嘉納治五郎の柔道と教育21 ズルズルと、便法にしたスポーツ論に溺れてしまった。
引き続き、長期的な目標と短期的な目標のバランスの問題についてみていきたい。もし、柔道につき、短期的な目標(試合の勝利)のみが追求され、長期的な目標(人間教育)がおろそかになっていたとすれば、それは何故だろうか。以下三つほど挙げてみる。
成果の定義
第一は、長期的な目標は精神面に関するものであり、成果を定義することも測定することも難しい、ゆえにこれを目標としづらい、ということがあげられるだろう。これに対し、短期的な目標は、技術や体力に関するものであり、成果を定義することも測定することも容易である。新しい技を覚える、技をかけるタイミングがよくなる、今まで投げれなかった相手を投げることができた、試合で勝ったなど分かりやすい。
GHQの占領政策
第二は、第二次大戦後日本を占領した連合国総司令部の占領政策の影響である。
昭和20年、日本を占領した連合国総司令部は、軍事的な教育は禁止するとして、学校における武道(柔道、剣道など)を全面的に禁止する。さらに、武道の教員免許を無効として、体操などの他の教科に転任できる者を除き、武道の教員を学校から追放した(永木耕介『嘉納柔道思想の承継と変容』184頁)。
戦前どのような教育がなされたのか、このあたりは検討していないが、連合国総司令部は、柔道における精神教育を軍事的教育という認識を持ったことは明らかである。
その後、日本側は、柔道を復活させるため、柔道は、軍事的な教育と関係のない「スポーツ」であることを強調し、連合国総司令部に対し、学校における柔道の解禁を求める。この結果、連合国総司令部は、昭和25年、スポーツとしての柔道に限り実施してよいとして解禁する。
柔道の教員が学校から追放され、学校における柔道が全面的に禁止された空白の5年間、そして、スポーツとしての柔道に限り認めるという占領政策は、嘉納の柔道の伝統に何らかの断絶と変容を生み出しただろう。
昭和11年、12年の全日本柔道選士権大会で優勝した山本正信氏は、昭和57年、次のように話している。
柔道は武道ではなく、スポーツであると強調して、解禁にこぎつけた日本の指導者は、いつか再び”武道’’の復活、精神教育の中心にするつもりであったはずが、ズルズルと、便法にしたスポーツ論に溺れてしまった(藤堂良明『柔道の歴史と文化』186頁)。
さらに、占領が終了した後、日本は、米国の同盟国として、国防の多くの部分を米国に委ね、経済発展に専念する方向で再建をはかった。推測ではあるが、国家が国防の多くを他国に委ね、軍事的な側面を遠ざけたことは、武術としての柔道が衰退し、スポーツとしての柔道が盛んになったことと何らかの関係があるだろう。そしてこのことは、柔道がもつ精神教育的な側面が疎かになったことと何らかの関係があると思われる。この武術としての柔道については後に改めてふれたい。
オリンピック
第三は、昭和39年(1964年)、柔道がオリンピック種目となったことである。
そもそも、ルールを統一し、関係者を組織化して、選手権大会を開催し、各地から集まった選手が競い合うというものは、勝ち負けを競うゲームである近代スポーツの仕組みそのものである。
この近代スポーツの祭典であるオリンピックの競技種目となったことは、柔道がスポーツとして発展する上で大きな効果があった。今や200カ国にまで柔道が普及したのはこのオリンピックの影響が大きい。
他方、長期的目標と短期的目標のバランスという観点からみると、オリンピックは次の二つの影響があったように思われる。
一つは、日本は金メダルが至上命題となったことである。
日本は、本家本元として、とにかく勝つ。四の五の言う前に勝つ。人間教育云々は勝ってからの話である、というものである。
もう一つは、オリンピックを軸として柔道の関係者が組織化されたことである。
柔道の上部組織として国際柔道連盟があるが、この国際柔道連盟の規約第1条(1997年のもの)には次のようにあったという(藤堂良明『柔道の歴史と文化』193頁)。
- 国際柔道連盟は、嘉納治五郎により創始された心身の教育システムであり、かつオリンピック実施種目として存在するものを柔道と認める。
- IJFの規約、付則、規定ならびに他の規則のすべての条項は、オリンピック憲章にしたがっていかなければならない。
つまり、世界の柔道関係者は、オリンピック実施種目の柔道、すなわち、スポーツとしての柔道の運営を主目的として組織化されたといえるのではないだろうか。
嘉納の柔道は、あらゆる分野に普遍的に妥当する人間と社会の原理であり、オリンピック種目としての柔道はその一部分でしか過ぎない。しかし、もし「競技としての柔道」という、柔道の一部分を主な目的として組織化されたのであれば、この仕組みの中で、競技を超えた価値(長期的目標)を追求することはなかなか難しいのではないだろうか。
嘉納の本当の真意か否かは分からないが、嘉納は、弟子の望月氏に対し、オリンピックには参加しない、と話していたという。
スポーツ的要素が多分にあるが、柔道の本質はスポーツとは異なるから、オリンピックには参加しません。柔道は柔道独自で世界大会をやる計画があります。(永木耕介『嘉納柔道思想の承継と変容』270頁)
昭和7年、74歳間近の嘉納は次のようにいう。
そこでこの際私は大決心をするに至ったのである。私は今年取って74歳になる。物心が出来てから約七十年の経験をつみ、講道館創設してからでも満五十年になる。そこで今日までの仕事をもって一段落として、今後新たなる活動を始めようと思う。それは何かといえば、世界に柔道の技術を普及すると同時に、その根本原理である精力善用自他共栄の本義を宣明し、国際の関係を円満にし、人類の福祉を増進せんとする運動である(嘉納・著作集_巻147頁)。
嘉納は、柔道の技術を世界に広め、それによって「国際の関係を円満にし、人類の福祉を増進せん」としていた。講道館文化会で宣言されたものであるが、あくまで柔道の技術は手段として位置づけられている。嘉納が生きていたらどのような組織化が行われたのか、歴史のIFではあるが興味深い。
柔道とスポーツの区別
以上、ざっと短期的目標と長期的目標のバランスが崩れた原因を挙げてみた。それにしても、「スポーツとしての柔道」に限り認めるという占領政策やスポーツの祭典オリンピックの影響など、スポーツであることが悪影響を与えたという視点が大きい。
しかし改めて思うのは、柔道と競技・スポーツの違いは何処にあるのか、という点である。前に見たとおり、嘉納は、以下のように柔道と競技・スポーツを明確に区別し、「柔道の本質はスポーツと異なる」と断言している。
- 競技運動とは勝敗を争う一種の運動であるが、ただそういうことをする間に自然身体を鍛錬し、精神を修養する仕組になっているものである。
- さりながら競技運動の目的は単純で狭いが、柔道の目的は複雑で広い。いわば競技運動は柔道の目的とするところの一部を遂行せんとするに過ぎぬのである。
しかし嘉納の考えに従って区別ができても、いまいち判然としないものが残らないだろうか。嘉納が存命の頃、スポーツは輸入されたばかりであり、外来のものであることが自明だった。その点で明確に区別できるが、しかし、今やサッカーや野球は土着化し外来のものであるという認識は薄れている。
そこで、次回は、改めて、この柔道と競技・スポーツの違いについてみていきたい。この違いをみることによって、これからの柔道と教育に関する有益な示唆が得られるように思われるからである。
※本記事は、2010年8月から酒井重義(judo3.0)によってブログで連載された研究論考「勇者出処~嘉納治五郎の柔道と教育」の再掲です。