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嘉納治五郎の柔道と教育26 「かわいい子には旅をさせよ。」と「他人の飯を食う。」

1回から25回までは、柔道は何処に行こうとしていたのか、という点をみてきた。今回からは、新しい仕組みを提案し、これから何処に行くか、という点をみていく。結論から先にいうと、これから本稿で検討する仕組みは、

  • 異なる地にある道場にいって、その地の先生の指導を受け、その地の仲間たちとともに稽古をすること、
  • そして、可能であれば道場の関係者宅にホームステイをさせていただき、一定期間その地で生活する、

というものである。異国の道場にいくことがベストであるが、参加者の成熟度に応じて国内の道場でもかまわない。

柔道クラブへの留学のようなものであるが、馴染みのある表現を用いるならば、「武者修行」(no title)である。

なお、ここで「新しい仕組み」とはいったが、柔道を通じた交流は、様々な関係者が昔から実施してきたものであり、その意味で「新しい」ものでは全くない。本稿は、この武者修行を、組織的、計画的、継続的に実施しようという意味で「新しい仕組み」といってるだけにすぎない。

つまり、柔道の仕組みとして代表的なものは、なんといっても選手権大会であり、たいがいの柔道の修行者は、何らかの大会に参加する機会が与えられているが、本稿は、このような仕組みと同様(組織的、計画的、継続的に)、すべての柔道の修行者が、異国でホームステイをしながらその地の道場で稽古をする機会に恵まれることを企図している。

その詳細はこれからみていきたいと思うが、今回は、再び嘉納に遡ってみていく。

嘉納のような人間を育成する

さて、柔道の長期的な目標は、精力善用・自他共栄という原理を体得し、それを社会生活すべてに応用して生きる人間、「おのれの欲するところを行って他の人もそれに満足する行いを理想とし、それに向って日夕あらんかぎりの力を尽くそうと心掛けるような人」(嘉納・体系・6巻47~48頁)を育成することである。

この目指すべき人間像を明確にすることが成果を出すうえで最も重要なポイントの一つになるが、これを端的にいうならば、嘉納のような人間を育成することである。

なぜなら、嘉納は、柔道という世界において、実際に精力善用・自他共栄を体得して社会百般に応用した最初の人間、すなわちロールモデルであり、そもそも柔道は、柔術の稽古を通じて「道」を体得した嘉納が自らの経験を世に広く分かち合おうとして作ったものだからである。

そこで、長期的な目標を達成する仕組みを考えるうえで核心となるのは、「嘉納のような人間を育成するためにはどうしたらいいのだろうか。」という問いだろう。

そこで、今回は、

  • そもそも嘉納はいかにして嘉納(精力善用・自他共栄を体得・応用した人)になったのだろうか、もし、嘉納を嘉納その人にしたきっかけを現代に再現することができれば、嘉納のような人間を育成することができるのではないか。
  • 嘉納は、どのようにして「嘉納のような人」を育成したのか。嘉納と同じことをすれば、「嘉納のような人」を育成することができるのではないか。

と考え、ここから新しい仕組みの胚芽を見出していく。

柔道と教育のきっかけ

そもそも嘉納はいかにして嘉納(精力善用・自他共栄を体得・応用した人)になったのだろうか、もし、嘉納を嘉納その人にしたきっかけを現代に再現することができれば、嘉納のような人間を育成することができるのではないか。

この点、嘉納には様々な顔があり、それぞれ無数のきっかけがあるが、もっとも嘉納らしさが現れている顔とは、なんといっても、柔道と教育、すなわち、講道館柔道の創始者と教育者としての顔だろう。それでは、嘉納は、どのようなきっかけがあって、柔道創始者となり、かつ教育者になったのだろうか。まず、柔道からみていく。

柔道創始

嘉納が柔道を創った経緯は第3回(第3回 ただ勝敗を主眼とする武技は維新後の時世に適せず。 – 勇者出処 ~嘉納治五郎の柔道と教育~)でふれた。

嘉納が柔術を習い始めた理由は、学校でクラスメイトから殴られるなど「きわめて虚弱なからだであって、肉体的にはたいていの人に劣っていた。それゆえ往々他から軽んぜられた。」から、「たとえ非力なものでも大力に勝てる方法であるときいていたので、ぜひこの柔術を学ぼうと考え」たからである。

