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嘉納治五郎の柔道と教育41 これからの地球からみた柔道(通過儀礼~神話と祭り~)(3)

通過儀礼(イニシエーション)が子どもを大人に変えることができた理由は何か。

前回、「冒険」「友情」という視点からみたが、今回は最後に「神話」という視点からみていく。イニシエーションでは子どもたちにその部族の神話が伝えられ、これが大きな効果をもっているのであるが、それは何故だろうか。

物語の効能

「神話」とはある種の「物語」であるが、人は「物語」を得ることによって変わる。以下、心理療法家の河合隼雄氏が相談を受けた実例を見ながらみていきたい。子どもを失い、生きる気力を失った父親が「物語」を得たことによって元気を取り戻した例である。

私のところにビジネスマンの方が相談に来られました。彼には2人の男の子がいましたが、珍しい病気に罹って、相次いで2人とも死んでしまわれた。息子を次々と失ったショックから完全な抑うつ症になられて、仕事も手につかない。何もできない日々が続いていたのですが、あるお坊さんに会われて、お話を聴くようになりました。

お坊さんに「私と一緒に祈りましょう」と勧められ、一緒に仏さんに祈っておられた。お祈りをしているうちにそのお坊さんが、「あなたの前世は非常に悪くて、その償いをするために、あなたの2人の息子さんは、あなたの罪を背負って早く死んでいったことが判った。この世に残ったあなたはちゃんと生きて、これからの人生を息子さんの菩提を弔うことに注ぎなさい」と話された。

それがその方に通じて、元気を取り戻され、後に子どもさんもできました。

しかしながら、「これはいいことを聴いた」からといって、私が来談者に「判りましたよ。あなたの前世が悪いんです」と言っても、ほとんどの方が笑われるだけで納得しないでしょう。しかし、この前世の報いの物語は、この方にはピタッと合って、しかも結果はものすごくプラスのことが起こりました。「なぜ2人の息子は死んだのか」という問いに対して、「1人は珍しい病気で、2人目のお子さんの病気はよく死ぬことがあります」と説明しても納得できない。「私」にとっての何々という場合には、真実ではなく、その方の「物語」が重要なのではないか。

(河合隼雄「物語の意義について」No.835(平成14年4月)号)

http://www.gakushikai.or.jp/magazine/archives/archives_835.html

父親は二人の男子を喪い何もできない日々を送っていたが、「わが子は、自分の代わりに自分の罪を背負ったからこの世を去った。」という「物語」を得ることによって劇的に変わった。一体ここでは何が生じたのだろうか。

それは「物語」によって「意味」や「つながり」を得た点にある。

病気で死んだ、という科学的な説明は、父親にとって何ら意味はなかった。ところが「わが子は自分の前世の罪を背負った」という物語によって、父親は子どもの死に「意味」を見出した。

哲学者の中村雄二郎氏は、「神話の知の根源にあるものは、私たちをとりまく物事とそれから構成されている世界とを宇宙論的に濃密な意味をもったものとしてとらえたいという根源的な欲求」(「哲学の現在」150頁)と指摘するが、まさしくこの父親は、子どもの死について「宇宙論的に濃密な意味をもったものとしてとらえたいという根源的な欲求」をもっており、物語によってこれが満たされたからこそ、生きる気力を取り戻したのである。

別のいい方をすれば「つながり」である。

河合隼雄氏は、例えば、一本の木を例にあげて、それはそのまま見たら単なる木であるが、「お祖父さんが還暦に植えた木」という「物語」を得ると、木に親しみが湧いてくる。それは物語によって本人と木との間に「つながり」ができたからであるという。

先の例でいうと、病気で死んだ、という科学的説明は、父親と子どもの死の間に「つながり」を生み出さなかった。しかし、自分の前世の罪を背負った、という「物語」は、父親と子どもの死との間に「つながり」を生み出した。父親は、子どもの死をもたらしたこの世界と再び「つながり」を得たからこそ、この世界に復帰することができたのである。

この点、小説家の小川洋子氏は、物語を書く意味について次のようにいう。

いくら自然科学が発達して、人間の死について論理的な説明ができるようになったとしても、私の死、私の親しい人の死、について何の解決にもならない。「なぜ死んだのか」と問われ、「出血多量です」と答えても無意味なのである。

その恐怖や悲しみを受け入れられるために、物語が必要になってくる。死に続く生、無の中の有を思い描くこと、つまり物語ることによってようやく、死の存在と折り合いをつけられる。物語を持つことによって初めて人間は、身体と精神、外界と内界、意識と無意識を結びつけ、自分を一つに統合できる。

人間は表層の悩みによって、深層世界に落ち込んでいる悩みを感じないようにして生きている。表面的な部分は理性によって強化できるが、内面の深いところにある混沌は論理的な言葉では表現できない。

