1. HOME
  2. ブログ
  3. 嘉納治五郎の柔道と教育8 おのれ自身の我儘を抑えて他のために尽くし得る力を養う。

嘉納治五郎の柔道と教育8 おのれ自身の我儘を抑えて他のために尽くし得る力を養う。

第7回では「自他共栄」を便宜上3つに分けてその内容をみてみたが、第8回では「嘉納はどのような人をつくろうとしていたのいか。」という視点から、改めて「自他共栄」をみていきたい。

まず前回ふれたように、自他共栄に基づく考え方や行動とは、「他人よかれと考えこれを行いつつ己をもよくし、己をよくしつつ他の利をはかる。」(回顧録)ものであり、「人間の本当の生活は、他人にも社会にも国家にも国外の人々にも、妨げをしないで自己の発達を図り、また自己の発達を図りながら、自分以外の人々に出来るだけ多くの利益を与えようとしなければならぬ。」(柔道教本)ものである。

自他共栄と乱取り

例えば、自他共栄の精神に沿った乱取りの仕方について、嘉納は、中学生向けに執筆した柔道教本において、次のようにいう。

形の場合でも同様であるが、乱取の稽古の際、最も大切なる一つの心得は、対手と自分が共々に稽古をしているのであるから、何事も自分本位でしてはならぬということである。どうかすると対手の利害を鑑みず、自分本位で練習するようなことが生ぜぬとも限らない。それは大いに慎まなければならぬことである。

稽古をするものは、相互に対手のためを図りながら自分のためを図るという心掛が必要である。もし一方が、自分のためばかりを考えて練習する時は、対手も同様の態度に出て、ついには喧嘩腰になりかねない。そういうことでは決して技は上達するものではない。

相互に労り合いもすれば、我慢の仕合いもし、練習上必要ならば、わざと倒れもして、双方自分の練習をしながら対手の練習上に便利を与える心掛がなくてはならぬ。それが結局相互の利益になるのである。

ことに初心者を対手にして稽古する時は、怪我をさせぬことはもちろん、なるべく苦痛なく早く技が覚えられるように導かなければならぬ。それには多少の面倒も免れまいし、自身には面白味のないこともしなければならぬ。

それが相互のことであって、修行者がだれも皆そういう心掛で練習してこそ、技術も進み、修行者相互の関係も麗しくなり、乱取の練習が徳性涵養の方法となり得るのである(嘉納・体系3巻402頁)。

中等教育

また、「自他共栄」は人と社会の根本原理であることから、普通教育が目指す人間像でもある。この点、嘉納は、中等教育について、目指すべき人間像が不明確であるがゆえに教育の効果が十分に上がっていないとして、その人間像を「おのれの欲するところを行って他の人もそれに満足する行いを理想とし、それに向って日夕あらんかぎりの力を尽くそうと心掛けるような人」と定める。

最後に最も大切なことは、中学教育は何のためにするのであるか、ということから考えを起こして、今日の中学教育は、すべて必要なことを適当なる割合で教授し、かつ訓練しているかと調べてみると、ある事柄に余分の力を費し、他の必要なことを等閑に附していることを発見する。

それは、種々の点からいい得られるのであるが、中学校教育において最も大切なことは、人間として世に立つ上に何を目標としていくべきであるか、いい換えれば、終生すべての行動を律していくべき終局の目的を明らかに定めさせておかなければならぬ。

今日の中学校教育は、その根本問題につき、力の入れ方が不足である。その結果として、少数者を除けば、まことに卑近な目的をもって世に立っている。一部のものは物質的に成功すればそれでよいと思っている。一部のものは権力を握ることをもって満足している。あるものは虚名を得て事成れりと考えている。

私は、中学校の教育は、柔道の主張する自他共栄の道徳、すなわち、おのれの欲するところを行って他の人もそれに満足する行いを理想とし、それに向って日夕あらんかぎりの力を尽くそうと心掛けるような人を造るを第一義としたいと思う。

また人は、ただに知識を取得しただけでは全き人ということは出来ぬ。知識に伴うに徳性と体力気力をもってしなければならぬ。しかるに、今日の中学校教育は、徳性を養うことにも体力気力を養う上にもはなはだ大なる欠陥のあることを認めざるを得ない。

最近たまたま体育を奨励するものがあるとしても、体育という名称の下に行われている各種運動のごときは、多数のものは与らず、少数の運動好きのものをして、体育の理想に適わぬ方法によって、学業を怠り徳性の涵養に妨害をなす場合の少なからざるを発見するのである。そういう弊害の生じた原因を考えてみると、大局に着眼せず、一局部のことに没頭して、他を忘れたためであろうと思う。

柔道の主張からいえば、各般のことが相合して欠陥のない全体を構成するのでなければならぬ。全体を目的としている中学校教育が、一局部のことのみに力を入れることは許されぬのである(嘉納・体系6巻47~48頁)

この中等教育における嘉納の指摘について3点ほど確認したい。

第一に、先にも述べたが、柔道で育成したい人間像と中等教育で育成したい人間像は同一である点である。精力善用・自他共栄は、あらゆる人・社会に妥当する根本原理であり、人がこの原理に従って行動すれば、皆が幸せになるというものである。したがって、嘉納の理解によると、普通教育で育成したい人間像とは、どのような教育機関であっても精力善用自他共栄の人となる。

