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みんな違うけどそれでOK。アメリカに渡った柔道家がナースになって分かったこと。

スマトラ島沖地震での経験

2005年の秋、私は単身アメリカに渡りました。迷いは何もなかったというのは嘘になりますが、ただ「自分の思いを貫いて生きたい。」それだけの気持ちが大きかったように思います。きっかけは2004年末、インドネシア沖での大地震と津波でした。その被害地域へ医療援助チームの看護師として派遣されました。そこには各国の医療チームや軍隊のメンバーが駐留しており、現地の病院の復興に携わっていましたが、そのメンバーと英語で殆ど会話出来なかった自分にガッカリしたのがきっかけでした。派遣前は俗にいう「駅前留学」を数年続けており、自分の英語には若干自信を持っていたのですが、その自信はことごとく打ち砕かれたことを鮮明に覚えています。「英語をきちんと学びたい、英語で看護が出来るようになりたい。それなら、英語を日常的にしゃべらなければいけない国に行こう」と思ったのです。その決断は、それまでの私の人生を一転させる大きなものでした。

周囲の反対を押し切って渡米

30歳を過ぎてからの海外留学というのは、人生において大きな賭けであり、挑戦でもありました。私が留学した当時は一般的に、留学といえば私よりもうんと若い年代の方がするものであるというのは、日本社会一般の周知しうる現実でした。世の中の30代といえば、ある程度社会的にも落ち着きを見せる人が多く、子どもを授かったり、マイホームを建てたりする、そんな人が多いでしょう。そんな年代の女性が海外に一人渡っていくということを、私の両親は全く理解してくれませんでした。両親だけではなく、周りの友人も大半が応援モードではありませんでした。唯一、小学校からの親友だけが心から応援しているといってくれた以外は、「頑張っておいで!」といってくれる人は少なかった記憶があります。特に両親は、暖かく見送ってくれるとばかり思っていたら、逆に怒鳴られました。

「なんで、わざわざアメリカに行って外国人として暮らさないかんの?日本でナースやっとるのはそんなにおもしろくないんか?あんたが何がしたいんか、全く理解できん。」

と渡米前日まで延々と文句を言われました。思い悩むときに経験した、インドネシアでのふがいない体験は、私を迷いなく何かに突き進むための大きな原動力となっていました。両親に「3年間は絶対帰ってこん!いや、アメリカでナースになるまでは絶対に!三年以内に絶対ナースの試験合格するけ!そして、大学にも行くから。絶対!それが私のやりたいことなんよ!」と吐き捨てるように言い、2005年秋、私は単身、渡米したのです。

アメリカでの現実:外国人となった自分

アメリカという国は、とにかく全てにおいて大らかで、悪く言えば大雑把であり、何事においても几帳面な日本の文化で育ってきた私にとっては驚きの連続でした。「大雑把」と書いてアメリカ合衆国と読むのか?と思うくらい、何事にもあっけらかんとしたことが多く、今まで日本の文化の中で培ってきた自分の価値観を覆される毎日でした。郵便局の再配達などなく、知らない人の郵便物が自分のポストに入っているなんてことは日常茶飯事で、どこに行ってもマイペースな店員が多くて、イライラさせられることが多く、これが文化の違いなのかと思うようにしてはいましたが、ついつい日本人の価値観で物事をみては一人ストレスを溜める毎日でした。

特に、アメリカでは私は外国人であり、それを露骨に言動に出す人も多々ありました。よく考えてみると、自分が外国人として扱われることは日本では考えられないことでした。外国人というだけで、理不尽な思いをすることも多々ありました。こんなことが移民の集まる国、アメリカでもあるのかと、驚いたものでした。言われたことが聞き取れないと溜息をつかれたり、他の人よりも多くお金を請求されたり。英語でうまく反論できないときはそのまま払ってしまったこともあります。そんな毎日でも自分の目標は見失わなかったところは自分を褒めたいと思う限りです。

Monday at the dojo

Ken Pattesonさんの投稿 2015年12月15日(火)

 

Working hard!

Carrie Chandlerさんの投稿 2015年9月17日(木)

アメリカ合衆国ダラスにあるEastside Dojoにて
Eastside Dojoのホームページはこちら!

