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嘉納治五郎の柔道と教育9 嘉納塾1 わがまま勝手を許した家庭の子供は一身を誤る。

前回まで「嘉納はどのような人をつくとうとしたのか。」という点について不完全ながらも一応ふれてきた。そこで次は、精力善用・自他共栄という能力・態度を身につけた人をつくるため、「嘉納はどのような方法でつくとうしたのか。」という点をみていくが、その前に前回話題にあがった「嘉納塾」をもう少し詳しくみていくことにする。

何故ならば、嘉納塾は、嘉納が育成しようとした人間及びその育成方法について理解を深めることができるうえ、本稿が提案する、これからの柔道及び教育の仕組みに関するキーコンセプトの一つとなるからである。

 

嘉納塾のきっかけ

講道館とほとんど同時に始めた嘉納塾のことについて一言しよう。嘉納塾も講道館と同様で、最初は、僅かな人員で、親類や懇意な人から指導・監督をたのまれた幾人かの子供と直接自分をたよって来た書生で、柔道教授の手伝をさせながら世話をした若干の人々とが集まって塾をなしたのである。それ故、最初は別にやかましい規則もなく全く家庭的なあつまりにすぎなかった。

しかし、人数がようやく増加し、また塾生の種類もいろいろになって来たについて何かきまりがいるようになり、また教育の方針も示さなければならぬ所から、だんだんと規則だったものになって来たのだ。嘉納塾という名も始めからいつきめたというのではなく、嘉納のもとに集まって来たから、かつとはなしに嘉納塾といいならわしたのである。

嘉納塾の必要性

当時自分のものに托せられた子供の中には、財産も豊かで書生や召使などから大事に取り扱われるために、ついわがまま・懦弱に流れるというものもあり、また本人必ずしも悪くはないのであるが、境遇のために邪道に陥るというようなものもあったりするので、いずれの親からも厳格な教育をという注文を受けた。

自分自らも、昔から困窮の間に人となったものは自然精神も確実で、敢為の気象も養われ、やがて有為の人物になっていると信じていた。それで親の膝下にあってはついあまやかされて自然的に困苦欠乏を味わい得ないという人々は、塾において修行する必要があると信じたのだ。

嘉納塾のスケジュール

「嘉納塾の規則は、時により多少の相違があって、終始一貫というわけにはいかんが、上二番町時代の始めにおいては、まず起床は午前四時四十五分、それから午後九時半に床につかせる。幼年のものは、少し早くねさせたと思う。

塾生のなかに警醒当番というものを置いて、塾生がかわるがわる一人ずつこれに当たり、自分は午前四時四十五分までには起床して四時四十五分に鈴をならして皆のものを起こして廻る。一般のものはそれまで安心してねているのだ。

当時の自分の考えでは、人は何時に起き上がらねばならぬというその必要な時間に、きっと目を醒ますことが出来るだけの訓練を平素につけておかねばならぬ。そういう考えからこの警醒当番を設けたのである。この当番に当たったものは、少しも油断なくランプや時計を枕元に用意し、時間をたがえず必ず勤めをはたすよう努力させた。この当番にまかせて一般のものは安心して熟睡するという仕組みである。

塾生は起きるとすぐに自分の部屋の掃除をする。それから庭、玄関など屋外まで当番をたてて掃除をする。また勉強の時間を定めて何時から何時までは勉強、何時から何時までは必ず道場へ出ること。また休息はいつからいつまでと一定とした。

勉強の時間には、必ず正座着袴して足を崩すことを許さない。師範の食事の際は、塾生にかわるがわる給仕をさせる。その間にいろいろの談話を試み、こちらからも言いきかせ、また塾生からもきく。客がくれば必ず玄関に出迎え、還りにはまたこれを送る。取次は塾生交代でこれに当たる。

自分で費用を出さず世話になっている塾生も、また然らざる身分にあるものの子供も同等の待遇をした。外出については塾から団体的にさせるほかは各自自由に外出を許さぬことを原則として、特に理由があれば許すことにした。自宅へ帰らせることは年齢その他の関係で一様ではないが、東京のものは月二回、時間をかぎってこれを許した。