つまり、利己的な動機で柔術を習い始めたのであるが、柔術の稽古をしたところ、嘉納は、「柔術のため身体の健康が増進するにつれて、精神状態も非常に落ちついてきて、自制的精神の力が著しく強くなって来た」ことなどを実感することによって、「かかる貴重なものは、ただ自ら私すべきものではなく、弘くおおいに人に伝え、国民にこの鴻益を分かち与うべきであると考えるに至った」。

現代風に言うならば「なめられたくない」と思って柔術の稽古をしているうちに、世のため人のために柔術を再構築しようという利他的な動機が生まれたのである。

いったい、嘉納に何が起こったのであろうか。何がきっかけで、嘉納は、柔術を再構築して柔道を創ると決意するに至ったのだろうか。

優れた素質

もともと嘉納には優れた素質があり、恵まれた教育環境で育ったことは確かである。嘉納は、幼い頃から儒学や外国語を学び、当時の国家的エリートの養成機関である東京帝国大学文学部に進学して政治学と経済学を学び、その後、学習院の教師として政治学と理財学などを教えている。

斎藤孝氏は、国家的エリートとして国際的に活躍できる華やかなコースにいた嘉納が、何故、廃れゆく武術に目を向けたのか、という点について、ここに、恵まれた才能を世のため人のために用いるエリートの本当の姿が見えると指摘し(斎藤孝・代表的日本人54頁)、また村田直樹氏は、柔術の再構築という壮大な作業を支えたエネルギーは一体なんであったという点について、嘉納の生来の負けず嫌いという性格と、高度な知性に基づく科学的思考や合理的精神の存在を指摘する(村田直樹・嘉納治五郎師範に学ぶ31頁)。

このように嘉納には、磨き上げてきた優れた資質があり、これらが柔道の創始に大きな影響を及ぼしたことは疑いないが、ここでは、嘉納の資質ではなく、柔術を再構成しようと思うに至ったきっかけとなる経験をみていく。

三つの道場

それは、嘉納が柔術の稽古を始め、講道館を創設するまでの間に、師が亡くなったことに起因して、主に、三人の師に学び、三つの道場の仲間たちと稽古した、という経験である。

嘉納は、数え年18歳のとき(明治10年)、東京大学文学部に入学した頃、整骨師が昔の柔術家の名残であるという話を聞き、都内の整骨師を探しまわる。柔術はやっていない、又は昔やったことはないが今はやっていないという者がほとんどであったが、あるとき、日本橋の人形町通りの整骨師で、昔、天神真楊流の柔術を修めた八木貞之助氏に会い、同門の福田八之助先生を紹介してもらう。

この福田先生の下で嘉納の柔術稽古が始まるのであるが、約2年後の明治12年8月、この福田先生は亡くなる。そこで、嘉納は、福田先生の師匠にあたる天神真楊流の家元、磯正智先生に師事し、稽古を続ける。

しかし、この磯正智先生も、約2年後、明治14年6月に亡くなる。そこで、嘉納は、友人に紹介してもらい、徳川幕府の講武所において教授方を務めていた飯久保恒年先生に師事し、起倒流の柔術を学ぶ。この飯久保先生に習い始めて約1年後(明治15年5月)、嘉納は、講道館を設立した。

したがって、嘉納は、柔術の稽古を始めてから講道館設立まで、福田先生、磯先生、飯久保先生の三人の師に学び、三つの道場の仲間たちと共に稽古をしたことになる。

この三つの道場で学んだ経験がきっかけになって、嘉納は、柔術の研究に没頭することになる。その理由は、それぞれ先生の教えるところが異なっており、異なるということが新鮮な体験であったうえ、何が正しいか、自分で判断しなければならなかったからであった。