それを表出させ、表層の意識とつなげて心を一つの全体とし、更に他人ともつながっていく、そのために必要なのが物語である。物語に託せば、言葉にできない混沌を言葉にする、という不条理が可能になる。

生きるとは、自分にふさわしい、自分の物語を作り上げてゆくことにほかならない。こうした意味合いの解釈に触れた時、私は初めて、書くことの意味が何の無理もなくスムーズに心の中心へと染み込んでゆくのを感じました。

(小川洋子・河合隼雄「生きるとは、自分の物語をつくること」125~127頁)

イニシエーションでは、神話によってこの「意味」と「つながり」が子どもに与えられた。これによって、子どもは、宇宙論的に濃密な意味をもった世界を得、身体と精神、外界と内界、意識と無意識を結びつけ、自分を一つに統合することができた。だからこそ、子どもはイニシエーションによって「別人」のごとく大人に変化したのである。

もっとも、神話がもたらす「意味」と「つながり」の深さや広さを想像することが難しい。なぜなら、近代以前と近代以降の社会には大きな隔たりがあるからである。この隔たりについては改めてふれるが、以下、神話がもたらした近代以前の社会の世界観についてみていきたい。

近代以前の社会の世界観

「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」

上記は画家ゴーギャンが問いた著名な絵画であるが、単純にいうと、古代社会や原始社会は、集団全員がこの問いに対する一つの回答、一つの世界観を共有していた。しかし、近代以降のヨーロッパ社会及びその文化を受け入れた社会では、啓蒙思想、科学技術、政教分離などにより、1つの神話を皆で共有することを止め、1人1人が自ら世界観を造りださざるを得ない社会となる。

この結果、近代以前、子どもは既にある世界観を受け入れれば足りたのであるが、近代以降、子どもは自ら世界観を作らなければならなくなった。この点に、子どもが大人になりにくい近代の特質があるのである。

河合隼雄氏は、親に暴力をふるう子どもが「どうして俺を生んだのか」と叫ぶとき、この近代の苦しみを見るという。

大人であるということは、その人が自分自身のよりどころとする世界観をもっている、ということである。一人前の人間として、自分なりの見方によって、世界を観ることができる。あるいは、自分という存在を、この世のなかにうまく入れこんでいる、あるいは位置づけているといってよい。もう少し深く考えると、自分という存在は、いったいどこから来て、どこへ行くのか、という問題に突きあたってくる。

家庭内暴力の子どもが、両親に向かって、「どうして俺を生んだのか」と怒鳴りつけるとき、それは無茶苦茶なことをいっているようだが、いったい人間はどこから来てどこへいくのかという根源的な問いを、両親に向かって発しているとも考えられるのである。衣食住に関して十分に与えさえすれば、それで親の役割は終わったと思っているのか、自分が生きてゆくのに必要な世界観の形成という点において、親は今まで何をしてくれたのか、と子どもたちは鋭く問いかけているのである。

仏教的世界観、あるいは民俗信仰などに基づく世界観を、ひとつの社会に属する人がすべて共有しているとき、この点についてはあまり問題はなかった。これらの世界観は、人々と世界の関係について述べてくれるものであった。しかし、近代になって自然科学が盛んとなるにつれて、自然科学的な知識は、これらの宗教的世界観が与えてくれる考えに一致しないところが多く、人々の心はだんだんと宗教的世界観から離れていった。しかし、実のところ、自然科学は強力なものであるが、人間がどこから来てどこへ行くのか、私はなぜこの世に存在しているのか、などという根源的な問いには答えてくれないのである。

(河合隼雄「大人になることのむずかしさ」180頁)

それでは、古代社会や原始社会における神話の「意味」や「つながり」とはいったい何であろうか。近代との違いは具体的にどこにあるのだろうか。

それは、古代社会や原始社会の人々は、超自然者(神)とつながりをもっており、自分と自分を取り巻く世界は超自然者(神)の被造物であると実際に感じていた点にある。

宗教学者のエリアーデ氏は次のようにいう。

・・イニシエーション的死と復活の経験は、新入者の基本的生存様式を根本的に変革するだけでなく、同時に彼に人間生活とこの世の聖性を、すなわちすべての宗教に共通な偉大な秘義を啓示するのである。その秘義とは、宇宙も、すべての生存様式もともに、神々または超人間的存在者の被造物である、ということである。この啓示は起源神話によって伝達される。事物はいかにして生ずるにいたったかを学ぶことによって、修練者は同時に、彼が「他者」(神)の被造物であり、かくかくの原初的事件の結果、一連の神話的できごとの帰結、要するに聖なる歴史の帰結であることを学ぶのである。

