嘉納治五郎の柔道と教育24 生き方の基本は伝統のかかわりの中で見出すべき2

前回、日本の文化や伝統に内在する普遍的な生き方を見出すため、「道」という日本の思想の基礎的な概念に内在すると思われる次の三つのコンセプトにふれた。

  • 個々の領域の究極が人や宇宙の究極につながる。
  • 「型」という身体を回路として精神や心につながる。
  • 人や宇宙の究極は、彼方にあるのではなく、修行そのものにある。

今回は、上記を踏まえて、これからの柔道と教育を考える上でポイントになると思われる点を3点ほどコメントしておきたい。

近代の学校制度では伝統を承継できない?!

先に見た「道」に内包するコンセプトは、長い時間をかけて多くの先人によってふるいに掛けられてきたにもかかわらず現代まで生き残ったものであり、いわば、ベストセラー・ロングセラーの古典とでもいうべき、生き方に関するコンセプトである。

したがって、このコンセプトは、もし受け入れたのであれば、個人の生も社会全体も豊かで実りあるものにしてくれる可能性が高いと思われる。

しかし、第一のポイントは、近代の学校という制度では、このような日本の文化や伝統を学ぶことはおそらく難しい、ということである。少なくとも、授業の中で教えるべき事項として含めることは難しい。

学校が教える「知」、すなわち近代の「知」とは、観察や実験などで測定可能なもの、いわゆる「客観的」な知に限られており、観察や実験で測定できない宗教的なもの、精神的なもの、人の生き方に関するものはそもそも排除されている。

したがって、「しつけ」の領域で断片的に語られることはあっても、学校の授業内容には、個々の領域が人や宇宙の究極につながるというような、客観的な根拠があいまいな知は(おそらく)含まれていない(第一のコンセプトの否定)。

同様に、学校が教える「知」は、「客観的」な知であるゆえ、「言葉」を媒介として伝えることができるものを対象としており、「身体」を媒体として心や精神に働きかけるような「知」は含まれていない(第二のコンセプトの否定)。

また、学校が教える「知」は、本人が取捨選択した知ではない。知の内容、知を学ぶ時期などを本人以外の者が定め、本人は、学ぶ主体というより、教えられる客体として存在する。したがって、学びたいから学ぶ、という状態に至ることは難しく、テストでいい点をとっていい学校、いい会社に入るためなど、何らかの目的の手段として、条件付で学ぶケースが多い(第三のコンセプトの否定)。

いわば学校の「知」は、人は如何に生きるべきか、という個人の主体的な生き方に関する知を含まない。この近代の「知」の性質は、嘉納が、学校が「知識本位」になってしまったら「どうして本当の国民教育が出来るか。」という危機意識のもと、徳性に優れた教師の育成に奮闘したことを思い出させるが、残念ながら望んだとおりには実現できなかった。

然るに今の大学の大体の模様は、唯学問の研究ばかり没頭して、学識を得よう知識を習得しようとしている人が多い。訓育の上、品性の上などについて優れている人はその割に尊ばれていない。

こういう傾向であるから、全国の中等教育は悉く皆知識本位となり、小学校にもそれが伝播している。中等学校、小学校までが予備校のように化けて来たならば、どうして本当の国民教育が出来るか。又どうして本当の国家の中堅となる人間を造ることが出来るか。

教育者は人間を造ることを目的とせねばならぬ。そうして人間を造るに必要な素養、又は精神を養わねばならぬ。それが師範大学というか教育大学というか、高等師範学校を基礎として権威ある教育機関が出来なければならぬという主張のあった所以である。(加藤仁平・嘉納治五郎208~209頁)

それでは、「教育者は人間を造ることを目的とせねばならぬ。そうして人間を造るに必要な素養、又は精神を養わねばならぬ。」にもかかわらず、「中等学校、小学校までが予備校のように化けて来たならば」、一体、誰が「人間」をつくるのだろうか。

そして、一体、誰が、日本の文化伝統に内在する普遍的な生き方の基本を人々に承継させるのか。

柔道から伝統を学ぶ

これが第二のポイントであり、本稿は「柔道が」がという立場である。以下にみていく。

柔道は、技の稽古(個々の領域、型・身体動作)から精力善用自他共栄(人や宇宙の究極の境地、深い精神世界)に至るものであり、つまりは、これまでみたような日本の文化や伝統に内在する普遍的な生き方を内包している。