塾生を托せられる際にはあらかじめ一切自分にまかせるという条件をつけ、帰宅のごときも親許の請求にさせ必ずしも応ぜないことの約束をして引受けた。最初上二番町時代に塾生としておったものは本田増次郎、宗像逸像、湯浅竹次郎、西郷四郎らであった。

一旦塾生となれば、朝起きるから夜寝るまで必ず袴を着けていることとし、道場の稽古儀のとき以外は厳重にこれを守らせた。小遣銭は年長のものには持たしたが、一般には一切所持せしめず、必要品は品物で渡すことにしていた。菓子なども自分勝手に買うことはもちろん、自宅から持ってくることも許さない。塾で一周一回茶話会を開いて菓子を食べさせるのだ。

塾生は毎日いかなる日でも道場に出なければならない。それから毎日曜日には一同を集めて自分から日常の心得、処世の要諦を訓話した。宅に帰さない日曜日には塾生は団体となって郊外を散歩することを奨励した。塾生はどんな寒中でも火鉢を用いず、ランプの掃除から居室の酒掃、風呂焚き、皆自らやったが炊事のみはしなかった。

カリキュラムの参考にしたもの

大体かような訓育をよくと信じたのであるが、この規則を定めるに参考になったことがある。上野の浄名院、これは律宗の寺であるが、当時の住職は自分の祖父について学問をした人で、その関係から父のところへもしばしばたずねて来、自分もまたその寺へ時々往った。

一体、律宗の戒律なるものは世人の知っている通り厳格なもので、食事は一日一食に限り、朝は四時頃から置き、よく酒掃に努め、寺の内外を清潔にすることはよく行届き、全く寺境一塵を止めずという風であった。自分はまのあたりこれを見聞きして塾の早起、酒掃当に関する参考にしたのだ(以上嘉納・著作集3巻44~48頁)

嘉納塾の教育方針

わが塾においては、幼年の時分から労働を貴ぶことを教え、困苦欠乏に慣れさせるように努めている。あえてわが親愛なる塾生を苦しめてよいと思っているわけではない。しかし、自分は、幼年の時分から困難を忍び労働に慣れるということが、他日、困難なる事業に従事し、繁劇なる世に処して屈しない実力を養う最上の手段であると考えるからである。

自分は、目前の愛に引かされて、子供にわがまま勝手を許した家庭の子供を多く見た。かくの如き子供は、自分の務めを尽くすことを知らない。他人のためになさねばならぬ義務も、自分の気の向かぬ時にはこれを怠り、自分の発達のために必要なる勤勉も、自分の気に向かぬ時にはこれをなさない、学校に通うことがいやになると学校を休む。厳しく咎められれば偽りをいう、遂にかくの如き子供はその一身を誤ってしまう。

しかるに、幼年の時より労働の習慣を養い、艱難苦痛をなめておった時には、なすべきことであるならば、如何程の困難も辞さぬ、なすまじきことであるならば如何程の苦痛も忍ぶ、目的を遂げるに必要であるならば如何程の勤勉にも堪える、わが塾生はそれらのことをなし得、他日の基礎を造るためにそれぞれ修業の方法を設けてある。

すでに世に出て実務に当たっている者は、今述べたことによって思い当たることがあろう。義務を尽くす必要のあった時には、かつて塾にあった時分に修業したことは、この場合に適用するがためである。今から事業をなし遂げるために必要なる準備は、如何程の困難辛苦を経てもやろうという決心がなければならぬ。その決心を作りこれを実行するは、かつて塾におった時の修業が基礎になって、出来るのであろうと思う(嘉納・著作集3巻289~290頁)。

嘉納は、数え年23歳(講道館設立年)にこの嘉納塾を始め、以後38年間350人前後の子弟に教育した。

※本記事は、2010年8月から酒井重義(judo3.0)によってブログで連載された研究論考「勇者出処~嘉納治五郎の柔道と教育」の再掲です。

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