(ミルチャ・エリアーデ「生と再生‐イニシエーションの宗教的意義」46頁)

神話は、人々に超自然者、神、何らかの偉大なものとのつながりを与えていたのである。例えば、主に狩猟により生活をしてきた北米のウティマラ族の予言者は、開墾を拒否して次のようにいう。

ウティマラ族出身のスモハラと名づけるインディアンの預言者は、大地を耕すことを拒否した。

彼は言った、「われらすべての母を農耕によって傷つけあるいは切り裂きあるいは掻きむしることは罪である」と。

彼はさらに付けくわえる。

「私に土地を耕せというのかね?私はいわばナイフをとって、それをわが母の懐に突き刺してよいだろうか?私が死んだとき、彼女はもはや私をそのなかに受け入れてはくれないだろう。

私に土を掘り返して石を取り除けろというのかね?私は母の肉を切り開いて、骨を取り除くようなことをしていいのだろうか?そんなことをすれば、私はもはや彼女の身体の中に入って、再び生まれてくることはできないだろう。

私に草を刈って乾草にし、それを売って白人のような金持になれというのかね?わが母の髪を切るなぞという大それたことが、どうして許されようか!」

(ミルチャ・エリアーデ「聖と俗~宗教的なるものの本質について~」130頁)

この預言者と大地の間には、現代人からは想像がつかない濃密な「つながり」があることが分かるだろう。彼は実際に母なる大地(超越者)から生まれ、母なる大地とともに生きていることを実感している。彼にとって大地は実際に生きているのである。

エリアーデ氏は、彼らにとって「宇宙は<生き>て<話す>何物かである」し、「人間が宇宙のなかに認識する神聖性を、人間は自分自身の内に再発見する」という。

古代社会の宗教的人間にとって、世界はそれが神々によって創られたが故に現存する。すなわち世界の現存がすでに<何かを語ろうとしている>のである。世界は物言わぬものではなく、暗い透明なものでもない。それは決して目的も意味もない、生命なき何かではない。宗教的人間にとって、宇宙は<生き>て<話す>何物かである。世界が生きているということは、すでにその神聖性の一つの証拠である。なぜならそれは神々によって創られ、神々は人間に対して宇宙的生命のなかに身を示すからである。

このような根拠に基づいて、人間は或る文化段階以降みずからを小宇宙と見なしている。人間は神の創造の一部と成す。言い換えれば、人間が宇宙のなかに認識する神聖性を、人間は自分自身の内に再発見する。その結果、人間はその生命を宇宙の生命に相同なものとして定立する。すなわち、宇宙生命は神の作物として人間生存の模範となる。

(ミルチャ・エリアーデ「聖と俗~宗教的なるものの本質について~」155頁)

近代の啓蒙思想は、神話を迷信であるとして一掃したが、この「迷信」を失ったことによって「宇宙は<生き>て<話す>何物か」ではなくなってしまった。

この点が鮮やかに分かるのは、米国政府が、先住民族の「生きて話す何物か」である土地を取り上げていったとき、先住民族が米国政府に話した内容である。

以下少々長くなるが、1852年ころ、米国政府からの土地の購入の申し出に対し、先住民族の首長チーフ・シアトルが返信した内容である。

ワシントンの大統領は土地を買いたいという言葉を送ってきた。しかし、あなたはどうして空を売ったり買ったりできるだろう。あるいは土地を。その考えはわれわれにとって奇妙なものだ。もしわれわれが大気の新鮮さを持たないからといって、あるいは水のきらめきを持たないからといって、それを金で買えるものだろうか。

この大地のどの一部分も私の部族にとっては神聖なものだ。きらきら光る松葉のどの一本も、どの砂浜も、暗い森のどの牧草地も、羽音をうならせているどの虫も。あらゆるものが私の部族の思い出と経験の中では尊いものだ。

われわれは血管に血が流れているのを知っているように、木々のなかに樹液が流れているのを知っている。われわれは大地の一部であり、大地はわれわれの一部だ。香り高い花々はわれわれの姉妹だ。クマ、シカ、偉大なワシ、彼らはわれわれの兄弟だ。岩山の頂き、草原の露、ポニーの体温、そして人間、みな同じ家族なのだ。

せせらぎや川に流れる輝かしい水は、ただの水ではなく、われわれの祖先の血だ。もしわれわれが自分の土地を売るとしたら、あなたがたはそのことをよく覚えておかなくてはならない。湖の水面に映るどんなぼんやりとした影も、私の部族のできごとや思い出を語っているのだ。かすかな水の音は私の父の音なのだ。