柔道を再開するきっかけ

目標にしていたアメリカ看護師の国家試験(NCKLEX)に2007年7月に無事合格し、アメリカ看護師(Registered Nurse: RN)として働き始めたのが2007年の9月でした。アメリカでそのまま結婚し、子どもにも恵まれ、子どもが格闘技をやりたいと言い出したのが柔道再開のきっかけでした。自分が昔やっていた柔道なら、一緒に楽しめるだろうと思ったのです。必死に道場を探しましたが、日本のいわゆる「柔道」と呼ばれる講道館柔道を教えているところが本当に少なく、道場を見つけるのも一苦労でした。アメリカではブラジリアン柔術はとても人気があり、あちこちに道場があるのですが、「柔道」と看板を掲げながらも入ってみると混合格闘技だったりすることがよくありました。何件かの道場を回るうちに、私の知る柔道を練習している道場に出会い、子どもたちと一緒に稽古することが出来るようになりました。

道場には色々なスタイルで練習する人々がいた

 アメリカで柔道を始めて驚いたのは、とにかくいろんな人種がいるのは勿論ですが、色々なスタイルで練習する人たちが集まっているというところでした。柔道と平行して柔術や新体操、サッカー、レスリングやアメリカンフットボール、総合格闘技など様々なスポーツを習っている方がたくさんいます。別のスポーツがシーズンに入ると、そっちに行くことが多く、その期間はほとんど稽古に来なかったりすることがごく普通にあります。柔道がメインだけど、他のスポーツは柔道を向上させるためにやっているという人もいれば、別のスポーツがメインで柔道は楽しむ程度、という人もいるわけです。それぞれが思い思いの目標をもって練習していて、それをお互いが干渉したり批判したりするわけでもなく、柔道の道場では柔道の稽古という時間を共に楽しんでいるわけです。

自分が高校生の頃の柔道の稽古というのは、張り詰めた空気の中で皆が必死に稽古し、さぼる部員がいたら先輩や先生たちからよく叱られたりしていました。しかしここには何とも自由な空気が漂い、時折音楽も流れてきたりして、各々が自分の目標とするレベルを目指して時間を共有するという雰囲気が出来上がっていたのです。道着も柔術の道着で来る人、道着の上下の色が全くあってない人、髪の毛が赤に染まっている人もいれば、モヒカン頭の人、ブレイズやコーンローという、ブラックの人たち特有の髪型で来る人もいて、柔道のスタイルも身なりもみんなバラバラです。でも、それが不思議と心地よかったのです。

日本では柔道の強豪校の子どもたちが、よくみんな五厘刈りにしていたり、女の子たちも男の子にも負けないショートヘアだったりというのをよく見かけます。皆で気合いを入れる、または手入れがしやすいという理由もあるのでしょうが、みな、顔も性格も違うのに同じ髪型でなくてもいいのになと思うことがよくあります。アメリカではみんなバラバラの見た目とスタイルながらに同じことを楽しむという自由な空気が漂っており、それがごく普通なのです。

柔道の先生は生徒の違いに合わせて教えていた

それでは、なぜアメリカの道場では様々な人がいろいろなスタイルで練習しているのに、日本の道場では難しいのでしょうか。もちろん社会的文化的な背景が違います。学校の部活動と民間のクラブでは当然異なります。それでもわたしが強く感じたことは、日本とアメリカの柔道の先生の考え方の違いでした。一人一人、目的やニーズが違っているのが当たり前であり、指導者が一人一人に違いに合わせて教えるのが当たり前という考えです。誰がどんな目的や背景、価値観をもっていても、誰もが柔道を楽しむことができるように教えるべきだ、という考えが特にアメリカの先生は強いように感じたのです。

USA Judo Junior Campにて

アメリカの病院には様々な患者と様々なナースがいた

こんなアメリカ社会で生きていく中でも、マナーや社会倫理などというものはもちろん存在します。例えば、学校に時間通りに行く、仕事を休むときには電話をする、そういった社会一般のルールは勿論ですが、社会が一定の秩序を保って機能するためにはやはり欠かせないルールというのが存在するわけです。しかし、全てにおいてとは言いませんが、人それぞれの価値観や生き方、各々のスタイルというものに関しては、共通したルールを作らない、そんな雰囲気がアメリカではあるように思います。色々な生き方が存在し、人生の軌道修正が効くのがここアメリカの良さでもあります。