幼少のころに私は昔のいわゆる柔術というものを学んだ。ところがその柔術というものには根本原則がなかった。一人の先生は、人を投げるにはこういうふうに腰をもっていってこういうふうに手を引く、あるいは咽喉をしめるにはこういうふうにする、仕方はいろいろ教えられたが、こういう原理によるとか、この原理の応用だとかいう意味には一向教えられていなかった。

それゆえに段々と研究してみると、一人の先生の教えるところと他の先生の教えるところが違っている。どっちが正しいかということを判断する根拠がない。これが私が柔術に深い研究をやり始めた理由である。

結局いろいろの先生からいろいろの流派にわたって学んだけれども、一つの教え方と他の教え方が違った時には、どうしてこれを解決するかということに苦しんだ。それから段々研究の結果、ついに今のような原理を考え出したのである。己の果たそうと思う目的のために、精力を最善に活用すなければならぬ。それですべてが説き明かせた。(嘉納・体系1巻99頁)

特に、柔道を作り上げる上では、天神真楊流と起倒流という二つの異なる柔術を学んだ影響が大きかった。

・この飯久保先生について始めて起倒流を習うたのであるが、これまで修得した天神真楊流とくらべて、かくまでもへだたりのあるものかと、驚きもしかつ感じもした。

我流では咽喉をしめるとか、逆をとるとか、押し伏せるとかいうことを主としている。投げもやるにはやる、巴投とか、足払いとか、腰技とか、やることはやったが、起倒流とはよほど掛け方などに違いがあることを発見した。

飯久保先生は当時すでに五十歳以上に達しておったが、乱取も相当によく出来たので、自分は熱心に稽古をした。最初はなかなか及ばなかった。

起倒流の形は天然真楊流のそれとはまるで主眼とする所を異にしている。自分は本気に新しい研究に没頭し、真剣にわざを練った。(嘉納・著作集3巻22頁)

ここで嘉納は、先生の指導内容や流派の違いにしか触れていないが、当然ながら、新しい先生や新しい仲間たちから様々な影響を受けているだろう。

ここから分かることは、もし嘉納が福田先生だけの指導を受け、その道場の仲間たちとだけ稽古をしていたら、つまり、福田先生のほか、磯先生や飯久保先生に師事し、その道場の仲間たちと切磋琢磨する機会がなければ、おそらく柔道を創るということはなかったのではないか、ということである。

異なる地にある道場に行き、新しい師に習い、新しい仲間とともに切磋琢磨する、このような経験があってこそ、嘉納は、柔術を再構築して普及させるという途にでたのである。

教育者

次に、嘉納が教育者になったきっかけをみていく。

嘉納が教育者になった理由については、第3回第2回 三つ児の魂百まで – 勇者出処 ~嘉納治五郎の柔道と教育~でふれた。教育者としての略歴は、概ね次の通りである。

嘉納は、数え年23歳で学習院の教師となり、学習院教頭、熊本の第五高等中学校長、東京の第一高等中学校長などを経て、数え年34歳のとき、高等師範学校長となり、以来高等師範学校長として公教育の教師の育成に努め、数え年61歳にて退職。その後、貴族院議員などを務めながら教育に力を尽くす。 その間、中国からの留学生約3000人を受け入れ、体育の振興のためオリンピックを日本にもたらすなど様々な教育事業を行った。

このように嘉納は、生涯、教育者として力を尽くしたが、どのようなきっかけがあって教育者となる決意を持つに至ったのだろうか。

腰掛けとしての教師

そもそも嘉納は、大学在籍中、数え年23歳のときに学習院の教師となったが、当初は、今で言う「腰掛け」のような認識でおり、将来は、政治家などになることを考えていた。政治学や経済学を学んだのはその理由からである。

明治10年に東京大学が創設せられ同大学文学部の初年級に入り、四か年の過程を経て明治14年に政治学および理財学を専攻科目として卒業し、引き続き哲学の選科に入学したが、政治や理財を専攻した動機は、当時自分は、人間として最も有意義なる仕事をしようと思えば、政治学、理財学等の学問を修むるに如くはないと考えたからである(今日でいう経済学は当時の理財学の中に含まれておった)。

(中略)

