嘉納治五郎の柔道と教育5 概念の技化
「嘉納はどのような人間をつくろうとしていたのか。」
嘉納の答えは、「精力」を「善用」し、「自他」の「共栄」を図る人間であるが、第5回では、この「精力善用」についてみていく。
「精力善用」とは、善を目的として心身の力を最も有効に使用することであり、目的達成のために最良の手段を選択し実行することである(最近の言葉でいうならばおそらく「問題解決力」だろう。)。
嘉納は、あらゆる分野において、精力善用すべきといった。
心身の力を最も有効に使用する人間、又は最も有効に使用しようとする人間、これが、嘉納が育成したいと思う人間像である。
どんなことでも人間のすることで、精神と身体を動かさないで出来るものはない。本を風呂敷に包むのでも文を作るのでもそうである。最も上手に本を包み文を作ろうと思えば、その目的に適うように精神と身体を最も巧みに動かさなければならない。これを心身の最有効使用法とも使用道ともいい、何事をするにも成功の一貫した大道である。この道を柔道と称するのである(嘉納・体系297頁)。
前に柔道は、心身の力を最も有効に使用する道であるということをいっておいたが、実社会における人間の行いは、すべて善を目的としなければならぬのであるから、善を目的として心身の力を最も有効に使用すべきである。言葉を換えていえば、精力最善活用ということになる。さらにこれを略すると精力善用になる。この精力善用は何事をするにも、おのずと人に有効の活動をさせるものであって、寸毫の力も無駄にすることを許さぬのである(嘉納・体系3巻319頁)
兄弟子への挑戦
それでは、柔道の稽古における「精力善用」の具体例を挙げる。
嘉納は、数え年18歳のとき、福田八之助の下で柔術を習い始めるが、この福田道場には、さかな屋の主人の福島兼吉という、力が強く、どうしても嘉納が勝てない兄弟子がいた。そこで、嘉納は、どうにかして勝ちたいと思い、工夫を重ねて兄弟子を投げることができたが、嘉納は、「その時の愉快さというものは、実になんともいえなかった。ふだんどうしても勝てなかった福島に勝てたということの愉快ばかりでなく、久しきにわたった努力の成果を見たという満足であったのだ。」と回想していることから、よっぽど印象的だったのだろう。
この嘉納が兄弟子である福島兼吉を投げようと奮闘する過程こそ「精力善用」である。多少長くなるが、物語のほうがより深く理解しやすいと思うので、古賀残星氏の『少年少女新伝記文庫25 嘉納治五郎』からその場面を引用する。
「いや、それがだ。福島兼吉という強い人がいるが、あの人とけいこをすると、力に引きまわされて、ぼくの大腰などはねかえされて、ちっともきかないんだ。なんとかして、兼さんに勝ちたいと思っているが、いいくふうはないもんかね。」
「そうだなあ。」
「五代は工学の勉強をしているから、力学的に兼さんを倒す方法はないもんかね。」
「柔術と力学か、 嘉納らしい目のつけ方だね。あるかもしれんが、今すぐには思い出せん。すもうの手はどうだ?」
「それはいいかもわからんな。両国までいくか。」
「いやこの寄宿舎にいるまかないの内山は、昔三段目の力士だったというじゃないか。一つかれに教えてもらおうか。」
「そうだ、炊事場に行ってみよう。」
嘉納と五代がまかないの内山喜惣右衛門を尋ねたら、夕食の準備がすんだ後で、一休みしているところでした。
「そうですね、すもうと柔術とは力の使いどころがちがいますからな。相撲は押しますし、柔術は組討ちですから、命のとりあいです。押す力より引く力が多いでしょうな。」
そういって内山は、しばらく考えていましたが、「すもうの外がけはかかりませんか?」と、嘉納と組んで、外がけの説明をしてくれました。
「五代、どうじゃ、このわざも足わざと腰わざだから、兼さんの大きなからだには、なかなかきくまいね。」
「かける時と、息のしかたによるだろう。」
内山はこれをきいてうなずき、
「さよう、とびこんでの外がけなら、ちょっとゆだんしていると、かかりますよ。すもうとちがって、膝をついたら、負けになるのではないのですから、やれますよ。」
