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柔道が妻の薬になる。そのために私は柔道をやっている

妻は柔道経験者

親が柔道経験者で子供も柔道を習うというのはよくあるパターンである。我が家もそのパターンに当てはまる家庭だ。というのも我が家では妻の恵が柔道経験者である。

私はというと柔道に全くといっていいほど興味がなく、あの日が来るまでは柔道スポ少で稽古する子供たちの練習すら一度も見に行ったことすら無いほど柔道に興味がなかった。

妻は小学校2年の時、同級生の柔道を習っている男子に柔道技で投げられた。それがとても悔しかったようで投げ返してやりたい、それがきっかけで柔道を始めた。小、中と柔道を続けて大会での成績もよかったと聞いている。地方の新聞では何度も写真付きで試合の記事が載った。

高校は当時、秋田県でインターハイに出場していた合川高校に柔道推薦で入学した。高校ではインターハイこそ行けなったが、ある大会では県で優勝するなど県で1位2位を争う選手だった。

高校卒業後も私と結婚するまでは近場の道場に通って柔道を続けていた。結婚後は女の子二人産まれた。長女が2歳の頃には子供用の柔道着を妻が用意していて、5歳の頃には家の中で長女と妻は打込を行っていた。

1歳の次女はというと打込をする二人の周りで畳の上でゴロゴロ遊んでいた。うちの子二人は物心つくころには柔道に触れていたのである。

その頃の私は仕事ばかりしていて帰りは遅く19時から22時の間に帰宅していて休日も会社に出勤して仕事をしていて週1日休むか休まないかの生活。家にいるときはお酒を飲むだけ。そんな生活をずっとしていた。

時には長期出張にいき家に数か月もいない時もあった。子供が柔道スポ少に入るとき妻に相談をされたと思うが当時の私は仕事しか頭になかったので相談された記憶すらないのだ。

気づいたときには子供たち二人とも柔道スポ少に入っていて、長女が何年生で、次女が保育園の何組でスポ少に入ったのかすら、いまだにわからない。仕事で遅く帰っていたので妻と子供が家にいない時は柔道の稽古にいったんだな。という認識でしかなかった。そんな生活がある日突然激変したのである。

脳腫瘍

12月の末、その日は仕事納めで早く帰宅した私はさっそく飲んでいた。本来であれば妻はその日早番なので私より早く帰宅しているはずであるが家には誰もいなかった。ほろ酔いになってきたころ妻から電話がきてどうやら仕事を早退し家のすぐ裏にある脳外科を受診していた。

電話の向こうで深刻な声で『脳腫瘍だって…』と言っていた。といわれても明日から正月休みの私は何のことなのかさっぱりピンと来ていなかった。気持ちが正月モードになっていた。

妻は看護師である。自分の体でおきている異変、症状から病変は脳だとすぐわかったらしい。その日の脳外科の受診では大学病院の紹介をされ、明日から正月休みなので当然大学病院も休み。大学病院にいくのは約10日後。

その間、私は何が起こったのかすらピンときていなかった。だらだらと正月休みを満喫していたが、休み中家から出ることもない妻はただひたすら毎日泣き崩れていた。

休みが明け大学病院にいくとそこで初めて私はことの重大さに気付いた。診察のとき妻の脳のMRIをみた。ゴルフボールくらいある異物が脳の中にある。医療従事者ではない私がみても言葉を失うくらいの大きさだった。

すぐ入院が決まり病理診断のための手術がおこなわれた。確定した診断は『悪性神経膠腫』グレード3の悪性脳腫瘍だった。つまり脳のガンである。

悪性神経膠腫について調べてみると生存期間、生存率ともに低くはあるがグレード4よりは望みがあった。早速治療プランがかたまり、毎日2か月抗がん剤、毎日2か月放射線照射。腫瘍細胞が弱ったところに摘出手術という方針だった。

手術は3月。その間妻はずっと入院。妻の母と同居していたのでその間何とか協力をあおぎながら生活できていた。しかし柔道スポ少の稽古には行ってなかった。私が柔道に全く興味がなかったこともあるが、その時間をつくる余裕すらなかった。

時間の経過とともに妻の症状は悪化していった。体の右半身にあった違和感だが1月のうちはハシが使えていたものが2月にはだんだんフォーク、スプーンにかわっていった。右麻痺である。