明治十五年の一月から学習院に研修科というのが出来て、やや年長の生徒に政治・法律・経済等の課目を、一組には邦文をもって、他の一組には英書によって教える事になったので、私は招かれてその講師となった。もちろんその時は一生そうした道を辿ろうと決心したためではなくて、他日政治界や経済界に活躍する準備として、それに関係ある学問を教えつつまた研究もしようという考えであった。

しかし、嘉納は、もともと、人に教えることが好きな性分であることもあって、職務をこなすうちに、教師としての仕事のやりがいなどを感じてくる。

ところが、そのうちに教授になり、幹事となり、教頭になるに及んで、専門の学問のみならず、教育一般の事に関する研究にも力を尽くさねばならぬ必要が生じてきた、元来私は人を教えるという事には興味をもっておったから、役目の都合上そういう事にたずさわる事はけっして迷惑ではなかった。

ヨーロッパ視察旅行

しかし、この段階であっても教育者として生涯を生きると決めたわけではない。嘉納に決定的に影響を与えたのは、数え年30歳のとき旅立った、1年4ヶ月(明治22年9月から明治24年1月)にわたるヨーロッパ視察旅行である。*1

嘉納は、往復の航海の期間を除き、約1年2ヶ月間、欧米の学校や文部省、大学を訪問し、次々と学校関係者などに会い、話を聞いていった。主にドイツとフランスの教育を中心に見たようであるが、例えば、著名人だと、フランス第三共和制における公教育の中立性、いわゆる「ライシテ」の立役者であるグレアールやヴュイッソン、大日本帝国憲法を制定した伊藤博文に憲法を講義した法学者グナイストなどに会っている。

嘉納は、政治家や宗教家にも関心をもっていたが、このヨーロッパ視察旅行をきっかけとして、政治や宗教より教育のほうが意義があると考え、教育者として生きることを決める。以下、少々長くなるが、嘉納の回想を引用する。

・・そこで、明治二十二年九月、宮内省より「欧州行被仰附」という辞令を受け、ただちに横浜を発しマルセイユに向い、しばらくパリ、ブリュッセル等に滞在の後、同二十二年末ベルリンに到着した。ベルリンには約7カ月滞在し、その後、同処を本拠として英露墺その他欧州の主なる国々を巡回して、明治二十四年の春帰国した。

私は、元来、政治学、理財学を専攻した関係上、欧州に行っても主としてその方面の学問を研究し、余暇をもって教育一般の事も視察してきたいと考えておった。

ところが私のベルリン滞在中、当時の宰相ビルマルクが職を去り、カプリヴィがその後をついた。ビスマルクは人も知る当時の世界的な人物で、飛ぶ鳥も落とす人気と権力とをもった大政治家であったが、一度その職を去ってしまうと、多数の人からの尊信は一時に薄らぎ、世界に対してはもちろん自国においても、その勢力において在職当時の面影はほとんどなくなってしまった。

それを眼のあたり見て私はつくづく考えた。ビスマルクのごとき世界的の大人物ですら、なおかくのごとくであるとすれば、普通の文武の大臣などは一度野に下った後の声望は実に語るに足りないものであろうと。

不世出の英雄と呼ばれたナポレオンですら、今日ある人は「ナポレオンはナポレオン法典とビートルートのほかフランスに何を残したか」などと評するものがあるくらいである。ナポレオン死してわずかに百年余りの今日すでにかくのごとき有様である。その他古く歴史上にあらわれる文武の功労者、英雄、豪傑なども多くは皆この類である。

政治も軍事も尊重すべき人間の事業には違いない。しかしながら、最も大いなる志を有する者の真の志を満足するに足るべき大事業であるかどうかはすこぶる疑問である、と自分はつくづく感じた。

宗教も私はかねてから、偉大な力を有してるものであると思っていた。東京を出発して欧州に赴く前、京都に行って東本願寺の新建築を見た時、短日月の間にこれだけの大建築をなしとげた宗教の偉大な力を痛感した。かつ、京都における大建築物の多くは寺院であった。また欧州に行った時マルセイユから、リヨンに立ち寄った。その時サンフルヴィエの大寺院の新築が出来たばかりで大いに旅行者の注意を惹いた。