第2に、中学校教育の終局目的が不明確であるゆえに「大局に着眼せず、一局部のことに没頭して、他を忘れた」との指摘は、「どのような人間をつくるか。」という教育の成果が不明確である場合、その成果が出ない、という第1回でみたドラッカーの指摘と同一である点である。これはおそらく現代の日本の教育にも当てはまるのだろう。

第3に、「どのような人をつくろうとしているのか。」という点について、嘉納は、「おのれの欲するところを行って他の人もそれに満足する行いを理想とし、それに向って日夕あらんかぎりの力を尽くそうと心掛けるような人」というように明確に回答している点である。

この点、「それに向って日夕あらんかぎりの力を尽くそうと心掛ける」とは「精力善用」を意味し、「おのれの欲するところを行って他の人もそれに満足する行いを理想」するとは、前回引用した次の理解を前提としているだろう。

道徳の最も高い域に進んだ人は、おのれの欲することをすれば、それが他人のためにも、社会のためにも国家のためにも人類のためにもなるのである。善いことをすれば満足する。よしや自己の肉体上の満足を図る場合があっても、それが最も高い精神上の満足を得る手段として必要であるからである。

これに反して、道徳上の最も低い位置にあるものは、自己の欲するところは事ごとに他人の利益を衝突し、社会国家人類の福祉と矛盾する。それゆえに、道徳の高い人は、他のためになること、すなわち徳行することが、自身の満足と一致する。道徳の低い人は、もし道徳を行うとか、正しいことをしようと思えば、絶えず苦痛を感ぜざるを得ぬのである。この相違が修養の出発点である(嘉納・体系第9巻157頁)。

嘉納塾

それでは、「他人よかれと考えこれを行いつつ己をもよくし、己をよくしつつ他の利をはかる。」、「おのれの欲するところを行って他の人もそれに満足する行いを理想とし、それに向って日夕あらんかぎりの力を尽くそうと心掛けるような人」という人物像は、もう少し具体化すると、どのような人だろうか。この点については、嘉納塾の教育方針が参考になる。

嘉納塾とは、嘉納は、数え年23歳(講道館を設立した頃)、親類や知人の子弟を預かり、嘉納が彼らと共に生活をしながら指導教育を行う嘉納の私塾であり、以後38年間、350人前後の子弟が嘉納塾から巣立っている。

この塾の方針について、嘉納は次のようにいう。

わが塾においては、幼年の時分から労働を貴ぶことを教え、困苦欠乏に慣れさせるように努めている。あえてわが親愛なる塾生を苦しめてよいと思っているわけではない。しかし、自分は、幼年の時分から困難を忍び労働に慣れるということが、他日、困難なる事業に従事し、繁劇なる世に処して屈しない実力を養う最上の手段であると考えるからである。

自分は、目前の愛に引かされて、子供にわがまま勝手を許した家庭の子供を多く見た。かくの如き子供は、自分の務めを尽くすことを知らない。他人のためになさねばならぬ義務も、自分の気の向かぬ時にはこれを怠り、自分の発達のために必要なる勤勉も、自分の気に向かぬ時にはこれをなさない、学校に通うことがいやになると学校を休む。厳しく咎められれば偽りをいう、遂にかくの如き子供はその一身を誤ってしまう。

しかるに、幼年の時より労働の習慣を養い、艱難苦痛をなめておった時には、なすべきことであるならば、如何程の困難も辞さぬ、なすまじきことであるならば如何程の苦痛も忍ぶ、目的を遂げるに必要であるならば如何程の勤勉にも堪える、わが塾生はそれらのことをなし得、他日の基礎を造るためにそれぞれ修業の方法を設けてある。

すでに世に出て実務に当たっている者は、今述べたことによって思い当たることがあろう。義務を尽くす必要のあった時には、かつて塾にあった時分に修業したことは、この場合に適用するがためである。今から事業をなし遂げるために必要なる準備は、如何程の困難辛苦を経てもやろうという決心がなければならぬ。その決心を作りこれを実行するは、かつて塾におった時の修業が基礎になって、出来るのであろうと思う(嘉納・著作集3巻289~290頁)。

精力善用・自他共栄を世に唱える以前のものであるが、嘉納は、嘉納塾の教育方針について、「克己の力を養う事」、「おのれ自身の我儘を抑えて他のために尽くし得る力を養う。」点にあるという。

□明治44年(嘉納数え年52歳)

我が塾にて説くところの人の道は、世間の説くところの人の道と決して異なるところはない。しかし道徳を実行するについては修練を要するもので、その修練について我が塾の特色ともいうべき三つの要項がある。その第一、克己の力を養う事である。

(中略)

すべて幼時より我儘を通じて育てられたものに、成人の後志を遂げ得たものはほとんど稀である。余りあるほどの学資を支給せられ、何不自由なく我儘気儘に慣るるものは、人に対しておのれを尽くすべきことを怠り、世に重んぜられず、人に斥けられ、なすなきに了る例がはなはだ多い。

