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嘉納治五郎の柔道と教育12 本当に耳にタコができるぐらいお話をされていました。

さて、本稿のテーマは「柔道が人間教育として効果を発揮するためにはどうしたらいいか。」という点にあるが、これまで「嘉納はどのような人間をつくろうとしているのか。」という点についてみてきた(第1回参照)。

嘉納がつくろうとした人間像を語るにはまだまだ不十分ではあるが、とりあえず先に進めることとし、次は、その精力善用・自他共栄の人を「嘉納はどのような方法でつくろうとしたのか。」という点をみていきたい。本稿のテーマを考える上で、嘉納のとった方法から大きな示唆を受けることができるからである。

嘉納がとった方法は、大別とすると3つある。第一は、改めてであるが、育成すべき人間像を明らかにすること、第二は、優れた教師を育成すること、第三は、体育を盛んにすることである。詳細は次回以降述べるとして、今回はその概要をみていきたい。

1. 育成すべき人間像の確立

これまでみてきた点ではあるがその意義を確認したい。

目指すべき人間像が明らかにならない限り、教育が十分にその効果を発揮することはない。言い換えれば、何を教えるかを明確にしない限り、伝えることはできない。したがて、嘉納は、40年以上の歳月をかけて探求し、数え年63歳のとき、人と社会の根本原理であり、また目指すべき人間像でもある「精力善用・自他共栄」を明らかにした。

育成すべき人間像を考えることは、人が幸福になるためにはどのような能力や態度、資質が必要か、社会が健全に機能するためには人はどういう能力を持つ必要があるか、という問いと同義であるが、この問いに対する解として昨今最も注目すべきものは、OECD(経済協力開発機構)のDeSeCoプロジェクト(DeSeCo – Wikipedia)が提示したたキー・コンピテンシー(国立教育政策研究所 – 研究案内 – 生涯学習政策研究部)だろう。また、教育学者である門脇厚司氏が提唱する「社会力」も挙げられる。

このOECDの「キー・コンピテンシー」や門脇氏の「社会力」は、嘉納の「精力善用・自他共栄」を内在的に理解するうえで極めて参考になるうえ、嘉納の「精力善用・自他共栄」が現代においても有効であり、むしろ、切実に求められていることの証左になるとも思われるので(できれば)改めてふれたい。

なお、嘉納は、精力善用・自他共栄を世に唱える以前から、雑誌を発行してあるべき人間像を語り、また、次のように50項目に及ぶ修養のポイントを述べた『青年修養訓』を執筆している。

序/わが国の青年に告ぐ/生まれ甲斐ある人となれ/立志 択道 竭力/精力の善養利用/遠大にして着実なる目的/成功の要道/偉人/身体の強健/摂生と鍛錬/智能の啓発/自修/観察/注意力の修練/記憶と思考/精読と多読/科外の読物/学修上の心得/興味と努力/多方面に注意を向けよ/実力/普通学と専門学/試験/天才/賦性と修養/修養と貧富/品性本分/俯仰天地に恥じず/自頼自立/勇気/油断/胆力の養成/思慮と決断/大事と小事/献身的精神/国体/愛国/立憲国民としての修養/子たる者の務/師に対する心得/朋友/学校/同情/礼儀/言語/金銭/日常の生活/娯楽/労働/結論

さらに、当たり前のことと言えばそれまでだが、何かを伝えようとするとき、伝える内容を明らかにするだけではなく、実際に伝えなければ、伝わることはない。

柔道家山口香氏のブログを拝読すると、福田敬子先生(福田敬子 – Wikipedia)は、「嘉納師範はいつも’精力善用、自他共栄’とおっしゃられていたので、話が始まると’また始まった’という顔をしている人もいました。本当に耳にタコができるぐらいお話をされていましたから。」とお話しし、「なぜ柔道ルネッサンスなんですか?精力善用、自他共栄と言わないのですか?」と言われたという。*1

目指すべき人間像やコンピテンシーを明らかにして、繰り返し伝えていくこと。この点は、これからの教育と柔道を考える上でも必須になるだろう。

2. 教師の育成

第2は、優れた教師の育成である。

第2回でふれたが、嘉納は、普通教育が最も重要であると考えて東京高等師範学校長となり、二十数年の間、普通教育を担う教師を育成してきた。嘉納は、自ら教壇に立って教師の卵を指導し、また長として東京高等師範学校をマネジメントしたが、それ以上に嘉納は、普通教育を担う教師の育成システムそのものを改善しようとしたといえる。

詳細は後に触れるとして、ポイントは、私たちは、人材育成において、教師が大きな影響を及ぼすことを経験的に知っていると思っているが、振り返って、本当に「知っている」のだろうか、という点である。

フィンランドはOECDのPISA(OECD生徒の学習到達度調査 – Wikipedia)でトップレベルにあるが、フィンランドの教師であるリッカ・パッカラ氏は、「教師が自分の仕事を楽しんで教えれば、子どもも楽しく学び、成果もあがります。」という。

つまり教師は、子供を教えることに対して責任を持たされますが、それ以外は自由にできます。どんな教材を選び、それを使ってどういうふうに教えていくかも、自分で決めることができます。自分で選び決めていくのは、ある面で負担がかかる作業です。けれども、自分が教えることは、子どもたちにじかに反映されます。教師が自分の仕事でやりがいを感じるのは、自分のすることが影響力を持っている、というところかもしれません。いい結果が出れば、これは私が教えたこと、と感じることができるのです。こんなふうに仕事をしていると、退屈することはありません。教師が自分の仕事を楽しんで教えれば、子どもも楽しく学び、成果も上がると思います(リッカ・パッカラ『フィンランドの教育力』23~24頁(学研新書))。