日本で見た東本願寺の大伽藍、リヨンで見たサンフルヴィエの寺院、いずれも人をして宗教の力がかくのごとき建築を可能ならしむるのであるかという感を起さしめた。その後ドイツでケルンを訪えば過去幾百年の歳月を経て出来あがったケルナードームがあり、英国に杖を曳けば、ウェストミンスター・アッベーあり、セントポールル・カセドラルあり、ロシアに旅すれば、イサックあり、カザンあり、その他欧州いたるところに大寺院が聳えたっていて、宗教の偉大な力は四隣を圧していた。目に見ゆる大建築物のあるがごとく、これまで宗教がヨーロッパの精神界に及ぼした力の偉大であった事も歴史が証明しているところである。

しかしながら、それからそれへと諸国を経巡って、種々の事実を目撃し、またいろいろの人と、腹蔵のない意見の交換をしてみると、宗教が人間の上に偉大なる力をあらわし得たのは、もはや過去の事であって、現在より以後将来においては、宗教によって大いなる力を後世に及ぼす事は望み得られない事であるという結論に到達した。

しからば、幾千年の後まで人間の上に偉大な力を及ぼし得るものは何であろうか。

それは教育の事業である。昔は人間が自然の力を駕御することが出来ず、これを恐れ疑うよりほかに道がなかったのが、今日はこれを研究してある程度までこれを支配し得るようになったのは科学の研究の賜物であり、この科学の研究の結果を促進せしめたものは教育の力である。生まれて善悪の何たるかを弁えぬ、無智文盲の者に正しい理想を与えその蒙を啓くのも教育の力である。

ここにおいては私は、この人間を導き、人間を作り、科学の研究をすすめる教育の事業こそ後世までも人心に最も偉大なる力を及ぼすものである事をしみじみ痛感して、これをもって自分の終生の事業たらしめんと深く決心するに至ったのである。(嘉納・体系10巻355頁~357頁)

「かわいい子には旅をさせよ。」という格言があるとおり、旅が人を大きく成長させることは良く知られている。教育に仕組みとして取り入られたものとして最も著名なものは、18世紀の英国の貴族の教育方法であったグランドツアーグランドツアー – Wikipediaだろう。

生涯の方向を決定

加藤仁平氏は、このヨーロッパ視察旅行は、嘉納の「生涯の方向を決定したといってもよいほど大きな意義をもっている」と指摘する。

嘉納は一生のうちで前後9回欧米を視察したが、第一次の洋行は生涯の方向を決定したといってもよいほど大きな意義をもっている。学習院教育といったような一つの立場にとらわれぬもっと自由な立場に立って、何か、総理大臣の仕事よりも、千万長者のそれよりも偉大なものを見出そうと、胸をふくらませながら欧州各地を見て歩いた。

はじめはサン・フルビエール等を見て「宗教ほど偉大なものはないとと心が動いたが、欧州では宗教は抜けがらだ。未来なしと看破したから教育者になった。」というのである。欧州の宗教をぬけがらと見ることの是非は別として、嘉納としてはこの旅行を通じて、断然宗教をすてて教育第一主義におちつくこととなった。このことはその後の教育や柔道に合理主義を以って一貫することとも関連をもつ。

まのあたり鉄血宰相ビスマルクの失脚を見たことにも大きな意義がある。「政治家も一度地位を失うと仕方がない。ナポレオンも没落してからは、フランスに残した何ものもない。人間として生まれて偉大な仕事をするためには、何としても教育だと思うようになった。桂が何を残した。伊藤だって人間を支配することは少ない。大いなる志をもつもののやるべきことは教育が第一であると、かくして主に教育に着目して帰った。」と語っている。

世界的な大政治家に対するこうした批評はともかくとして、嘉納がビスマルク、ナポレオン、伊藤博文、桂太郎らの歴史的な偉業と比較して教育にこれほどまで重大な意義を発見したこと、そしてそれに生涯をささげたことは事実であり、しかもそれが単なる夢や希望として終わらなかったことも事実である。

