言えない。煙草は辞めたくてもやめられない。笑 でも、畳に上がっているとき、自分を律することができるのを感じる。そのときは自分を好きになれるんだ。」

「柔道にはDiscipline(道徳規律)を感じることができる。相手を尊敬する気持ちといえばいいかな。他のスポーツにももちろんそれはあるけど、柔道にはそれを強く感じることができるし、その雰囲気が僕は好きだ。」

「柔道をするときいつも自分と向き合うことができる。正直、柔道をしてる自分を嫌いになることのほうが多い。だって、ぜんぜん思い通りに動けないから。でも、それは自分の未熟さに気づけていられるということでもあるんだ。実際には、相手と闘っているんだけど、実はそれは自分なんだ。相手は自分を映す鏡みたいなものだ。以前の僕は、ちょっと怒りっぽかった。でも、柔道を始めてから、自分の怒りを外に向けるのではなく、自分への反省に向けることができるようになった。柔道は僕を変えてくれた。」

彼らにとって、柔道は単なる「競技」ではない。技術の修得を通じて、自分と向き合う機会である。そして、それはもちろん年齢やその他バックグラウンドに縛られるものでは、全くない。

改めて言うが、カナダでは大人が柔道をしている。Annexの大人メンバーの過半数は比較的最近になってから柔道を始めた「色帯」だ。かれらは柔道を愛している。自分と向かい合っている。では、日本はどうだろうか。

日本には、大人が生涯スポーツとして柔道を続ける環境が少ない。ましてや、新たに始めるのはとても難しい。柔道は一般の間でも経験者の間でも、「厳しく修行するもの」という認識が広がっている。精神の鍛練のために、身体を極度に追い込むことが必要との考え方は理解できる。そうしなければ得られない心・技・体は確実に存在する。オリンピック等で目にする素晴らしい柔道家たちは、そうした修行を経てその高みに登っている。

しかし、一般の人々のための、生涯にわたる教育システム、 広くいきわたるシステムとしてはどうか。競技を引退した後、引き続き自分と向き合い続けられる場としての環境が、日本で整っていると言えるだろうか。身体能力が衰え始めてから、柔道という精神修養の世界に足を踏み入れることができる環境が整っているだろうか。

在家と出家に例えてみると

適切な例かどうか、はなはだ自信はないが、私は浄土宗の寺院に生まれ育ったということもあり、佛教における構図は一つの理想としてイメージできるのではなかと思う。

すべての人が出家する必要はない。縁があればその道が開かれるのであって、在家であってもしっかりと仏道に寄り添うことはできる。在家信者も併せて佛教を構成しているのであって、そこに優劣は全くない。もちろん、出家し修行を積むことでより佛教における真理に近づくことができるし、それは文字通りこの上ないことである。しかし、当たり前だが、出家者が在家者に何か優越的まなざしを向けることはないし、互いに尊敬しあって、この社会での役割を全うしようとしていると感じる。逆に、出家者と在家者が交わる時こそ、真剣なときである。

柔道において、高度に修練を積む競技者=僧侶、一般の生涯競技の一つとして「楽しむ」修練者=一般の檀信徒のような関係が成り立ち、かつその区分が互いに尊重され合いながら広く展開されることを期待している。

北米の旅は、日本よりも海外に、老若男女が柔道に親しむことができる環境が整備されており、その裾野がひろがっているのを目の当たりにした旅であった。

柔道着ひとつで旅の風景を変えることができる

トロントでの柔道の日々は、とても楽しいものであった。多様性の中で人々がたくましく生きていく様をみることができた。柔道を通じて、一生の友といえるであろう存在にも出会うことができた。逆に、自分に柔道がなかったら、この生活がここまで充実したものになったかどうかは、わからない。身一つで見知らぬ土地に赴き、柔道着片手に練習に参加させて頂き、これ以上ない環境で多くのことを学ばさせて頂いた。柔道着ひとつで、旅の風景を変えることができる。多くの若者に、当団体の活動の中で、価値ある体験を積み上げていってもらえたら、これ以上うれしいことはない。

次回は、2016年末に実施されたオンタリオ州柔道連盟の合宿について記したいと思う。この合宿に日本から2人の学生が参加してくれた。彼らが感じたことを中心に紹介したい。

【筆者紹介】長﨑 徹眞(ながさき てつま)

京都大学文学部及び教育学部卒。浄土宗教師。講道館柔道弐段。京大柔道部にて、高専柔道の流れを汲む七大柔道を経験。会計系コンサルティングファームにて企業戦略立案・新規事業立案・M&A支援業務に従事後、北米に約9か月間滞在。渡航前にjudo3.0代表酒井に出会い、柔道界への恩返しと日本の教育に貢献することを決意しjudo3.0に参画。当団体では、主に海外からの柔道家受入、FORUM企画、グループ内理念共有プロジェクトで活動中。

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