嘉納治五郎の柔道と教育2 三つ児の魂百まで
嘉納の印象
数え年75歳の嘉納の印象について、インタビューをした東京文理科大学講師エイ・エフ・タマス氏は次のように話した。
嘉納師範との初対面ほどびっくりしたことは、今までにかつてなかった。貴族院議員とはいえ、柔道の源泉講道館の創設者で、その統領である -私は、世界中のスポーツマンとりわけ国際オリンピック大会関係者の間に令名を馳せているこの国際人に会う瞬間まで、拳闘の重量選手 -鼻梁骨の砕けた、耳胼胝の出来た老拳闘家といったタイプの仁- を想像していた。
しかるに眼前に現れた我が嘉納師範は、小柄で、学者風で、優れた語学の才能と、審美的性向の持ち主であったのだから、私の驚き方といったら、それこそ並大抵ではなかった。本音を吐けば、驚愕の境を通り越して、困惑し、気後れしてしまったのである。
独り私ばかりではなかろう、およそ柔道について、無智なること私のごとくであるならば、おそらくはだれでも真実の柔道を知るまでは、講道館の創立者にしてその師範たる人の風貌が、かくも学者風であり、優雅であることに対して、不似合の感を起したに相違なかろう(嘉納・体系10巻328頁)。
嘉納を「柔道を創った人」としてのみ捉えると、タマス氏のようなイメージを持ってしまうのではないだろうか。第2回では、嘉納治五郎は、当時の日本を代表する教育者であり、広く言うならば、当時の日本の近代化を担ったエリートであったという点を確認したい。
教育者を選んだ理由
戦前の日本には、教師の育成を専門とした師範学校があり(師範学校 – Wikipedia)、高等師範学校は、いわばそれらの師範学校の最上位にあるような学校であるが、嘉納は、数え年34歳(明治26年)から61歳(大正9年)まで、途中1年弱、文部省の局長を勤めるなどあるも、ほぼこの(東京)高等師範学校の校長の職にあった。(嘉納は数え年23歳で学習院の講師となり、学習院教頭、熊本の第五高等中学校長、東京の第一高等中学校長などを経て、高等師範学校長となる)。
つまり、嘉納は、日本の公立学校の教師を育成するシステムの実務上の頂点にいたのであり、日本の公教育そのものを担っていたといえる(少なくとも、嘉納はそのような認識でいる)。
嘉納は、教育を選んだ理由を次のようにいう。
文化のひくい時代においては、国家にとってもっと大事なことといえば軍事、政治、次に産業という順序に取り扱われる。しかして教育はそれらに 比較するとはるかに軽いものと見られている。けれども進んだ政治というものは、教育の力によらなければとうていその目的を達するものではない。
世の中が進むにしたがって社会の事物が複雑になってくるのであるが、その複雑なる社会を治めて行くには、政治の学問の必要が生じてくる。また 複雑なる社会を統括する政治家は、天稟にまつことの多大なるものあるはもちろんであるけれども、さらに教育の力にまつべきものが少なくないということもまた争うべからざる事実である。
また一方からこれをみると、いくら進んだすぐれた政治家が輩出したとして も、一般国民がよく教育せられていなかったならば、進んだ政治の出来るはずがない。特に近代のごとく代議政体の行われている世の中においては、世の大衆たる選挙人がよく教育せられていなければ善き政の行われる道理がない。
軍事においてもまたその通りで、大なる軍隊を統率して戦争を行おうとするに当 たっては、軍事に関する各般の学問を必要とするのみならず、統率者の人格・知識の優秀なるを要求することがさらにはなはだしい。ただに統率者のみではない。兵卒もまたよく教育せられてなければ有力なる軍隊が成立しない。
ことに近年は陸軍にせよ、海軍にせよ、空軍にせよ、いずれもともに高等なる学術上の研究から生じたる器械・薬品・その他諸般の施設が必要である。故に軍事も政治と同じく、教育の力にまつところのいかに大なるかを知ることが出来る。
産業交通においても同様のわけで、学術の研究と普通教育の徹底とにまたねばならぬことがはなはだ多い。また進んだ社会においては保健・芸術その他諸般の要素が備わらねばならぬのであるが、これらはいずれも教育の進歩に伴うてその発達を見るのであるということを考えると、教育がこれら軍事・政治ないし産業などと同等もしくはそれ以上に必要なるものであると考えることはあながち不当の言ではなかろう。(嘉納・著作集3巻255頁~257頁)
嘉納は、政治、軍事、産業の土台は教育にあり、国家にとって最も必要なものは教育であると考えたからこそ、教育を選んだ。嘉納には、自分が日本という「国家」を担っていく、という自覚があるのである。
高等師範学校の校長を務めた理由
また、教育と言っても分野は広いが、嘉納は高等師範学校の校長の職を務めた理由を次のように語る。
