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嘉納治五郎の柔道と教育14 SPARK

道徳的人間を育成する方法としての体育、いわば、体を鍛えて心を鍛えるという方法は、近年、脳の研究が進むにつれて、改めてその意義が明らかになってきている。今回は、この脳の研究をみていきたい。

『脳を鍛えるには運動しかない!』

人生において成功するために、神は人にふたつの手段を与えた。教育と運動である。しかし、前者によって魂を鍛え、後者によって体を鍛えよ、ということではない。その両方で魂と体の両方を鍛えよ、というのが神の教えだ。このふたつの手段によって、人は完璧な存在となる。-プラトン-

このプラトンの言葉を引用し、「運動すると気分がすっきりすることは誰でも知っている。けれども、なぜそうなるのかわかっている人はほとんどいない。」という言葉で始まるのが、精神科医でありハーバード大学医学部の先生でもあるジョンJ・レイティー氏の著書『SPARK』、2009年3月に翻訳された『脳を鍛えるには運動しかない!最新科学でわかった脳細胞の殖やし方』である。

本書では、まだ一般には知られていない新しい研究の数々を検討しながら、それがどう結びついているかを説明していきたい。わたしが目指すのは、運動と脳をつなぐ驚きに満ちた科学をわかりやすい言葉で語り、それが人間の生活にどのような形で現れるかを示すことだ。そして、運動が認知能力と心の健康に強い影響力をもっているという認識を確かなものにしたい。運動は、ほとんどの精神の問題にとって最高の治療薬なのだ

「現代の文化は心と体を別もののように扱っているが、わたしはそれをふたたび結びつけたいと思っている。」と語るレイティ氏は、現代における徳育としての体育の宣教師といえるが、本書において、徳育(心)と体育(体)の結びつきについて、数百の最近の研究論文を引用しながら説明している。

脳と運動に関する研究は、これからの柔道と教育のあり方に極めて大きい影響を与える事項であるため、是非一読いただきたい本ではあるが、以下、主にこのレイティ氏の著書をもとに、徳育としての体育についてみていきたい。

うつ

日本のうつ病の患者の数は、1999年は44万強だったのに対し、2008年には104万人強と急増している。この急増の原因の一つに、1999年に新しい抗うつ剤(SSRI)が発売され、マーケティングがなされた結果であるとも指摘されているが、いずれにせよ多くの人々がうつ症状に苦しんでいる。世界保健機構(WHO)によると、2020年には、うつ病が、虚血性心疾患(狭心症や心筋梗塞など)に次いで社会的に負担を与える病気の第2位になると予測されていう。

また、うつ病と診断されない場合であっても、大半が、ゆううつで不安、イライラする、眠れない、何もやる気がしない、生きる価値が自分にはないと思う、喜びが感じられないなどの状況を経験したことがあるだろう。

うつ病にもうつ症状にも抗うつ剤が効果があることは周知のとおりであるが、それでは、運動が抗うつ剤と同じぐらい効果がある、という実験結果があることを知っているだろうか。

1999年、デューク大学医学部のブルメンタール教授らは、次のような実験をした(155頁)。

  • 156名のうつ病患者を、(a)抗うつ剤を投与するグループ、(b)運動をするグループ、(c)抗うつ剤の投与と運動を併用するグループに分けた。
  • (b)の運動のグループは、4ヶ月間、週3回、30分のジョギング・ウオーキング(70%から85%の強度の有酸素運動)をした。
  • 結果、(a)は65.5%、(b)は60.4%、(c)は68.8%でうつ症状が消えた。

この結果を受けてブルメンタール教授らは、運動は抗うつ剤と同じぐらい効果があると結論を出した。

さらに、この研究では、(b)の運動でうつ症状が消えたグループのほうが再発率が低かった((a)の抗うつ剤のグループは38%が再発、(b)はわずか8%)という結果が出ており、また、2006年のテキサス大学のサウスウエスタン医療センターの精神科医マドフカール・トリヴェディ氏の実験では、抗うつ剤が効かないうつ病患者が、週3回、55分のウオーキングかエアロバイクを3カ月したところ、最後までやり遂げた8名のうち5名についてうつ症状が消えたという。