部屋に帰ってから、嘉納は五代を相手に、外がけの研究をつづけました。その翌日、治五郎は道場にいって、福島とけいこ中に何度も、きのうならったようりょうで、外がけをやってみましたが、どうしてもかかりません。
しかし、とび込んでわざをかける呼吸は、いくらかよみこめたようでした。それとわざをかける時のくふうを、もっと考えねばならぬことに気がつきました。いくたびかやっているうちに、時たま福島の大きなからだが、後にゆらぐ時があるのです。
やはり工夫です。力の強い者に勝てなくては、柔術のねうちはありません。どこかにいい方法があると考えたのです。
昔、牛若丸は大男の弁慶に勝っています。牛若丸は弁慶がやたらになぎなたをふりまわしてくるのを、くるりとからだをかわしたそうです。
いくら力のある者でも限りがあります。弁慶も大きななぎなたをふりまわしていたら、いつか疲れるでしょう。そこをねらったのは、牛若丸のいいところです。
治五郎は、この牛若丸のやり方こそ術というものであり、これをうまく使わねばと、しかりに考えました。
力のある人に、力で押していっては勝てないのはあたりまえです。たとえば、五の力をもっている人に勝つには、どうしても六か七の力がなければなりません。
これだけのことなら、術というものはいらないと思ったのです。五の力のある者に、三の力しかない者が勝つには、相手の力を利用しなければなりません。そのためにはどうしたらいいか、ここが工夫のしどころと思いました。
治五郎は道を歩きながら、いっしょうけんめいに考えました。街路樹の落葉がかさかさと、風に吹かれてころがっています。空はどこまでもすみきった秋空です。
治五郎は放課後、湯島の図書館に行きました。この図書館はひまをみては書物を読みにくるところで、下足番のおじさんとも顔なじみになっていました。
西洋のレスリングの中になにかおもしろい技はなかろうか、と英語でかかれたスポーツの本を次々と読んでみました。む中でしらべていた治五郎の頭にピンときたわざがありました。
<これだ!これなら福島をなげることができるぞ!>
と、治五郎の胸は高鳴っていました。大学の寄宿舎に帰ると、五代竜作は本を読んでいました。
「何かいいことがあったのか?」
治五郎がにこにこしているので、五代は、部屋の入口に立ったかれを見あげるようにして、たずねました。
「いいわざを考え出したよ、五代、ちょっと立ってくれ。」
ふたりとも、着物にはかまという和服姿であります。治五郎は五代のえりをとり、
「これから、こう攻めて行くんだ。」
と、説明しながら、治五郎は五代をかつぎあげました。
「ウム、おもしろい、えんまの兼さんをこれでドンとなげ落とすんだね。この思いがけない新しいわざには、さすがの兼さんでもきっとかかるにちがいない。逃げられないように、うまく機会をつくらなければならないね。」
「兼さんは、力いっぱい押してくるからだいじょうぶだ。やってみよう。自信ができたよ。」
新しいわざを考え出したことで、治五郎の胸は、よろこびでいっぱいでした。着物のままでいく度も、治五郎は五代を相手に、その技をくりかえし、くりかえしけいこしました。
そうしているうちに、これならという自信がつかめてきました。夕方になって、治五郎はすっとぶようにして道場に行きました。道場では福島が次々とかかってくるものをなぎ倒していました。
治五郎はからだのちょうせつをはかり、ぐっと下腹に力を入れ、はらをきめて進み出ました。
「一本お願いします。」
<きょうは負けない、あのわざをかけて、必ず投げてみせるぞ!>と、いどむ心はもえています。福島は天神真楊流の朽木倒しがとくいであります。片手で胸を押し、他の片手で足を刈ったようにして倒すわざで、治五郎もこれにかかるとたまったものではありません。後に押し倒され、抑えられ、絞められるのです。
このわざにかからないように注意し、ぐんぐんと押してくるのを、左にさけ、右によけ、じょうずにからだをさばいていきました。治五郎は膝をちょっと折って、からだをちぢめました。福島は、はずみを食って、かかとをあげて、からだがぐっとのびました。
