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嘉納治五郎の柔道と教育7 心の欲するところに従い、矩を踰えず。

第7回は、「自他共栄」であるが、このコンセプトは様々な場面で使用されることから、便宜上、三つに分けてみていく。

第1は、紛争解決としての「自他共栄」、第2には、道徳の説明原理としての「自他共栄」、第3は、修身の指針としての「自他共栄」である。まず、嘉納が回顧録で説明している「自他共栄」は次のとおりである。

道徳を説くには、ある一派の学説とか一種の信仰とかいうものによってこれをとくといことは、その学説その信仰を有する人にはよいが他の人々を納得せしむることはとうてい不可能のことである。誰人も納得せしめ得る根本原理に基づいて説かぬならば真の徹底せる道徳は説き得ない。

また宗教の教え学者の学説にもそれを説く根本の理屈がある。換言すれば仏教・儒教・キリスト教・その他いかなる学派の道徳学説でも、必ずこの根本原理をば認めなければならぬ。すなわちこれに背くということの出来得ない根本原理があるべきである。それはもろもろの宗教・学説を認めない人でもなおこれは認めざるを得ないものである。

それは自他共栄ということである。人が単独で生存すれば問題はない。いやしくも他と共同生活をするならば時に一方のものの主張と他の主張との衝突が起こってくる。ここに喧嘩争論を生じ、双方ともに不利益をこうむるものである。それゆえに人が共同生活をしている以上、相互の間を融和協調していかなければならないのである。

それには互いに譲り、互いに扶けるということをしなければならぬ。そこで他人よかれと考えこれを行いつつ己をもよくし己をよくしつつ他の利をはかる。すなわち自他共栄の途に出なければならぬ。換言すれば社会生活の存続発展をつとめなければならぬ。

人間が社会を結んでいる以上、その社会の一員としてその社会を存続発展せしめねばならないのである。これに反対の行動は決してとり得ない。しからざれば社会から排斥せられるのは当然である。

一人単独に世にたたば格別であるが、それは不可能のことである。いやしくも人として社会にたつ以上は社会の存続発展に適応する行動を取らざるを得ない。道徳とはすなわちこの社会の存続発展に適応するということにほかならない。」(著作集3巻、137頁)、

紛争解決としての「自他共栄」

講道館文化会の宣言に「・地主は小作人と反目し、資本主は労働者と衝突し、社会至る処に名利権力の争いを見るのではないか。一刻も速にこの境涯より我が国を救い、・・」とあるように、嘉納は、世に存するあらゆる争いを解決するため、講道館文化会を設立し、「精力善用・自他共栄」の普及を図った。したがって、「自他共栄」は、第一に、あらゆる争いを解決する機能をもつ。

何故、解決できるか。

その理由は、「人々が互いに衝突し妨害しあったら社会は衰退し、逆に、お互いに譲り合い助け合ったら、社会は存続発達して皆が幸せとなる。したがって、社会生活の存続発展には、譲り合い助け合いが必要不可欠である。」という根本原理を誰も否定できないからである。

まず、労働争議や小作争議を見るがよい。争議の結果は、何時でも双方共、失うところ多くして得るところは少ないのである。彼らが争わず、譲り合い助け合って、双方に比較的利益が多く損失の少ない一致点を見出すことに努めたならば、当事者相互のためにも、国家のためにもこの上ない仕合せである。階級の争いも、政党の争いも同様であって、すべて自他共栄の原理により解決しなければならぬ(嘉納・著作集1巻147頁)。

ゲーム理論の囚人のジレンマ(囚人のジレンマ – Wikipedia)が想起されるが、これを譬えとして使うならば、「自他共栄」は、全体として最適となるよう(二人の囚人がどちらも軽い刑で済むよう)、個々の最適選択(裏切る)を修正し、全体として最適になる選択(黙秘)をすべき、という指針ともいえるかもしれない。

今日世界の実際を見るに、人々は、如何に不必要な争闘をして互いに削ぎ合いをしているのであるか。人を害し人に禍をなすことは、あたかも天に向かって唾するようなもので、やがてその禍は己に戻って来るのである。人を助け人に福を与えてこそ己にもよいことが戻ってくるのである。この簡単なる理屈が分からず、人は、絶えず衝突し、争闘しているのである。

精力善用・自他共栄の主張とて争うべきことを争い、論議すべきことを止めよというのではない。不必要であり有害なる争いを止めよというのである。この道理を理解して事に臨むなら、今日の争いは、十中八九までは平和的に解決すべきものと考えられる。世の人は、何故にその見易き道理に基づいて行動しないのであるか。少なくとも我が講道館員と文化会員は、自らこの主義を実行することはもちろん、各人の力が及ぶ限り世を指導し、誘掖して貰いたいのである(嘉納・著作集2巻118頁)。