例えば、嘉納は、柔道(一芸)を通じて精力善用自他共栄を身につければ、「他芸」にも通じることができると指摘するが、これは「道」の第一のコンセプトである。

柔道の修行は、人に対し、社会に対し、事業に対し、如何にすればよいかということを抽象的に理解せしめる。それだけの実力を養っておけば、如何なる新しきことに掌っても、その事に関する特別の知識さえ得れば直ちに役立つ人間になることを得るはずである。

さすれば、柔道家というものは、単に技術の巧者でなく、人間として価値あるもので、学校にあれば、生徒監にも幹事にも校長にでもなり得るし、また行政にたずさわっても、その仕事を立派に果たし得る。

また、実業に従事すれば、個人的な営業も出来、会社、工場の監督をなし、その事務を処理する事が出来る。その他官吏にしても何をやっても、ただ直接必要なる知識さえ得れば、一般に共通なる根本の力は、柔道修行中に得られるわけである(嘉納治・著作集2巻250頁)。

また、例えば、「礼」についてみると、北京オリンピック男子柔道の監督である柔道家斉藤仁氏は、著書「常勝力」において、礼の意味が最初は分からなくても、礼をしているうちに、本当の意味を知るときが必ずやってくると指摘しているが、これは「道」の第二のコンセプトだろう。

柔道は、この「感謝の心」を育てるのに大いに役立つと私は思う。道場で最初に教えてもらうのは、礼法である。たとえ最初は強制であっても、それが習慣になっていく。そうやっていくうちに、いつしか礼法のほんとうの意味を知るときが必ずくる。思いやりや相手をいたわる気持ちの大切さに必ず気づく。(斉藤仁「常勝力」)

このことは、人は、柔道を学ぶことによって、日本の文化や伝統に内在する普遍的な生き方を学ぶことができることを意味する。

この点について、斎藤孝氏は、NHKの「プロジェクトX」に取り上げられたような日本の「ものづくり」における創意工夫などに挙げ、嘉納は、この日本の「文化的な遺伝子」を、柔道という身体を通して、日本人に染み込ませようとしたと指摘するが、これは、まさしく氏が評するように「遠大な目的意識なしには生まれようのない発想」だろう。

考えてみれば、日本という国がNHKの番組「プロジェクトX」に代表されるさまざまな工夫を成功させたのは、ほとんどすべてが「精力の最善活用」によっています。たとえばウォシュレットを見ても、あんなに細かく工夫し、新製品をつくり続けているのは日本らしい。工夫しすぎるほど工夫していて、もうこれ以上、工夫するところはないと思えるほどです。

そうした営みの中に、日本という遺伝子が詰まっていると思います。本当に、よくこの人的エネルギーを結集してここまで来たものだと感心するほかありません。

それは文化的遺伝子というほかなく、長い歴史をかけて人々がつくり、確立してきたものです。治五郎はそれを、武道という形で明治の日本人の身体に染み込ませようとしたわけです。

遠大な目的意識なしには生まれようのない発想です。そのことをもって、彼は「志」と言っています。彼は、日本人全部が「志」を持たなければいけないと強く主張しました。(斎藤孝「代表的日本人」83~85頁)

しかし、ここで重要な点は、日本の伝統や文化に含まれた普遍的な生き方を学ぶことができる柔道とは、長期的目標を追求している柔道であることである。

短期的目標に拘泥し長期的目標を見失った柔道では学ぶことができない。

例えば、筆者が見聞きした例を挙げると、ある柔道の先生は、勝つため、又は負けないため、技の掛け逃げ、きちんと組まない、腰を大きく後ろに引くなどすることを戒めていた。

その理由を尋ねたとき、「逃げるとか、一本を取りに行かない柔道をしたら、柔道だけではなく、その人の人生までもがそのようなものになってしまうのではないかと思っている。」とおっしゃっていた。

ここには、柔道の仕方(個々の領域)が「人間としての存在の根底にかかわる」という認識があるが、このことは、短期的目標(試合に勝つ)に拘泥されずに長期的目標(人間教育)を追求していることを意味しているだろう。

特定の宗教や伝統から普遍的なものへ

三つ目は、柔道が特定の宗教に依存していない点に関してである。

個々の領域から、身体を回路として深い精神世界に至るという「道」の思想の場合、究極の境地について、「天人合一」「宇宙的無意識」「大宇宙」「空」などと表現されるように、宗教的な表現を用いられることがある。

実際、嘉納は、精力善用・自他共栄を実際に身につけ、実行していれば、宗教上の修行と同様の効果を得られるとしている。

精力善用が本当に分かっていてこれを自分の身に実行していれば、長年の間座して禅学を修めて悟りを開くことを覚えた人と同じ立場に立ち得るのである。自分自身の経験修養によってそれだけのことが出来る。別に特殊の学問も何も要しない。それだけの簡単な理屈でおのれ自身を訓練していくことが出来るのである。(嘉納・体系1巻116頁)