明治以来、大宰相の印綬を帯びたものは少なくないが、死後年を追うてその業績の光を増すこと、嘉納のごときが果たして幾人あるであろうか。嘉納の生涯こそは、世の青年教育家に大いなる夢と希望を与える無二の福音というべきものではなかろうか。(加藤仁平・嘉納治五郎96頁)

以上から分かることは、もし、嘉納がこの海外への視察旅行にいかなければ、教育の偉大さを真に理解し、教育者として生涯を生きるということはなかったかもしれない、ということである。

異国の地を踏み、自国の文化と異なるものに触れること、

このような経験こそが、嘉納をして、教育者として生きるという決意をさせ、教育における精力善用・自他共栄の道を歩みだしたきっかけになったといえる。

新しい仕組み

以上、「嘉納のような人間を育成するためにはどうしたらいいか。」から「嘉納は、どのようなきっかけがあって柔道創始者となり教育者となったのか。」という問いをたて、そのきっかけを二つ取り上げた。

いずれにも共通するのは、それまでの日常と異なる世界にいる人々に触れたことである。多様性こそ創造性の源であるいうことはよく言われることであるが、嘉納は、異なるものに触れることを通じ、嘉納その人になっていたのである。

そこで、本稿が提示する仕組みは、

  • 異なる地にある道場に行き、一定の期間、その地の先生の指導を受け、道場の仲間たちとともに柔道をする機会を、あまねく柔道修行者に提供する

ことである。外国の道場が最も適当であるが、年齢など本人の成熟度に応じて、国内の道場でももちろんかまわない。

海を渡り、見ず知らずの道場にいって稽古をし、その地で一定期間生活をすること、これは、特に青少年にとっては、まさしく「冒険」である。そして後にふれるが「英雄の旅」である。

異なる世界に行き、うまく意思疎通ができない、うまく人間関係が築けないなど種々の困難に直面しながらもそれを乗り越え、道場の先生や仲間たちと絆を結び、涙があふれてとまらないような別れをして、一回りも二回りも大きくなって還ってくる。このような「武者修行」の機会があれば、嘉納のような人間を育成することができるのではないだろうか。

嘉納の教育方法

さて、もう一つの問いにもどろう。「嘉納のような人間を育成するためにはどうしたらいいのだろうか。」という問いから、次の問いを立てる。

  • 嘉納は、どのようにして「嘉納のような人」を育成したのか。嘉納と同じことをすれば、「嘉納のような人」を育成することができるのではないか。

嘉納が行ったことは無数にあるが、本稿が着目するのは、嘉納塾と宏文学院(中国人留学生への教育)である。

嘉納塾

嘉納塾については、本稿の第9回から第11回でふれた。

嘉納は、数え年23歳(講道館設立年)に、知り合いの子弟を預かり、起居をともにしてし、以後38年間、約350人の子弟に教育を施した。それでは、何故、嘉納は、嘉納塾を開いたのか。

それは、「親の膝下にあってはついあまやかされて自然的に困苦欠乏を味わい得ないという人々」は、「一身を誤ってしまう。」おそれがあるから、他人の飯を食う機会を提供する必要がある、と嘉納は考えたからであった。

わが塾においては、幼年の時分から労働を貴ぶことを教え、困苦欠乏に慣れさせるように努めている。あえてわが親愛なる塾生を苦しめてよいと思っているわけではない。しかし、自分は、幼年の時分から困難を忍び労働に慣れるということが、他日、困難なる事業に従事し、繁劇なる世に処して屈しない実力を養う最上の手段であると考えるからである。

自分は、目前の愛に引かされて、子供にわがまま勝手を許した家庭の子供を多く見た。かくの如き子供は、自分の務めを尽くすことを知らない。他人のためになさねばならぬ義務も、自分の気の向かぬ時にはこれを怠り、自分の発達のために必要なる勤勉も、自分の気に向かぬ時にはこれをなさない、学校に通うことがいやになると学校を休む。厳しく咎められれば偽りをいう、遂にかくの如き子供はその一身を誤ってしまう。

(中略)

当時自分のものに托せられた子供の中には、財産も豊かで書生や召使などから大事に取り扱われるために、ついわがまま・懦弱に流れるというものもあり、また本人必ずしも悪くはないのであるが、境遇のために邪道に陥るというようなものもあったりするので、いずれの親からも厳格な教育をという注文を受けた。