2001年、イタリアのジェノバで開催された主要国首脳会議(サミット)において、議長国イタリアのベルルスコーニ首相は、参加各国の首相に対し、ロシアのプーチン大統領らの書いた「柔道わが人生」というタイトルの本を進呈しながら、「精力善用」「自他共栄」の精神でこのサミットに臨もう、と呼びかけたという。

もし、稽古を通じて「この簡単なる理屈」を真に体得した柔道家が各地の指導者となったら。。嘉納の壮大なビジョンとその大戦略にただただ畏敬の念を覚えるばかりである。

道徳の説明原理としての「自他共栄」

第二は、道徳は、何故守らないといけないか、この道徳の根拠を示す機能である。

この当時の日本は、思想の混乱、道徳の荒廃が生じていたが(今も変わらないかもしれないが)、嘉納は、道徳の退廃が生じた理由の一つとして懐疑の精神が普及したことを挙げる。つまり、何故、道徳を守らなければならないのか、確乎とした根拠があれば、道徳の荒廃から免れるのである。

人知がようやく進んで来て、懐疑の心の日を追うて盛んになってきたため、何事についても、なぜ、どういうわけ、ということを、人々が考えるようになった。以前は、これは某権威者の教えであるからといえば、深く疑わずしてすぐと信じたものも、今日では、そうたやすくは受け入れることをしない。なぜそうならなければならぬかを問い質すようになってきた。

そうなってくれば、人各々勝手次第な説をたてて相下らぬ風になって、中には、自分に、確乎たるなんの信念も有せず、ただ自分の非を弁護する口実として、勝手な主張をするということも生じてきたのである(嘉納・著作集1巻)。

この点、当時の日本には、国民道徳の指針として教育勅語(教育ニ関スル勅語 – Wikipedia)があったことから、教育勅語が真に理解されるのであれば道徳の荒廃は生じないと考えられる。

しかし、教育勅語を暗誦するだけで道徳教育ができるわけではなく、結局は、教育勅語の根拠となる原理が必要となる。しかし、宗教や学説を根拠とした場合、その宗教や学説を信じない人には通じない。

道徳教育ということは、確乎たる強き統一せられたる根拠によって、すべての国民の上にほどこされなければならないものである。それ故、盛んにこのことが論議され、かしこくも、教育勅語の渙発となった次第であった。即ちこの聖慮によって、国民道徳の統一せられたる根拠を得るに至ったのであった。しかしながら、教育勅語をいたずらに暗誦したのみでは、道徳教育が出来ないことはいうまでもない。

自分が高等師範学校長在任中、しばしば当局から、教育勅語の御趣旨をいかにして徹底せしむべきかを諮問せられたことであるが、問題は即ちここにあるのである。即ち、教育勅語の徹底、換言すれば国民道徳の確乎たる統一、これを実現すべき方法は、十分なる研究を遂げなければならぬのである。

ここに或る者は仏教を、或る者は儒教を、また或る者はキリスト教を信じる立場から議論をする。しかるに、これらのいずれの教義をも信じないものは、これを取らない。諸派の学説についてもまた同様で、甲が論ずれば乙これを駁する。そこでやはり仏教・儒教・キリスト教等の宗教を信ずるものにも異論がなく、またこれを信仰せぬ者にも異論のない、不偏の理屈を求めなければならない。語をかえれば、教育に関する勅語の根基となる原理を要するのである(嘉納・著作集1巻)。

以上のような背景があったうえで、嘉納は、道徳とは「すなわちこの社会の存続発展に適応するということにほかならない。」として、道徳の根拠を提示する。

すなわち、社会が存続発展するためには、人々は、互いに譲り、互いに助けるということをしなければならない。もし、これをしなければ、社会は存続発展せず、また、人はその社会から排斥される。したがって、人は、社会から、互いに譲り、互いに助ける、という要求を受け、これに応じていかなければならないが、これが道徳の発生する根拠である。つまり、道徳を守らないということは、社会の存続発展を図らない、ということなのである。

嘉納は、道徳の根拠に神も哲学も用いていない。「本当に強い道徳的信念は動かすべからざる原理に立脚した簡単明瞭の主義からでなければ発生」しない。特定の宗教や学説に根拠をもてば、他の宗教や学説を信じるものに説くことができない。