これに反して他人の僕となり、他家の食客となり、百般の労役に服し、零砕の時間を利用して、学校に通い、辛苦艱難のうちに学んだ者に志を達した人が少なくない。我が塾の克己を第一としたのは、これがためで、平生決して我儘をせず、人のため身のために尽くす習慣を養う必要上、克己何事にも服することを第一条件としたのである(嘉納・体系5巻39~43頁)。

□大正2年(嘉納数え年54歳)

まず、塾が創立以来、今日に至るまで一貫した精神とは何であるかというに、これは、おのれ自身の我儘を抑えて他のために尽くし得る力を養うということである。

(中略)

真の人道なるものは、互譲ということにある。毎年元旦式の席上でいうように、おのれが十のものを与えて三か四をとるようにしろということである。お互いにこういうふうにして、余分のものはこれを平和的に分ったならば何らの争いもなく、至極平和であってかつ幸福であることができる。世の中の事もかくのごとくしてやるべきものであろう。そうしたならば、余計なことに頭を悩ますこともなくて、まことに楽である(嘉納・体系5巻52~57頁)。。

このように、自他の共栄を図る人間、すなわち「他人よかれと考えこれを行いつつ己をもよくし、己をよくしつつ他の利をはかる。」人間とは、「おのれ自身の我儘を抑えて他のために尽くし得る力」が必要となる。

最も優れた教育機関の一つとして挙げられる英国のパブリックスクールにおいては、外出も食事もままならない環境でチームスポーツが盛んにおこなわれるが、これもまた、嘉納塾と同様、大人になって自由を享受する前に、規律を身につけることが重視されている。

自由と放縦の区別は誰でも説くところであるが、結局この二者を区別するものは、これを裏付ける規律があるかないかによることは明らかである。社会に出て大らかな自由を享受する以前に、彼等はまず規律を身につける訓練を与えられるのである(池田潔『自由と規律』156頁)。

以上、「自他共栄」の人間像に簡単にふれたが、嘉納の「自他共栄・精力善用」が提示する人間像や教育方針、社会の在り方などについては、嘉納没後70年以上を経た現在、様々な研究がその有効性を証しているように思われる。例えば、米国の政治学者ロバート・パットナムの「ソーシャルキャピタル」(ソーシャル・キャピタル – Wikipedia)はまさしく嘉納の「自他共栄」を証するだろう。このあたりは改めて(可能な限りで)ふれていきたい。

一応のまとめ

最後にまとめたい。

これまでみてきた自他共栄・精力善用の人間とは、端的にいうと、利他的な人間であるともいえる。他者の痛みや苦しみを分かり、他者の幸せを願い、他者のために尽くす人間である。

嘉納の子である嘉納履正氏(3代目館長)は、嘉納の志について次のようにいう。

私と創立者とは父子関係になっているので、父の非は礼としてあげつらいたいくなく、また其の長と見るべき点もいうべきではないかも知れないが、もし許されるなら、私の見た父の一番尊ぶべき点は「世のため人のために尽くしたい」という純乎たる志であったといいたい。父は柔道の普及とともにその一生を師範教育また国民体育の向上に捧げたが、その成否については世の批判に俟つべきであろう。しかしながら常住座臥、思いは世のために尽くしたいというのが自己の一生の志であって、これに加えるに不退転の積極精神こそ、父の背骨であったと私は信ずる(加藤仁平・嘉納治五郎222頁)。

「世のため人のために尽くしたい」という志を育て、その志を全うするための心身の力を身につけること。嘉納の柔道の存在理由はまさしくこの点にあるのではないだろうか。

虚弱ゆえに同級生から軽んじられ「強くなりたい。」と、自己のために強さを欲した嘉納少年は、柔術の稽古を通じて、他者の幸せを願う、強さを備えた人間に生まれ変わった。これが嘉納の歩んできた道であり、また、嘉納の弟子が歩む道だろう。

この嘉納の歩んだ道こそ、神話学者ジョーゼフ・キャンベルが明らかにした英雄の冒険であると思われるが、この点は、本稿が提示する試案にとって非常に重要なポイントなので改めてふれるとして、最後に、ノーベル平和賞を受賞した、チベット仏教の指導者であり、また、チベット亡命政府の長でもあるダライ・ラマ14世の次の言葉をもって終わりたい。

国家の政治体制にはさまざまなものがありますが、たいていの社会で核になっているのは利他的な態度です。他者のため大多数の幸せのために力をつくそうという願いです。利他的な態度こそ、人間社会の幸福の基本です。世界のおもな宗教は、思想体系の違いはあっても、みな利己的な態度を養うことを奨励します。簡単に言えば、利他的な態度を養えば心の平安を得られ、自分自身が救われるだけでなく、自分を取り巻く雰囲気まで穏やかなものになります。」(瞑想と悟りp185)

※本記事は、2010年8月から酒井重義(judo3.0)によってブログで連載された研究論考「勇者出処~嘉納治五郎の柔道と教育」の再掲です。

関連記事

おすすめ書籍

オンラインイベントに参加!

おすすめ記事

最近の記事

友だち追加