自分自らも、昔から困窮の間に人となったものは自然精神も確実で、敢為の気象も養われ、やがて有為の人物になっていると信じていた。それで親の膝下にあってはついあまやかされて自然的に困苦欠乏を味わい得ないという人々は、塾において修行する必要があると信じたのだ。

親元を離れ、教師や仲間などの他人とともに生活をしながらする教育は、イギリスのパブリックスクールや寄宿学校ボーディングスクール – Wikipediaが著名であるが、教育として効果があることは広く知られているだろう。

江戸時代後期の大原遊学大原幽学 – Wikipediaの換え子教育(子どもを一定期間、他人の家に預ける)もあげられる。

このように、嘉納は、嘉納のような人間を育成するためには、「他人の飯を食う」経験が必要であると考え、嘉納塾を開いて、子どもたちと起居をともにした。したがって、柔道の修行者に、特に青少年に対し「他人の飯を食う」機会を提供することは、嘉納のような人を育成するうえで大きな効果があるではないだろうか。

宏文学院

もう一つは、宏文学院である。

嘉納は、13年の間に、中国からの留学生8000人を日本に受け入れ教育を提供したが、それは東亜民族ひいては「人類の共栄」(講道館文化会)のためであった。

宏文学院は、中国の学生を教育することによって、東亜民族の共栄を計ろうとする嘉納の遠大なる理想に基づいて建てられたもので、和田猪三郎の報告に「先生はこの教育事業について随分多額の資財を自ら弁じて居られることをひそかに知り驚嘆した」とあるように経済的にも大きな犠牲を払いながらの奉仕であった。(加藤仁平・嘉納治五郎137頁)

嘉納は、自らのヨーロッパ視察旅行の経験から、外国で学ぶことの影響を良く知っていたのだろう。先にふれたことと重複するが、嘉納のような人間を育成するためには、異国の地で学ぶことが効果があると考え、国内外を問わず、そのような機会を積極的に提供したのである。

まとめ

以上より、本稿は、柔道の長期的な目標を確実に追求する新しい仕組みとして、

  • 異なる地にある道場にいって、その地の先生の指導を受け、その地の仲間たちとともに稽古をすること、
  • そして、可能であれば道場の関係者宅にホームステイをさせていただき、一定期間その地で生活する、

という機会をあまねく柔道の修行者、特に青少年に提供することを提案する。

要は、柔道クラブへの留学であり、武者修行であり、道場を中心に形成されるコミュニティーを活用して「かわいい子には旅をさせよ」と「他人の飯を食う」という機会を作り出すものである。

また、この冒険に旅立つことは、嘉納が三つの道場にいって柔道を作り上げ、ヨーロッパ視察旅行にいって教育者として生きる決意した経験をなぞらえるものであり、

この冒険に旅立った者を受け入れることは、嘉納が嘉納塾を開いて、多くの子どもたちに対し、「他人の飯を食う」機会を提供し、また、中国人留学生を多数受け入れ、異国で学び生活する機会を提供したことをなぞらえるものである。

以上、今回は、嘉納の足跡から新しい仕組みの萌芽をみてきたが、次回は、柔道におけるこれまでの仕組みと比較しながら、新しい仕組みをみていきたい。

*1:嘉納は、船で欧米に向かう途中、上海、広東、香港、サイゴンなどに立ち寄り、フランスのマルセーユ到着後は、リヨン、パリ、ドイツのベルリン、南ドイツ、スイス、オーストリア、ロシア、スウェーデン、デンマーク、オランダ、イギリスなどを視察し、帰国途中は、アフリカのアレキサンドリアからカイロ、スエズのイスメリア、英領エーデン(南イエメン)、コロンボ(スリランカ)、サイゴン(ベトナム・ホーチミン市)香港、上海に立ち寄っている。

※本記事は、2010年8月から酒井重義(judo3.0)によってブログで連載された研究論考「勇者出処~嘉納治五郎の柔道と教育」の再掲です。

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