この主義は簡単明瞭であるから最も有効であるのであるが、多くの人には耳新しいのと在来の習慣に支配されて、いわゆる先入主となるの道理で、従来の道徳上の教えとか戒めのように強く心を支配しないように思う人もあるのは止むを得ぬことである。けれども深く考えてみれば、本当に強い道徳的信念は動かすべからざる原理に立脚した簡単明瞭の主義からでなければ発生せぬのである。かく考えてみると、道は近きにありといい得べきである。道は深遠なる哲学に求むる必要はない。近く眼前に捕え得るのである。

ある人は、われらの諸説について批評し、すべて異存なし、ただ、哲学上の根底に基づいて説かぬことを遺憾とするというた。その批評に対し、われらは、哲学は人によって所説を異にする。一種の哲学に基づいた道徳説は、限りある共鳴者を得るにとどまって、万人をして共鳴せしむることは不可能である。しかし、精力善用、自他共栄の主義は、如何なる哲学者でも、社会生活を辞せざる限りは、これに同意せざるを得ないのである。

結局、哲学を背景とせぬ精力善用自他共栄は、万人がことごとく異論を唱えぬが、哲学プラス精力善用自他共栄は、その哲学上の意見を異にするごとに説が別れることになる。よって、精力善用自他共栄に、宗教上の背景を希望する人には勝手にそういう背景を作らしめ、哲学の背景をもたねば満足せぬ人には、随意に哲学の背景をもたしめ、万人の一致して信じるところのものは、何ら背景のない精力善用自他共栄でならねばならぬという結論になるのである(嘉納・著作集1巻79頁)

ここで重要な点は、「自他共栄」、すなわち、嘉納の「道」は、いかなる宗教を信じていようと、いかなる学説を信じていようと、思想信条に関係なく、学ぶことが出来るものであるという点である。宗教上の違いに起因する争いが溢れ、教育の重要性が叫ばれる中、嘉納の道徳教育は、宗教上の違いをものともしないということがどれほどの救いであり、どれほどの可能性を秘めているか、推して知るべきだろう。

最後に、嘉納が、簡易明瞭な主義にこだわった理由についてふれたい。

嘉納は、『勧学篇』を著した清国の政治家、張之洞(張之洞 – Wikipedia)と会談したとき、清国の教育について、次のように話している。

目下、業務多忙にして、かつ研究の方面、多岐に渉るをもって、特に漢文を研究するの遑なし。ただ年少のころ、一通り六経を読んだが、孔孟の教えは、東西相通ずるところ多く、聖人の道は中外に施して悖ることなし。教育は道徳を根本としなければならぬ。技芸に達するとも、道徳の修養に欠くることあらば、むしろ技芸なきにしかずであろう。清国の風俗を観るに、読書人と普通人との徳性涵養の道は、はなはだしく懸隔している。経学は難解のところ多く、一般には学びやすからずこれ国内に普及せざるゆえんであろう。聖人の道をあまねく知らしむるには、通俗的の方法を講究しなければならぬ。そして学者は、難解の文学を研究して、聖人の道の深奥なる境地を窺うがよろしかろう。しかしこれらの学者は、時に、聖人の道を誤解するとがあると聞いている。聖人の道をあまねく知らしむるには、長日月を要しない。総督閣下のごとき深奥なる研究を積まれた学者は、よろしく聖人の道を知らしむべき通俗書を著して、聖人の道を普及せしめらるるは、必ず聖人の本意に叶うことであろう。貴書「勧学篇」においても、この心持は現れていたと思う(嘉納・体系11巻213頁)

つまり、儒学の内容は、そのままだと難しい、だから、一般人の徳育がうまくいっていない、もっと儒学をもっと分かりやすく教える方法を研究しなければならない、という。嘉納の道徳教育の対象は、日本及び世界のすべての人々である。難解なものであれば徳育がうまくいかないのである。

修身の指針としての「自他共栄」

最後に、修身の指針としての「自他共栄」についてみる。ポイントは三つある。第一に、「自他共栄」が修身の指針として機能すること、第二に、何故、修身をしなければならないか、という点、第三に、道徳教育の役割についてである。