教育にはいろいろの種類がある。しかしこれを大別すれば専門教育と普通教育にわかたれる。この二部門はどちらも等しく国家の大切なる施設に相違はないが、しいて軽重を論ずるならば自分は普通教育に一層重きをおかなければならぬとおもう。
なんとなれば、普通教育は二重の任務をもっているからである。すなわち一つは多数国民の教育であり、一つは専門教育の基礎教育である。いかに少数の人が高い専門教育を受けておって、各般の研究が進んでも一般の国民が道徳的に知力的にまた身体的に貧弱なものであれば、その高い専門教育も用をなさぬことになる。
すなわち専門教育を受けた人も、実際に当たりては多数普通教育のみをうけたる人とことをともにせねばならぬからである。また専門教育の基礎として普通教育を見るときは、専門教育を受け得る能力は普通教育の時代に養われるというべきである。
よい普通教育を受けておれば、その上に受ける専門教育の成績が上がってくる。これと反対に普通教育の基礎がよくないと専門教育は効果を顕わさない。また道徳教育の根本は普通教育のおりに養われる。
もっとも緊要なる教育は、小学校以前の家庭教育にあるといってよい。三つ児の魂百までというがごとく、幼少時の教育は人の一生を支配するものである。それ故、小学校・中学校の教育において受けた道徳教育が人の一生を支配するということになる。
中等教育以後の修養も軽視することはもちろん出来ぬが、自分は中等教育を終わるまでの間に養い得た力というものが、人に最大なる精力を与えるものであると信じている。これを細論すればいろいろの方法にわたりていい得るが、まず主なるものを二、三をあげてみよう。
善悪正邪を判別する力、正しいことをして満足し、よこしまなることを行って不快に感ずるという心、これらの修養は終生つきまとうところのものであって、中等教育以前にすでに養われる力である。
およそ社会の表面に立ちて大なる仕事をなす場合、その人の力は中等教育以後の教育によって養われるものが多いが、普通教育において道徳的修養の出来ていなかった人は、力はあってもその方針を誤ることが少なくない。
大なる力はあっても誤れる方向にこれを用いるときは、人を益せず己れを誤る結果を生ずる。これに反してたとい力は微力でもこれを用いる方向が 正にして善なる場合においては、その力相応に人をも益し己れをも利することが出来るだろう。
なおまた普通教育の方法いかんによりては、その人の天稟を根底より動かし得ないにせよ素志を貫く力、困難にたえる力、労を人に譲らぬ心がけ、保健に対する努力の習慣、これらの 力は大いに普通教育の時代に養わるべきである。
しかして専門教育のときによくその成果をあげる人々は、普通教育において養われたるこれらの力いかんによるものである。すなわち普通教育の基礎いかんによって専門教育の効果が別れると見てよい。
この道理により専門教育・普通教育・いずれも偏重することが出来ぬが、しいていえば普通教育をもって第一と考うべきであろう。高等師範学校はわが国普通教育の淵源であり、文部省普通学務局はその行政をつかさどる官庁の当局であるから、この大切なる普通教育の方針を誤らず、正しき発達を遂げしめようとしてこの両所に長い間職を奉じていたのである。(嘉納・著作集第3巻257頁~259頁)
さて、「嘉納はどのような人間をつくろうとしていたか。」というのがここでのテーマであるが、嘉納は、生涯、教育者として、日本国の公教育を担うエリートとして、「どのような人間をつくるか。」「どのような方法でつくるか。」という問いに向かい合い、自分が正しいと思うことを実践してきた、という事実を指摘したい。
嘉納にとって、「どのような人間をつくるか。」「どのような方法でつくるか。」という問いは、「どのような日本国民をつくるか。」「国家としてどのような方法でつくるか。」という問いとほとんど同じものであり、嘉納はこれに答えるため、教育に関する研究を行い(嘉納は英語のほか独語仏語もできる)、国内外の優れた人物と意見を交わし、そして自らの経験をもとに、自らの見解を作り上げたのである。
その嘉納はいう。普通教育における道徳教育が最も重要である。だから、普通教育の発展に力をつくしたのだと。嘉納の道徳教育には極めて大きな特長があるが、それは後述したい。
嘉納は、師範学校の校長を辞任後、当時の首相である高橋是清から「こういう考えを持っている人をただ空しく、野におくということは惜しむべきである。」として、大正11年2月、貴族院議員に勅撰され、その後も日本の教育に力を尽くすことになる。
※『嘉納治五郎大系(全15巻)』(本の友社1987~1988)を、「嘉納・大系」、『嘉納治五 郎著作集(全3巻)』(五月書房1922)を「嘉納・著作集」と略記します。
※本記事は、2010年8月から酒井重義(judo3.0)によってブログで連載された研究論考「勇者出処~嘉納治五郎の柔道と教育」の再掲です。