また、運動によりうつになるリスクが下がるという疫学的調査もある(150頁)。

  • カリフォルニア州バークレーの人口研究所の8023人の調査では、1965年から1974年(9年)の間にうつになった人の割合につき、あまり運動しなかった人は、よく運動した人より1.5倍多かった。
  • 2006年のオランダの1万9288組の双子とその家族の調査では、運動すると不安が減り、うつにも神経症にもなりにくく、より社交的になることが示された
  • 1999年のフィンランドの3043人の調査では、週最低2,3回運動している人は、運動をほとんどしない人に比べて、うつ、怒り、ストレス、「ひねくれたものの見方」がきわめて少ないことが示された。
  • 2003年のコロンビア大学疫学科の8098人の調査でも、運動量とうつになりやすさに反比例の関係があることが示された。

安易な単純化はすべきではないが、それでも、わが国の100万人以上のうつ病患者、そして、うつ病と診断されなくてもうつの症状に苦しむ無数の人々が、週3回数ヶ月、運動を継続する機会に恵まれたとしたら、多くがうつ症状から逃れ又は大幅に改善される可能性が示されているのである。

脳のメカニズム

それでは、運動はどのようなメカニズムにより脳に影響を与えるのだろうか。この点、レイティ氏が著書で詳細に説明しているのでそちらを参考にしていただきたいが、おそらく、ざっくりと単純化すると次のようである(あくまでざっくりと理解するためのものであり、正確に理解したい場合は著作をご参照ください)。

□脳の機能の仕組み

  • 脳の様々な機能(色々考えたり、おいしいと感じたり、英単語を覚えたり、悲しんだりなど)は、脳細胞(ニューロン)のネットワークを信号が通過することにより作用する。英単語一つ覚えたらネットワークが一つできている。
  • したがって、脳がうまく機能するためには、(a)ネットワークがうまく機能すること、(b)新しいネットワークを作ることが必要である。

□ネットワークの仕組み

  • ネットワークは、各ニューロンから樹状突起という枝が伸びて、その枝が結合するにより形成される。この結合部分をシナプスという。
  • ネットワークを通過する信号は、グルタミン酸やガンマアミノ酪酸などによって運ばれるが、この信号の流れを調節しているものがセロトニン、ノルアドレナリン、ドーパミンである。これらを神経伝達物質という。
  • ニューロンから枝がニョキニョキ伸びてシナプスをつくるなどには栄養が必要である。この栄養には脳由来神経栄養因子(BDNF)などがある。

□薬の作用

  • 例えば、抗うつ剤や注意欠陥障害(ADHD)の薬は、信号の流れを調節するセロトニン、ノルアドレナリン、ドーパミンのいずれかを対象とし、適切な量になるよう促すことで、脳のネットワークがうまく機能するよう促す(a)。例えば、SSRIは、セロトニンの量を増やす薬である。

□運動の効果

以上を前提にすると、運動は、次の三つの点で効果があるらしい。

  • 新しいニューロンを作る。
  • 脳由来栄養分子(BDNF)を作る。
  • 神経伝達物質が適量になるよう調整する。

すなわち、

  • 神経伝達物質が適量に調整されることから、ネットワークがうまく機能するようになる(a)。
  • 新しいニューロンが生まれ、またニューロンから生える枝がニョキニョキと伸びるための栄養があることから、新しいネットワークが形成されやすくなる(b)。

この結果、運動は、次のような脳の機能に関わる分野に効果が認められる(著書の目次から)。

  • 学習
  • ストレス
  • 不安(不安障害、パニック障害等)
  • うつ
  • 注意欠陥・多動性障害(ADHD)
  • 依存症(アルコール、薬物など)
  • 月経前症候群、産後のうつ
  • 加齢(認知症など)