私は仏教、儒教、キリスト教の大家とも意見を交換することが多々ある。その深い研究をし修養した人は私と同じことをいう。行く道は違うが終局は宗教も学問も同じところを狙っているというわけで、我が仲間であるということを考えることが出来る。

しかしそれもよほど深い研究をした人に限る。浅墓な研究の人では一致し難い。自分の教わったところを鵜呑みにして考えている人は一緒にならない。日本国民としてもそんな程度の人は、本当の一貫した国民精神というものを分かっておらぬかもしれない。

そこで我々は仏教の極地、キリスト教の極地、哲学者の徹底的研究と同じ立場において、それらと提携してやることの出来る原理を柔道において授けているのである。(嘉納・体系1巻120~121頁)

しかし、嘉納は、特定の宗教や学問に依存した場合、他の宗教や他の学問の信じる者が柔道を受け入れることはできなくなるとして、特定の宗教や学問に依存しない原理を探求した。同様に、「昔からあるから、今もそうあるべき」的な意味での「文化」や「伝統」という不明確なものに依存することも拒否した。

つまり、嘉納は、「道」が内包する宗教的・伝統的な価値観(「天人合一」「宇宙的無意識」「空」など)を「近代化」し、普遍的な原理(「精力善用」「自他共栄」)に転換したといえる。

嘉納は、次のように話している。

この主義は簡単明瞭であるから最も有効であるのであるが、多くの人には耳新しいのと在来の習慣に支配されて、いわゆる先入主となるの道理で、従来の道徳上の教えとか戒めのように強く心を支配しないように思う人もあるのは止むを得ぬことである。

けれども深く考えてみれば、本当に強い道徳的信念は動かすべからざる原理に立脚した簡単明瞭の主義からでなければ発生せぬのである。かく考えてみると、道は近きにありといい得べきである。道は深遠なる哲学に求むる必要はない。近く眼前に捕え得るのである。

ある人は、われらの諸説について批評し、すべて異存なし、ただ、哲学上の根底に基づいて説かぬことを遺憾とするというた。その批評に対し、われらは、哲学は人によって所説を異にする。一種の哲学に基づいた道徳説は、限りある共鳴者を得るにとどまって、万人をして共鳴せしむることは不可能である。

しかし、精力善用、自他共栄の主義は、如何なる哲学者でも、社会生活を辞せざる限りは、これに同意せざるを得ないのである。

結局、哲学を背景とせぬ精力善用自他共栄は、万人がことごとく異論を唱えぬが、哲学プラス精力善用自他共栄は、その哲学上の意見を異にするごとに説が別れることになる。

よって、精力善用自他共栄に、宗教上の背景を希望する人には勝手にそういう背景を作らしめ、哲学の背景をもたねば満足せぬ人には、随意に哲学の背景をもたしめ、万人の一致して信じるところのものは、何ら背景のない精力善用自他共栄でならねばならぬという結論になるのである(嘉納・著作集1巻79頁)

このことは、いかなる宗教や学問を信じていようとも、柔道を通じて自他共栄・精力善用を身につけることが可能であるということを意味する。

柔道の短期的目標に関する領域はスポーツであるが、柔道の長期的目標に関する領域はほとんど道徳教育に他ならない。

もし、柔道が特定の宗教や学問に依存していたり、「ここでは昔から○○だから今も○○である」的な伝統に依拠していたら、宗教や学説が異なる者、異なる地域にいる者に長期的目標を追求する柔道を提供することはできない。

柔道は、(少なくとも嘉納の認識では)あらゆる宗教、学問、文化、伝統と並立・提携できる土台があるのである。

心の財産

最後に、再び斎藤孝氏の言葉を引用して終わりたい。

治五郎は大きな視野をもって、様々な方法を追求し、伝統的な価値観を世界標準につくり直した根本精神や根本原理を、日本人の中に心の財産として引き継がせようとしました。

私にとっては、治五郎は理想の教育者であると同時に、私自身のめざす人物像でもあります。私としては、”心の師’’と仰いでいるこの人物の生涯がもっと多くの人に知られ、ロールモデルとなってほしいと思っています。(斎藤孝「代表的日本人」88頁)

※本記事は、2010年8月から酒井重義(judo3.0)によってブログで連載された研究論考「勇者出処~嘉納治五郎の柔道と教育」の再掲です。

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