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なぜ柔道の稽古をすると世を補益できるようになるのか?嘉納治五郎の「道」を考える -有山篤利氏(追手門学院大学教授)-参加者レポート

2021年3月31日(水)夜、3.0オンラインカフェにて有山篤利氏(追手門学院大学教授)にご登壇いただき、「なぜ柔道の稽古をすると世を補益できるようになるのか?嘉納治五郎の「道」を考える -」というテーマで講義をいただきました。25名の皆様にご参加いただき、講義後は活発な話し合いが行われました。以下、参加者によるレポートです。

目次
  • 講義資料
  • 講義レポート
  • 講義ムービー(youtube)

講義レポート

以下、参加した筆者なりに理解した有山先生の講義の要点ですので、講義の内容や順序、表現を正確に反映しているわけではありません。講義の詳細につきましては末尾に動画がありますのでそちらをご参照ください。

スポーツと武道の区別

柔道には二つの顔がある。競技スポーツとしての柔道、もう一つは嘉納治五郎の講道館柔道であり、武道、「道」としての柔道。どちらもそれぞれ特長があり、一長一短があり、どちらが優れているというものではない。大事なことは両者の違いを知り区別して理解することである。以下「スポーツとしての柔道」「武道としての柔道」と表記する。

混在している具体例

いまの柔道の礼法はスポーツのマナーである。「武道としての柔道」の礼法とは異なる。もともと武道の礼法は武術の修業を日常の動作に入れたもの。例えば、小笠原流礼法を30分やったら普通の人は立てなくなるぐらい疲労する。また、「相手への尊敬」や「克己」などは世界共通の道徳であり、「武道としての柔道」に特有のものではない。

欧米的な教育と日本的な教育の違い

欧米的な近代教育は、まず説明して知識を提供をして意味を理解できるようにする。その後に動きを覚える。しかし、日本は動き、カタチから入る。最初に意味は教えない。師匠の動きをまねる、意味が分からなくても原文をただ音読・暗唱する。それをくりかえしていくうちに自然と意味が分かる。

具体例として演劇に関する東西の違い。悲しさを表現するとき、西洋の演劇は悲しい気持ちを想像して演じる。しかし、日本の狂言などの伝統芸能では気持ちを想像したりしない。ただ「泣く」ということを表現する典型的な身体のカタチがある。それを寸分たがわず真似をして再現する。その「泣く」のカタチ・動きができたら、勝手に自分の気持ちが「泣く」になり、観客に以心伝心で伝わる。「共振」する。

具体例として有山先生の体験。狂言の稽古場にいったとき、弟子が稽古をしていて、弓を弾く動作がしていた。師匠が「それは違う。弓を引く動作はこうだ」といって弓を持たずにその動作を説明したとき、有山先生には、実際に弓を弾いたかのように、弓が見えて、弓矢が放たれ、その音まで聞こえてきた。「共振」を体験した。猿の演技をするとき、猿の気持ちを考える必要はない。猿には猿の動きがある。その動きができるようになったらいい。

日本人の教育観

「事理一体」。 事(わざ)と理(真理・心)は一体である。「心」の修業は「わざ」の修業で行われる、わざの極意は真理に通じる、正しい「わざ」は正しい「心」の表れ。「道」とは「事理一体」のことであり、技を極めていくと真理に至る、心が磨かれていく、という考え方。簡単にいうと、武道としての柔道の「道」とは技の稽古で人格をつくろう、という考え方である。

具体例として、相撲の白鵬の「かちあげ」がある。ルール上は使っていい技なのに「横綱の品格を汚す」という意見が出るのは何故か。その背景には、荒っぽい技を使うということは心が荒っぽいことである。だから横綱にふさわしくない、と、技と心の有り様を一体として考えてしまう「事理一体」がある。

講道館柔道の「事理一体」

講道館柔道は、「わざ」の稽古を通じて学んだ「理合い」が日常生活に「転用」できると考えているが、それは「わざ」を突き詰めると「真理」に通じ、その真理は真理なのであらゆる局面に妥当する、という「事理一体」の考え方である。

それでは、そこでの「理合い」や「真理」はなにか。「精力善用・自他共栄」と言われているが、その根底にある原理は「柔よく剛を制する」「柔の理」という原理である。もともと「柔」の概念は中国の道教などから来ており宇宙の真理のような概念だったが、日本では戦い方の極意として発展した。

押されたら引く、引いたら押す、という「柔の理」の背後には、中国古来の哲学、陰陽の思想がある。世界が陰と陽の調和で成立しており、陰と陽の調和を目指す考え方である。もしかすると、試合で勝ったときにガッツポーズをしない、という態度もこの概念と関係しているかもしれない。悲しいときに泣くのではなく凛とする、うれしいときに喜ぶのではなく冷静さを保つ、これは陰と陽のバランスをとることである。

講道館柔道とは、柔道の修業で「柔よく剛を制す」の原理を体得して、その原理を日常生活で使うことである。もっとも、「柔よく剛を制す」「柔の理」が主要な原理ではあるが、それだけでは対応できない局面がある(例えば、相手が攻めてこないときとか、剛を使わざるを得ないときなど)。中国の思想でもいくつかの考え方があり、「柔」だけ、という思想もあれば、「柔」をメインとしながらも必要に応じて「剛」を使っていい、という思想もある。嘉納治五郎は「柔の理」を主要な原理としながらも、それ以外の必要に応じて対応するところも含めて考えた結果、「精力善用・自他共栄」になった。

スポーツ教育と武道教育の違い

武道教育は、「こころ」は「わざ」で磨かれる、と考える。嘉納治五郎は、この伝統的・神秘的な「事理一体」をもった柔術を、近代教育に適合するよう科学的に再構築して「柔道」としたが、「事理一体」であることに変わりはない。