普通に歩いていたが右足を引きずって歩くようになった。3月には自分が今なにをしていたのか、何のために院内のコンビニにきたのかわからなくなってきた。認知症の始まりである。

その間MRIを何回かとったがゴルフボールほどの腫瘍はどんどん大きくなっていった。脳の放射線治療、抗がん剤が一通り終わり、3月に摘出手術がおこなわれた。その際、再度病理診断が行われた。結果はグレード4。病名も「膠芽腫」とかわった。

膠芽腫について調べて見ると「人間のガンの中で最強のガン」といわれるくらい治療成績はよくなかった。平均生存期間は1年。思い切ってドクターに予想される生存期間を聞いてみた。やはり1年から1年半といわれた。正直妻はこのまま「死ぬんだな」と思った。

次女の柔道大会

手術後2か月経過したころには摘出した腫瘍が大きくなっていた。4月に退院できたばかりなのに5月には再入院となった。その頃、柔道スポ少から6月に行われる秋田ゼロックス杯に出場しませんか?といったお知らせがきていた。

小5の長女は乗り気じゃなかったので辞退したが、小1の次女が出場する気満々だったのでエントリーすることにした。妻はもう長く生きられないと思っていた私はこの大会が妻が見れる最後の大会だと思った。

5月の入院で別の抗がん剤が追加された。そして人間が耐えられる限界値を超えてさらに放射線を照射すると説明された。その際の副作用の説明で自分は同意書にサインできなかった。

しかし妻の兄がサインして治療が始まった。6月の秋田ゼロックス杯の数日前に妻は退院できた。

麻痺で思うように動かない身体で娘に精一杯声援をおくっていた。柔道に全く興味のなかった私。子供の稽古すらきちんと見たことの無い私は初めて生で柔道の試合をみた。

見てて面白い。小学生ではあるが目の前の人間が倒れる。尻もちをつく。それでも相手に向かっていく姿に興奮していた。娘はというと2位入賞。大きな銀メダルをもらってとてもうれしがっていた。妻も喜んでいた。

妻がガン宣告をされた時「ガンとの向き合い方」といった内容の本を何冊か目を通したが、その日を楽しく過ごす。毎日楽しく過ごす。ガンで悩むのではなく開き直って過ごす。笑って過ごす。リラックスする。「病は気から」といった内容が多かった。

柔道する娘の姿を妻はとても楽しそうにみていた。娘がメダルをつけた姿をみてその年で一番喜んでいる妻の姿。

娘の表彰式の時に私は思った。小1の女子でも柔道やってるんだから自分もできるかも。娘の柔道を応援したいし稽古にも参加させたい。なんなら自分も柔道やろっかな。始めてみると何か世界が変わるかもしれない。

妻のガンのことだけ考えていた半年、柔道が妻の薬になる。最高に喜んでいるからきっとそうだと思った。

柔道をはじめる

すぐに柔道スポ少の先生にお願いして私も柔道の稽古に参加した。妻も道場に連れていきできる限り柔道にふれさせてあげたい。もうそんなに長くないだろうから動けるうちは毎回柔道に連れていく。そう思っていた。

私はというと初めてするエビだったり逆エビだったり動きについていけず娘にやりかたを聞いて家で一緒に練習した。ひとつひとつの動きができるようになることに楽しさを覚えた。

毎回稽古にいくたびに妻がガンであることを忘れている自分に気づく。今まではガンのこと、治療方法だったり、同じ病気で悩んでいるひとのブログをみたり常にガンのことが頭にあった。

柔道には色んな立技、寝技があるので一つ一つ何十種類もみていると時間も忘れガンのことが吹っ飛んだ。それだけ柔道の技の多さに驚愕した。

私は剣道の有段者であるが、剣道は極端に言えばメン、コテ、ドウ、ツキの四種類の有効打だけをだしあって勝負を決している。しかし柔道は四種類どころか数えきれないほど技がある。技を把握するだけでも楽しかった。

いろんな技をYouTubeで見まくった。柔道することで柔道のことを知るうえで私自身、妻の病気のことが頭からはなれリラックスにもなっていたのだ。今までそんな時間をもつことすらなかった状況だったので楽しさにどはまりした。

娘が宿題おわらず稽古に行けそうもない日は私だけ行くこともあった。なにかに没頭してリラックスする時間をつくろうと意識もしていた。でなければ自分が気持ち的に参ってしまう。