修身の指針

まず、「自他共栄」は、次のように、自らを省みる指針として機能する。

まず、瑣末なることからいうてみれば、停車場においては何を目撃するか。大きな荷物を背負って通路を立ち塞いでいるものを往々見受けるではないか。ところ構わず唾を吐いて、他人の迷惑を気に掛けぬものが多いではないか。汽車に乗ってみれば、側に煙草の嫌いなものがあろうが、咽喉を痛めているものがいようが、自分さえよければ平気で、風上に居て煙草を吹かしているのを常に目撃するではないか。その他至るところ、他人の迷惑を構わず、自己の利害のみから打算してする行動の珍しくないことは、誰もが認めているところである。これに反して、些少の労をもって他人に多くの便利を与え得る機会があっても、その労を惜しみ、他人のことは構わぬという風が一般にあるではないか。また多くの人の実際の行動を見るに、不必要に他人を誹謗し、非行を発き、時には他人に関する流言を軽々しく信じて、無実の非難を流布するようなこともある。

これらは、よろしくないことを信じながら、容易に改まらないのはどういうわけであろうか。それは、強い明らかな指針があって、その指針に依って行動を決定しないからである。

しかし、もし今、我らの唱える自他共栄という指針に照らして、いちいちこれを判断してみれば、たちどころに正確に、是非の判断が出来るのである。一度自他共栄ということが社会生活の根本原理であることを理解したならば、どうして人の通路の妨害することや、人の迷惑を構わずやたらに唾を吐くようなことが出来ようか。自ら得るところがあっても、他人に迷惑を掛けてはならぬのが社会生活の原則である。

しかるに、自らなんら得るところなく、ある場合には、かえって自らも損失を招きつつ、他人に不利をなす場合は、決して少なくない。こういうことは、自他共栄ということを理解しているものに出来ようか。他人のために尽くし得ることはいろいろあろうが、実際には、自己の利益と両立しない場合はきわめて少ない。仮に、目前自分の利益を殺がなければ出来ぬことでも、多くはそれがかえって永遠の利益を増進することになる。それらのことを、自他共栄ということから考えてみれば、ことごとく解決されるのである。

自他共栄という原理に照らして一の非行を改めれば、他の非行も改めやすくなる。幾多の非行がかくして改まれば、ますますこの主義が強く己の心を支配するようになり、ついには、この主義に反した行動はしようと思っても出来ぬようになる。それゆえ修養の第一義は、明確なる指針を得ることと、その指針の示すところに依って善いことを繰返し悪いことを避けるにあるのである(体系9巻153~154頁)

幸せについて

それでは、何故、人は修身をしなければならないのか。それは、社会生活の存続発展のためであるが、嘉納は、人が幸福になる方法、という視点から、この修身の必要性を説明している。

すなわち、人は、誰しも幸福になりたいと考えていると思うが、どうやったら、人は幸福になることができるのだろう。人生のおける種々の苦しみは、何が原因で生じ、どうすれば、この苦しみから逃れることができるのか。この点について、嘉納は、次のようにいう。

道徳の最も高い域に進んだ人は、おのれの欲することをすれば、それが他人のためにも、社会のためにも国家のためにも人類のためにもなるのである。善いことをすれば満足する。よしや自己の肉体上の満足を図る場合があっても、それが最も高い精神上の満足を得る手段として必要であるからである。

これに反して、道徳上の最も低い位置にあるものは、自己の欲するところは事ごとに他人の利益を衝突し、社会国家人類の福祉と矛盾する。それゆえに、道徳の高い人は、他のためになること、すなわち徳行することが、自身の満足と一致する。道徳の低い人は、もし道徳を行うとか、正しいことをしようと思えば、絶えず苦痛を感ぜざるを得ぬのである。

この相違が修養の出発点である。

己の欲することをすれば、他から咎められ、妨害され、攻撃されるということは、小なる利益を得んがため、大なる損害を招くことになるから、利害の打算上、目前の小利益を捨てて、永遠の大利益を得ることを努めなければならぬ、ということを証明するのである。永遠の大利益を得ようとすれば、第一次に、周囲にいる個人、次に社会、国家のおのれに対する要求に応じるだけの行動をしなければならぬ。かくすれば、目前の小利益は殺がれるかもしれぬが、永遠の大利益を得、大損害を防ぐことが出来る。この利害の打算は、入徳の第一歩である。

道徳は、畢竟、他人、社会、国家、人類の自己に対する要求に適応する道であるから、徳性を涵養するとか道徳的の修行をするとかいうことは、不十分なる適応から十分なる適応に進んでいく努力なのである。依って入徳の第一歩を占めたならば、第二歩第三歩と、漸次完全に適応し得て、自ら満足し得るの域に進まんことを期さねばならぬ。それゆえ、徳性の養われざるものには、道徳を守り善をなすことは苦痛なれど、徳性の養われたものには、これは愉快であり、満足となるのである(嘉納・体系第9巻157頁)。