脳の研究と嘉納の方法論

以上、簡単に運動が脳に与える影響をみたが、以下その意義について、改めて確認する。

嘉納は、道徳教育(徳育)を最も重要であると考えていたことは既に述べた(第2回、第12回など)。それは、次のように、道徳のレベルが高ければ、その人自身も周りの人々(社会)も幸せになれるからである(第7回)。

道徳の最も高い域に進んだ人は、おのれの欲することをすれば、それが他人のためにも、社会のためにも国家のためにも人類のためにもなるのである。善いことをすれば満足する。よしや自己の肉体上の満足を図る場合があっても、それが最も高い精神上の満足を得る手段として必要であるからである。

これに反して、道徳上の最も低い位置にあるものは、自己の欲するところは事ごとに他人の利益を衝突し、社会国家人類の福祉と矛盾する。それゆえに、道徳の高い人は、他のためになること、すなわち徳行することが、自身の満足と一致する。道徳の低い人は、もし道徳を行うとか、正しいことをしようと思えば、絶えず苦痛を感ぜざるを得ぬのである。この相違が修養の出発点である。

しかし、道徳のレベルが低ければ、苦しい思いをすることになる。

それでは「道徳」とは一体何であろうか。嘉納は、人は、社会の存続発展に適応する行動を取らざるを得ない存在であるとし、「道徳」とは、この社会の存続発展に「適応」することだという。

人間が社会を結んでいる以上、その社会の一員としてその社会を存続発展せしめねばならないのである。これに反対の行動は決してとり得ない。しからざれば社会から排斥せられるのは当然である。一人単独に世にたたば格別であるが、それは不可能のことである。いやしくも人として社会にたつ以上は社会の存続発展に適応する行動を取らざるを得ない。道徳とはすなわちこの社会の存続発展に適応するということにほかならない(著作集3巻137頁)。

嘉納は、人々のこの道徳のレベルを挙げるため、すなわち、うまく「適応」するため、徳育としての体育という方法論に基づき、殺傷を主目的とした柔術を教育を主目的にして再編し、また柔道だけでは国民体育を振興することができないとしてオリンピックに日本を参加させ、さらには、精力善用国民体育なる一人でコストなしにできる運動方法を開発した。

つまり、嘉納は、運動によって人々が社会に「適応」し、各人がそれぞれ幸福に生きることを願い、尽くしたといえるが、嘉納没後60年強を経た今、その方法論が理に適っていたことが実証されつつあるのである。

「道徳」、すなわち、社会の存続発展に対する「適応」とは、脳のネットワークが適切に機能することであり、また、新しい脳のネットワークを創りだすことである。そして、この脳のネットワークは、運動(有酸素運動)によって活発になり、また新しく作られる。人は、運動によって「適応」していくのである。

道徳のレベルが低い状態、「適応」がうまくいかない状態はつらく苦しい。うつ状態のほか、引きこもってしまった、極端には罪を犯してしまった、仕事がうまくいかない、家族や恋人、友人とうまくいかないなど、種々のつらく苦しいこと、「適応」がうまくいかないことがある。

しかし、「運動をしたいと心から思えるようになれば、そのとき、あなたは違う未来へ向かう道を歩み始めている。それは生き残るための道ではなく、成長するための道なのだ。」(13頁)。そして「あなたは遺伝子も感情も、体も脳もすべて活発な生活を渇望している。わたしたちは動くように生まれついているのだ。動いているとき、あなたの人生は燃え始める。」のである(337頁)。

新しい柔道の使命

そして、当然ながら、脳に対する運動の効果の研究は、徳育としての体育の有効性を証するだけではない。

運動に効果が認められる分野(うつ、ADHD、依存症など)は、すなわち、柔道指導者が活躍できる分野であり、また活躍が求められる分野だろう。例えば、うつ症状に苦しむ100万人以上の人々が「柔道をしたいと心から思えるようになれば」、どんな明日になっているだろうか。

□ネット上の文献

レイティ氏のHP404 Page Not Found

※本記事は、2010年8月から酒井重義(judo3.0)によってブログで連載された研究論考「勇者出処~嘉納治五郎の柔道と教育」の再掲です。

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