そのしゅん間です。
治五郎はからだをしずめて、左手を福島の股の間に入れました。まがっていた治五郎のからだは、アッという間にのび、福島の大きなからだは、かるがると、治五郎の左肩の上にかつぎあげられていました。まばたきする間ぐらいのアッという間のできごとです。
「アッ!」という間もなく、「ドタン」と、福島の島のような大きな体は、リスくらいの治五郎のからだの前になげだされていました。
治五郎はわれながらうまくいったと思いました。なげられた福島は、そこにすわって、
「やあ、まいった、あっと思ったら、かつがれて投げられていた。嘉納さんはすばらしいわざを考え出しましたね。何流ですか。」
「いや、失礼しました。何流でもありません。ただ少しくふうしてやっただけなのです。まぐれに勝ったというものでしょう。」
「じゃあ、嘉納流というものですね。やっぱりちえですね。わしは力ばかりでちえがたらんのでダメです。学問のある方は、頭の使い方がちがいますな。力だけでは、ちえに勝てません。嘉納さんはえらい!」
福島は実にさっぱりしています。負けたからといって、けちをつけるようなことはしません。それどころか、相手をほめたたえる兼さんでした。
これで治五郎は、だれもがおそれていたエンマの兼さんを、はじめて倒したわけなのです。他の門人たちのおどろきは大変なものでした。そして福島をなげたこの新しいわざは、これからいろいろくふうがかさねらられて、肩車というわざになったのです。
嘉納は、「兼さんに投げる」という目的のため、兼さんに効きそうな相撲の技「外掛け」を探して身につけ、一度は失敗するも、決してあきらめず、レスリングの本を読み、そこから兼さんに効きそうな新しい技「肩車」を開発し身につけ、遂に投げることができたが、これぞまさしく、身心の力を最も有効に使ったといえる。
「精力善用」の発見
それでは、精力善用に関し、最も重要な点をみていこう。
この兼さんを投げたとき、嘉納は何を学んだのだろうか。
まず、外掛けや肩車という技や、技に入るタイミングなど「術」を学んだのは間違いない。
最も重要な点は、嘉納は、この「術」を学ぶ過程で、「心身の力を有効に活用する」という「原理」(道)をも学んでいると「発見」したことにある。言い換えると、心身の力を有効に活用するという「宇内の大原則」を、兼さんを投げるという場面に「応用」していることを「悟った」のである。
柔道の技術上の研究から、すべて武術というものについてこういうことを悟った。すなわち、何事もその目的をもっともよくなしとげようとすれば、その目的に向かって心身の力をもっとも有効に使用せねばならぬ、という宇内の大原則の一つの応用であるということである(嘉納・著作集第2巻213頁)。
具体的に言うと、兼さんを投げることが出来れば、成績を挙げることもできるし、ビジネスもできるし、学問もできるし、何でもできる。なぜなら、既に兼さんを投げることを通じて、「心身の力を有効に活用する方法」「目的達成のために最良の手段を選び実行する方法」を学んでいるからでる。
例えば、成績を挙げるという目的のため、勉強のよく出来る子を観察したところ、誰もが無為に過ごしている5分、10分の短い空き時間に勉強するという「技」を駆使していることを発見した。そこでこの「技」を身につけたところ、成績が上がったという事例の場合*1、兼さんを投げることも成績を挙げることも、目的達成のために有益な「技」を探し身につけるという点で全く同じである。
このことを嘉納は次のようにいう。
・柔道は身心の力を最も有効に働かせる練習であって、その練習をしている間に、おのずとその根本精神を体得するに至り、その原理に基づいてどのようなことでも人間のすることについて、適当な判断をなし得られるようになる(体系3巻298頁/柔道教本)。