柔道大会に参加

娘たちにとって柔道は母親との思い出だと思う。母親が突如病気で柔道ができなくなったことで、娘たちが柔道から離れるんじゃないか、、、そんな思いもあったが父が柔道をはじめたとき、小5の長女ははじめこそ一緒に稽古に参加していたが母親がいないとやはり気持ちがついてこないのか、スポ少をやめることにした。

小1の次女はメダルをとったこともありやる気は充分だった。柔道と母親の病気を結びつけることはしたくなかったので、長女にもなんとか柔道に復帰してほしいと柔道の稽古に参加しながら考えていた。

始めたばかりの自分には母親のように柔道のテクニックを教えることは出来ないが何とか母親代わりをつとめようと稽古にうちこんだ。数か月後には市柔連の大会に出ませんか?と誘っていただいた。すぐに参加すると返答したと思う。

秋田ゼロックス杯が妻がみられる最後の大会だと思っていた私は見せられる大会が一つできたことでこれが妻の楽しみとなり気持ちの面での薬になると感じた。「病は気から」気持ちで病気に負けないようにしたかった。

小学生から大人まで参加する大会なので親子でエントリーした。勝ち負けではなく、参加することが大きな意味があった。数か月では力の差は歴然だし全くかなわないが全ては「病気に立ち向かう妻」へ少しでも柔道にふれさせてやりたかった。試合会場で楽しんでもらいたかった。

市民大会が終わり翌週には紅白戦のお誘いがきた。断る理由は全くないのである。妻自身も試合をみるという目標ができたおかげで、苦しい治療にも前向きになれてるんじゃないかと思う。

柔整旗の大会は小学1年なのでメンバーになれないがチーム紹介でテレビ撮影があるので娘をつれていった。いつ病変が悪化してそれどころじゃなくなるかわからないのでとにかくどんな形であれ妻を柔道に触れさせようと思った。

テレビ越しにみる娘の姿に妻も次も見たいと思ってほしかった。そのためには1年は生きるために気持ちを切らさず頑張るしかない。

次々と柔道のイベントが決まるごとにそこまでは体調を維持しようと妻なりに頑張ってたと思う。そのために私は柔道をやっているのだ。

そのかいあってなのか、日常生活は送れる程度の病変のコントロールは今のところできている。1年と言われてそう思いこんでいたがその倍以上過ごしてこられた。

長女の中学柔道部の入部

娘たちは母親の柔道を目の前でみてきた。先生たちもみている。しかし私はというと一回も見たことはない。今誰と乱取りしたいかと言われれば妻である。

しかし麻痺をしている妻と柔道をすること、それはどう考えても無理である。であれば娘が中学高校と柔道を続けていれば妻に最も近い存在と稽古、乱取りできる。今はその日が来るまで稽古を続けて行きたい。

その過程の段階で少しずつ母親がわりに柔道ができる、教えられるようになれればと思う。

そんな父をみてなのか分からないが柔道をやめた長女が中学入学とともに柔道部に入ると言い出した。家では毎日絵を描いているのでてっきり美術部に入るとばかり思っていた。それもまた妻のいい薬になる。

今我が家は柔道で家族が同じ方向を向いて妻の気持ちの面でのサポート役になろうとしている。

妻は柔道で子供たちに礼儀を学んでほしいと言っている。はじめてみてわかったが1日の稽古で何十回と「お願いします」「ありがとうございました」というと、普段の生活でも「お願いします」「ありがとうございました」と自然に何回も言うことに慣れてくるというか、言うのがあたり前になってくる。

仕事のうえでそれが言える人、言えない人、会社の中でもひとそれぞれいるが礼儀正しくいるほうが仕事はやりやすい。礼にしてもきちんとかかとつけてお客さんに礼をすると柔道はじめるまえのお客さんの反応と違う反応があることに気づく。

こういう経験からも礼儀は改めて大切なことだと思う。今は妻の代わりに柔道のテクニックは教えられなくても子供たちに礼儀の大切さを妻の代わりに伝えていきたいと思う。

本間祐也

秋田県大館市在住。柔道歴3年。柔道初段。剣道二段。競技者として大館市柔道連盟に加入し大館柔道スポーツ少年団や地域の柔道部活動で活動中。

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