フィンランドは、教師になるためには大学院を卒業しなければならないとし、何を教えるか、どのように教えるか、などについて教師に大幅な裁量を与えたというが、この優れた教師を育成しその力を発揮させるという、伝え聞くフィンランドの教育政策を鏡として振り返ると、私たちは、優れた教師が持つ影響の大きさを見誤っていたのではないだろうかと考えざるを得ない。つまり、教師に対する投資のリターンを著しく過小に見積もり、十分な投資をしてこなかったのではないかと。

この点、嘉納は、教師や教育に対する投資のリターンの大きさを最もよく理解していた。

嘉納は、長年、教育者を専門的に育成する機関が必要である旨を主張し、教師育成システムの改善を企図したが、思うようにはいかなかった部分も大きいが、これは、おそらく、教育や教師に対する投資のリターンの大きさを嘉納ほど理解できる人が少ないからなのではないだろうか。

ようやく平成20年に教職大学院(教職大学院 – Wikipedia)ができたが、嘉納は、貴族院議員として国会で次のように発言している。

・・元来、各帝国大学に対するそのような教育者育成の大学が必要であるというのが趣旨なのである。然るに今の大学の大体の模様は、唯学問の研究にばかり没頭して、学識を得よう知識を修得しようとしている人が多い。訓育の上、品性の上などについて優れている人はその割に尊ばれていない。こういう傾向であるから、全国の中等教育は悉く皆知識本位となり、小学校にもそれが段々伝播している。中等学校、小学校までが予備校のように化けて来たならば、どうして本当の国民教育ができるか。又どうして本当の国家の中堅となる人物を造ることが出来るか。教育者は人間を造ることを目的とせねばならぬ。そうして人間を造るに必要な素養、又は精神を養わねばならぬ。それが師範学校というか、教育大学というか、高等師範学校を基礎として権威ある教育機関が出来なければならぬという主張のあった所以である(加藤仁平・嘉納治五郎209頁)

学校が「予備校のように化けて」魂のある「人間」を育てることができなくなる、という嘉納の危惧は、もしかして当たったのではないか、と思ったりするが、いずれにせよ、嘉納は、リッカ・パッカラ氏がいう「自分のすることが影響力を持っている」という偉大さの自覚と、「教師が自分の仕事を楽しんで教えれば、子どもも楽しく学び、成果も上がる」という教育の楽しみの自覚を真に備えた、訓育、品性に優れた教師を育て、道徳的「人間」をつくろうとした。これからの教育と柔道を考える上でも、優れた教育者の育成が重要となるだろう。

体育の振興

第3は、体育の振興である。

嘉納は、体育の振興のために種々行ったが、大きく三つある。

一つ目が柔道を創り普及させたこと、二つ目が日本にオリンピックをもたらし、またオリンピックに日本を参加させ、ヨーロッパのオリンピックを世界のオリンピックとしたこと、三つ目が精力善用国民体育という運動を考案したことである。

さて、嘉納が育成しようとした人間とはいわば「道徳的人間」であると言えるが、第一の人間像の明確化、第二の優れた教師の育成は、道徳的人間を育成することに有効であることは言うまでもない。しかし、道徳的人間を育成する方法として、何故、体育なのだろうか。本稿で度々引用している『嘉納治五郎』を著した加藤仁平氏は、次のようにいう。

当時、一般の用語としては、知育・徳育・体育といい、教育学概論などでは、養護・教授・訓練といっていた。嘉納は、その順に反対であった。重要性からいえば、徳育・体育・知育であり、教育の順序からいえば、体育・徳育・知育であると言っていた。この独自の立場に立ったからこそ、講道館柔道の創始者となり師範教育の総帥となり、学校体育の父ともなったのであろう(加藤仁平『嘉納治五郎』154~155頁)。

当時、一般的な理解として、教育の重要性は、知育、徳育、体育、という順序であったというが、現在も一般的にはおそらく同じだろう。しかし、嘉納は、徳育が一番であるとする。この点はすでに述べた(第2回参照)。

これからの教育と柔道を考える上で最も重要なポイントの一つは、徳育が一番重要であるといいながら、教育の順序は体育を一番とした、嘉納のこの「独自の立場」にある。

嘉納は、あまねく人が道徳的になって幸福となるよう、柔道を創り普及させ、柔道に馴染まない人が体育の恩恵を受けるよう、オリンピックに日本を参加せしめて体育への関心を高め、さらには精力善用国民体育という、場所を選ばず、手ぶらで費用もかからず、効果がある運動を考案した。

それでは、何故、嘉納は、道徳的人間を育成する方法として体育を選んだのか。

今回はあまりまとまりのない内容となってしまったが、次回は、この嘉納の「独自の立場」の意義についてみていきたい。

*1:出典:山口香の「柔道を考える」2009-02-25 教育と経営 http://blog.goo.ne.jp/judojapan09/e/dba406ed6a5bdb237cad7bff1216a5ba

※本記事は、2010年8月から酒井重義(judo3.0)によってブログで連載された研究論考「勇者出処~嘉納治五郎の柔道と教育」の再掲です。

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