柔道の修行は、人に対し、社会に対し、事業に対し、如何にすればよいかということを抽象的に理解せしめる。それだけの実力を養っておけば、如何なる新しきことに掌っても、その事に関する特別の知識さえ得れば直ちに役立つ人間になることを得るはずである。
さすれば、柔道家というものは、単に技術の巧者でなく、人間として価値あるもので、学校にあれば、生徒監にも幹事にも校長にでもなり得るし、また行政にたずさわっても、その仕事を立派に果たし得る。
また、実業に従事すれば、個人的な営業も出来、会社、工場の監督をなし、その事務を処理する事が出来る。その他官吏にしても何をやっても、ただ直接必要なる知識さえ得れば、一般に共通なる根本の力は、柔道修行中に得られるわけである(嘉納治・著作集2巻250頁)。
概念の技化
『代表的日本人』(ちくま新書)を著した斎藤孝氏は、「概念の技化」という表現を用いて、次のように非常に分かりやすく説明している。
嘉納治五郎が唱えた「精力善用」や、様々な理念・観念は、常に身体を動かすことと結びつけられているところがポイントです。普通、観念は、観念の世界、実地は実地の世界とまったく区別されていますが、治五郎の場合は、実施に即して観念を身につけていこうとしました。概念を技化していくという視点が重要です。 これが上達の普遍的原理となります。
ただ柔道が強くなればいい、というのではありません。めざしているのは精力の最善活用であり自他共栄なのであって、その概念を技をとして身につけるために柔道があるのである。そして、そこで身につけたものを、生活のすべてに広げなさい、と治五郎は説いたのでした。もちろん、身体を丈夫にしたり、闘う気構えを持つ教育は「武」の中にあるのですが、それが最終地点ではありません。柔道が強くなり、併せて人格形成ができるというだけではありません。概念を技として、普遍的に活用できるようになって始めて、治五郎のめざすところが実現するのです(92頁)。
技術の練習は手段
以上のように、柔道の修行者は、柔道の技(術)を通じて、「精力善用」(道)を学ぶことができるのであるが、それはもちろん、「術」を通じて「道」を学ぼうという意欲がある場合である。
今日の柔道は、道を体得することを修行の目的として、技術はその手段として練習することになっている。技術そのものの修行も価値があるから、修行がそれだけにとどまっても差支えのないことはもちろんであるが、道を体得し、かつ、これを人生百般のことに応用することの出来る修行をすることに比すれば、そこには雲泥の差がある。
柔道を道として学んでも、これを体得する手段として用うる術は自然に覚えられるが、これを術としてのみ練習する時は、何時までも道には達し得られぬのである。それが往時は柔術とかやわらとかいうたのを私が柔道と改めた所以である。それ故に、柔道の修行者は、道を体得する事が本当の目的であって、技術の練習は手段であるということを忘れてはならぬ(嘉納・著作集第2巻276頁)。
*1:これは、嘉納が精力善用を考えるに当たり示唆を受けたいう事例をもとにしている。「私が東京大学の前身である開成学校にいたこと、同級生に白石直治という人がいた。なかなか成績がよくて、日々学課の準備が出来ていないことはなかった。一通りは勉強しているようであったが、睡眠時間にも勉強するというふうでもなく、また人が散歩に出掛ける時には、自分も出掛け、時々運動場にも出た。それでどうして成績がよいのかというと、その人は零砕の時間を上手に利用したのであった。五分・十分の余裕があると、他の人たちが寄集って無駄話をしたり、騒いだりしている場合、その時間を利用して勉強していた。また先生が臨時欠席されて、一時間何にでも利用し得るようになった場合、他の人たちはその時間を空費するにかかわらず、白石氏は必ず机に掛って勉強するというふうであった。それが成績がよかった原因であった。これに気付いた私は、それから零砕の時間を利用することに留意するようになった(嘉納・体系3巻358頁)」。
※本記事は、2010年8月から酒井重義(judo3.0)によってブログで連載された研究論考「勇者出処~嘉納治五郎の柔道と教育」の再掲です。