ナースとして見るアメリカの現実をみてもそうです。私が働いていた病院はテキサス州ダラスのダウンタウンにある大きな大学病院です。第一次レベル外傷治療が出来る救急病院に指定されているため、ありとあらゆる症例が運ばれてきます。人種も勿論、言語も様々です。テキサスはアメリカ合衆国の中でもヒスパニック系の移民が多く住んでいる州であり、スペイン語しかしゃべることが出来ない患者がかなりの確率でやってきますし、刑務所からの患者もよく来院します。ホームレスもいれば、違法移民も来ます。病院にはスペイン語の通訳は常駐してはいますが、全言語をカバーすることは難しいので、各病棟には通訳サービスに接続できるビデオシステムが常備されています。言語の違いがある場合、通訳を入れることは医療従事者の義務なのです。そして、どんな状況の患者であっても同じクオリティーの看護を提供するのはナースの義務なのです。ナースたちのバックグラウンドも様々です。元フライトアテンダントだった人、保険の外交員だった人、56歳にして新人ナースとして入職してきた人、と様々でした。そんな人たちに囲まれて働けるというのはとても貴重な時間でした。

誰にでも同じクオリティの看護を提供する

アメリカの病院でナースとして働いていると、とにかく色々な症例に出くわし、びっくりする毎日です。日本でナースをしていた時には絶対に考えられないような現実がこの国にはあります。そして、それらの症例を前にひるむことなく、平然と対応しているナースたちがいたのです。そうした対応が出来るようになるには、大学における看護学生への教育にも秘密があります。「全人的看護」の重要性を教える授業や講義が非常に多く、大学側もそこに重点を置いています。患者として病院に来た人々が人種や肌の色、社会的背景や言語の違いによって受ける看護の質が変わってはいけないということを看護師たちは徹底して教育されますし、全ての人たちに同じクオリティーの看護が提供できないことはこの国では違法行為なのです。

先日、私はアメリカの大学の看護教育学修士課程を修了しましたが、この授業や講義の半分以上は、「全人的看護」とはどういうものであり、それをどういう形で教育していくのか?ということに関するものでした。それほどアメリカでは重要なことなのだということを学びました。

Baylor University Medical Center Dallas の術後回復室のナース達と一緒に

みんな違うけどそれはそれでOK!

このように、私はアメリカで「みんな違うけど、それはそれでok !」と思えるようになり、色々な人たちともっと気楽にそして楽しく関われるようになり、そして自分が選んだ道も間違っていなかったのだと、自信を持って言えるようになったと思います。

そして、私は、アメリカの看護とアメリカの柔道に大きな共通点があることに気づきました。それは、アメリカのナースとアメリカの柔道の先生に共通する考え方です。一人一人の違いを当たり前と考える、そして、一人一人の違いに合わせてサービスを提供する、誰かと誰かが違うからといってサービスの質が変わってはならないということです。

柔道と看護、全く関わりのなさそうなものですが、実は大きな共通点があったのです。それに気づけたことは、ここアメリカで柔道を出来たこと、そして看護教育を受け看護師として勤務できたからこそ体得できたのだと思っています。そして、自分のやりたかったことを貫けたこと、そして貫いたからこそ学べたことに日々感謝しています。

皆さんも、何かやりたいと思っていることがあったら、是非やってください。遅すぎると思ったのなら、今日始めましょう。色々な理由がある時はその一つ一つの理由を考えてみませんか?案外、自分が作り上げた言い訳である時が多いものです。人生は一回きりです。ナースとして、生きたくても逝かなければならなかった人たちを沢山見てきました。だからこそ、これは私からのメッセージです。やりたいことは絶対やりましょう、思いっきり。そして、それは必ず出来ますよ。出来るか出来ないか、それを決めるのはあなたです!

Chiharu GiGi Davis

山口県防府市出身。高校時代と短大時代に柔道に熱中するも、膝の怪我にて柔道から離れる。短大卒業後より看護師として臨床にて12年勤務の後にアメリカに単身渡米。アメリカ看護師としてBaylor University Medical Center Dallasにて10年勤務。その間、グランドキャニオン大学にて看護教育学修士課程を修了する。日本に活動拠点を移すために2017年秋に日本に永住帰国。現在、judo3.0のメンバーとして活動する中、英語で柔道を教えるなどの活動も行なっている。

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