川はどれも私の兄弟だ。それらは私ののどの乾きを癒してくれる。それらはわれわれのカヌーを運び、われわれの子供に糧を与えてくれる。だからあなたがたは川に、あらゆる兄弟に与えるような親切さを施さなくてはならない。

われわれが自分の土地を売るとしても、大気はわれわれにとって貴重なものであることを、大気はそれが支えるあらゆる生命とその霊を共有していることを、忘れないでほしい。われわれの祖父にその最初の息を与えた風は、また彼の最後の息を受け取る。風はまたわれわれの子供たちにいのちの霊を与える。だから、われわれが自分たちの土地を売るとしたら、あなたがたはそれを特別なところ、神聖なところにしなくてはならない。人間がそこへ行って、草原の花々によってかぐわしいものになった風を味わえる場所に。

あなたがたは、われわれが自分の子供たちに教えたのと同じことを、あなたがたの子供たちに教えるだろうか。大地がわれわれの母だということを?大地に降りかかることは大地の息子たちみんなに降りかかることを。

われわれはこのことを知っている。大地は人間のものではなく、人間が大地のものだということを。あらゆる物事は、われわれすべてを結びつけている血と同じように、つながり合っている。人間は生命を自分で識ったわけではない。人間はそのなかでただ一本のより糸であるに過ぎない。人間が織り物に対してなにをしようと、それは自分自身への働きかけにほかならない。

よくわかっていることがひとつある。われわれの神はあなたがたの神だ。大地はその神にとって大事なものであり、大地を傷つければ、その造り主に対する侮辱を重ねることになる。

あなたがたの目的はわれわれにとってなぞだ。バッファローが全部殺されたらどういうことになるのか?野生の馬をみな飼い鳴らしたら?森の深い深い奥が大勢の人間の匂いでいっぱいになり、緑豊かな丘の景色が電話線で乱されたら、どうなると思うのか。茂みはどうなってしまうのか。消えてしまう!ワシはどこに住むのか。消えてしまうだろう!そして脚の早いポニーや狩りにさよならを告げるのはどういう気持ちか。命の終わりと生き残りの始まり。

最後のひとりとなったレッドマンが未開の原野といっしょにこの世から消え去り、彼の思い出といえば、大平原を渡る雲の影だけになってしまったとき、これらの海岸や森林はまだここにあるだろうか。私の同族の霊が少しでもここに残っているだろうか。

われわれはこの大地を愛する―生まれたばかりの赤ん坊が母親の乳房を愛するように。だから、われわれが自分たちの土地を売ったなら、われわれが愛してきたのと同じようにそれを愛してほしい。われわれがその面倒を見たのと同じように、面倒をみてほしい。あなたがたの心のなかに土地の思い出が、受け取ったときと同じまま保ってほしい。あらゆる子供たちのために、その地を保護し、愛してほしい―神がわれわれすべてを愛するように。

われわれが土地の一部であるように、あなたがたも土地の一部なのだ。大地はわれわれにとって貴重なものだ。それはまたあなたがたのためにも大事なものだ。われわれはひとつのことを知っている。神はひとりしかいない。どんな人間も、レッドマンであろうとホワイトマンであろうと、おたがいを切り離すことはできない。なんといっても、われわれはみな確かに兄弟なのだ。

(ジョーゼフ・キャンベル「神話の力」98~101頁)

米国政府、開拓民、近代人にとって、宇宙(土地)は単なる資源である。金を生み出す道具でしかない。

しかし、チーフ・シアトルにとって、「宇宙は<生き>て<話す>何物か」であり、その地の人々は、宇宙のなかに神聖性を認識し、その認識した神聖性とおなじものが自分自身の中にあることを感じている。

宗教学者エリアーデはいう。

イニシエーションを通過した人は別人になる。それはこの世と生命に関する重大な啓示をうけたからである。

(ミルチャ・エリアーデ「生と再生」15頁)

イニシエーションで子どもに伝えられた秘密とは、土、水、風、草、木、生きるもの、死せるもの、すべては神の恵みであり、そして、人もまた神の恵みであること。世界は神に満ちており、自らもその一部であるという福音だった。これによって子どもは「別人」のごとく「大人」に変わったのである。

次回

以上、「何故、イニシエーションは子どもを別人のごとく大人に変えることができるか」について、「冒険」「友情」「神話」という視点からみた。これが近代以前の社会における子どもを大人に変えるシステムである。

次回は、それでは近代はどうしたらいいのか、という点をみていきたい。近代以前の子どもを大人に変えるシステムが廃れ、近代は如何にこのシステムを再構築するか、という課題に直面しているが、ここから柔道の広大な可能性がみえてくるのである。

※本記事は、2010年8月から酒井重義(judo3.0)によってブログで連載された研究論考「勇者出処~嘉納治五郎の柔道と教育」の再掲です。

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