スポーツ教育は様々な運動や活動の成果として教育的価値があると考える。例えば、サッカーで、ドリブルがうまくなったら人格が向上する、とは考えない。サッカーをすることで仲間と切磋琢磨したり、戦術を練ったり、様々な活動にすることによって人格や能力が向上すると考える。

武道教育の要点

これに対して、武道教育では、背負い投げがうまくなると人格が向上する、と考える。もっとも、その背負い投げの「わざ」は、「柔よく剛を制す」という理合い、原理に基づいていないといけない。競技スポーツとしての柔道では、「柔よく剛を制す」に基づく「わざ」でなくても試合に勝てるし、また、「柔よく剛を制す」に基づく「わざ」では試合に勝つことができない場面が出てくる。実際、競技柔道に取り組む選手は「柔よく剛を制す」の原理を使ってないことが研究で明らかになっている。

スポーツとしての柔道、武道としての柔道、どちらもそれぞれ教育的な価値がある。どちらがいい、悪いではなく、区別することが大事である。背負い投げを教えるとき、スポーツとしての柔道を教えるのか、試合で勝つための背負い投げを教えるのか、講道館柔道、武道としての柔道を教えるのか。もし後者の場合は「柔よく剛を制す」の原理に基づく背負い投げを教える必要がある。

武道教育の科学的根拠

カタチから心が磨かれるのか?ベム(D.J.Dem)の自己知覚理論がある。人は自分自身の心を内的な手がかりより、外的な手がかりによって知覚する。例えば、面白い顔をしてマンガを読むとマンガが面白く感じ、つまらない顔をしてマンガを読むとつまらなく感じる、という研究がある。自分の顔の表情で心が左右される。脳は合理的に情報を処理するから、面白い顔の動きをしているとき、悲しい感情になれない。

カタチから入ると心がついてくる。冗談のような具体例だが、例えば、異性にもてるにはどうしたらいいか?プレゼントをするのではない。意中の人からプレゼントをもらうこと。プレゼントを贈る、という動作をすると、その人を嫌いになることができない。プレゼントを贈る、という動作をしているとその人への好意・尊敬の気持ちが生まれてくる。

まとめ・武道教育とスポーツ教育の区別

武道教育としての柔道は「わざ」による教育。武道教育としての柔道をするときは「柔よく剛を制す」の原理に基づいた「わざ」を教える必要がある。もっとも、その場合、競技スポーツで勝つことができないことがある。スポーツ教育としての柔道も素晴らしい教育価値をもっている。どちらもそれぞれ良さがあるので、区別することが大事。

区別することが大事ということを自覚したうえで、これからスポーツとしての柔道、武道としての柔道、どのように区別してどのように活用していくか、などはこれからの課題であり、ここは大学の研究者というより、現場で生徒を指導している指導者が生徒ごとに、場面ごとに判断していくことになる。

【参加者ディスカッションと感想など】

上記が有山先生の講義でした。改めて、本講義の問いは「なぜ柔道の稽古をすると世を補益できるようになるのか?」でしたが、その答えは、

  • 「わざ」から「真理」に至る、という「事理一体」の考え方があって、柔道の場合の真理は「柔よく剛を制す」である。
  • この「柔よく剛を制す」の原理にもとづく「わざ」の修練をすることで真理を体得できる。だから、柔道の稽古をすると世を補益できるようになるのである。

というものでした。ただし留意すべき点があり、

  • スポーツとしての柔道の場合、試合で勝つための技の練習をしていて、必ずしも、この「柔よく剛を制す」に基づく「わざ」を修練しているとは限らないので、そのときは真理に到達できていない。
  • もっとも、スポーツとしての柔道にも教育的な効果はあるから、それはそれでよく、ただ、嘉納治五郎の講道館柔道のメカニズムにそったものではないことを理解して、区別して考えるべき

ということだったと思います。有山先生の講義の後、参加者と1時間半ほどディスカッションをしましたが、以下のような話題が上がりました。

  • 「事理一体」、技を極めて真理に至る、は高尚すぎて、技を極限まで修練しているトップレベルの選手がさらに上に行くためのように捉えてしまうが、もっと一般の人になじみのある言葉にすると「技マニア」になること。一般の柔道愛好者でも、「技マニア」になって「柔よく剛を制す」の原理に基づく技か否かを探求するようになったら技から真理に至っている(多分)。
  • 若くて体力があって競いたい人にはスポーツとしての柔道、中高年になって体力が落ちていたり、競いたいと思っていない人には、武道としての柔道、という風に選べるようになったらいい。
  • ブラジリアン柔術の道場にいくと、プロも初心者も一緒になって楽しそうに技を研究している。このような技を研究する場が柔道にもあるといい。
  • コロナ前、東京で「炎の乱取り祭り」という多いときは200名が集まってひたすら乱取りをする場があった。試合に勝つために練習をするだけでなく、投げたり投げられたりをただ楽しむ、という場がもっとあったらいい。
  • 日本は形から、西洋は理論から、という話があったが、ドイツには柔道の指導者を育成する専門プログラムがあって、そこでは柔道のあれこれが言語化されている。西洋の良さと日本の良さをうまく統合できないか。
  • 指導者の学びが一番大事。これからどうやって指導者の学びの場をつくっていくかが課題である。

以上、参加者レポート(講義の要点と参加者ディスカッションの概要)でした。(文責:酒井重義judo3.0)

※本セッションは、judo3.0の「どのようにして次世代の柔道のカリキュラムをつくるか?」「柔道とは何を教える教育なのか?」というテーマから企画されました。本テーマにご関心がある皆さま、ご意見をお寄せいただけたら幸いです(judo3.0事務局:info@judo3.org)。

講義資料

講義ムービー

 

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