苦しみが生じるのは、「他人、社会、国家、人類の自己に対する要求」と「自己の欲求」が一致しないからである。一致する場合は、自己の欲することを行えば、他人・社会・国家・人類のためになるのだから、満足する(幸せになる)。しかし、一致しない場合は、やること為すことことごとく他人と衝突するから常に苦しみを感じることになる。したがって、苦しみから脱し幸福になるためには、「他人、社会、国家、人類の自己に対する要求」と「自己の欲求」を一致させるよう努力することが必要である。

このような理解のもと、日々「自他共栄」の指針に従って修身をしていけば、「他人、社会、国家、人類の自己に対する要求」と「自己の欲求」が一致するようになり、おのずと幸せになれる、と嘉納はいう。

道徳教育の役割

そして、この点に、道徳教育の役割があるのである。

一見人間の道とか善とかいうものは、各自の自然の欲求と一致しないものであるように思われるが、実際は一致すべきものである。一致しないのは、動物的、衝動的の欲求、または、当然各自が脱出することが出来ない社会生活を無視した場合の欲求について考えるからである。

前後左右を考えず、思慮分別せずして、時々の欲求を満足せしめんとする時は、往々道徳と衝突する場合が生ずる。そういう欲求は、考慮の結果、当然消滅すべきである。そういう浅薄な、劣等な欲求を退けて、深遠な、優等な欲求を生ぜしめんとするのが道徳教育の目的である。

それゆえに、人は、幼少の時から、理想と良習慣とを養うことが必要である。理想のないものは動物と異なるところはない。常に理想を描いて、それに到達しようと努力し、平素良習慣を養って、善いと知ったならば、それに進むことが出来るように心掛けねばならぬ。

結局、教育の力は、欲求と道徳を一致せしめることが出来るのである。孔子も七十にして心の欲するところに従えども矩を踰えずというた。それは明らかに私の主張と一致しているのである。

さりながら、教育の仕方が悪いと、人が道徳と遠ざかったことを欲求するようになる。今日まで教育の力は、この意味において薄弱であったといわねばならぬ。それは、以上述べたように、欲求を向上せしむるのが人間を道徳に導く本当の仕方であるという立脚地から道徳教育をしなかった罪であると考える。(嘉納・体系73頁)

つまるところ、「他人、社会、国家、人類の自己に対する要求」と「自己の欲求」を一致させ、人を苦しみから脱して幸せにするのは、道徳教育である。教育の仕方が悪いと、「他人、社会、国家、人類の自己に対する要求」と異なった「自己の欲求」を持つことになり、人は、苦しみから逃れることが出来ず、また、社会も存続発展しない。

中学生へ

以上、「自他共栄」を便宜上三つの場面に分けてみてみたが、最後に、嘉納が、日本の全ての中学生に向けて語りかけた言葉(嘉納が執筆した「柔道教本」の序説)を引用して、第7回は終わりとしたい。

およそ人としてこの世に生れてきたからには、最も値打のある生活をしなければならぬ。値打のある生活とはどういうことかというに、個人としては、最も大いなる幸福を得ることであり、家庭または社会の人としては、家の内にいても、世間に出ても、両親はもとより、すべての人々に満足されることである。そうして国民としては、国家の元首たる天皇陛下を始め奉り、国民一般から、国のためになる人と認められ、広く世界の人々からも、人類の一員としてその本分を尽す人と思われるような行いをすることである。

浅はかな人は、自己の幸福を得ようと思えば、人のためや国のために尽くすことが出来ないように考え、自国にために尽くそうと思えば、他国の不利を図らなければならぬように考えるかもしれぬ。が、真に自己の幸福を得ようと思えば、人のためにも国のためにもなる仕方でなければならぬ。そうして遠い将来のことを考えるとき、本当に自国のためを図ろうと思えば、他国の人の幸福を妨げる仕方では、その目的は達せられぬのである。

そうしてみると、人間の本当の生活は、他人にも社会にも国家にも国外の人々にも、妨げをしないで自己の発達を図り、また自己の発達を図りながら、自分以外の人々に出来るだけ多くの利益を与えようとしなければならぬのである。それが人間の生活していくべき道である。そういうと人は、それならどうすれば、それらのことが衝突せず、どこから見ても都合のよい生活の仕方が出来るであろうかと問うであろう。私はそれは柔道という道を徹底的に修行すればよいと答える。

※上記は2010年8月から酒井重義(judo3.0)によってブログで連載された研究論考「勇者出処~嘉納治五郎の柔道と教育」の再掲です。

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