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部活の地域移行を立ち止まって考えてみた-「スポーツを地域のエンジンにする作戦会議」から

NPO法人judo3.0は、2024年2月15日、オンライン講演「部活の地域移行を立ち止まって考える」を開催した。講師は書籍「スポーツを地域のエンジンにする作戦会議」の著者である有山篤利氏(追手門学院大教授)と高松平藏氏(ジャーナリスト)である。以下、当日の講演や参加者との話し合いを紹介しながら、一参加者として部活の地域移行を立ち止まって考えてみたことを記す(3.0マガジン編集部・酒井)。

1. 学校vs地域 スポーツの押し付け合い

冒頭示されたことは、現在、学校vs地域、という構図になって、「先生は忙しいから負担を減らしたい」、「そんなこと言われても、地域の指導者だって忙しい」となって、スポーツの押し付け合いが行われている現状である。

困ったことに、この学校と地域を対置させるという発想が、運動部改革について大きな誤解を生じさせてしまいました。地域移行が、「困っている学校を地域が助ける」という片務的な労務対策として理解されてしまったのです。そのため、学校と学校外との間で深刻な軋轢が生じています。

学校は「部活動を分担して欲しい」と要請する。これに対して、地域は「教員を助けるために私たちが無理をするのか」と負担感を主張し、部活動を丸投げされることへの不安を訴える。

行き着く先は、スポーツ活動の押し付け合いによる相互の負担感、不信感の増大です。そして解決のための論点は、教員に代わって指導を担当する人材の確保と、それに見合う対価の捻出に終始するようになってしまいました。

引用:書籍「スポーツを地域のエンジンにする作戦会議

この現状に対して、有山篤利氏から、学校と学校外の人々・団体が力を合わせて取り組むゴールは何か、ここに焦点を合わせるべき、ということが指摘された。

2. 余暇としてのスポーツ

そのうえで、いま時代が要請するスポーツ活動は何か。

昔の「成長型社会の時代」、すなわち、いかに働いていかに稼ぐかが重視された時代は、成果主義の競技スポーツが適していた。

しかし、いまの「Quality of Lifeの時代」、すなわち、いかに充実した生活を送るか、が重視される時代は、余暇としてスポーツが求められており、スポーツ庁のガイドラインにおいても「生涯にわたって豊かなスポーツライフを実現する資質・能力を育む」と明記されている。

この流れを踏まえて、これまでの学校の体育や部活動の役割を整理すると、

  1. 教育活動(教科体育)、
  2. 競技活動(exトップスポーツ)、
  3. 余暇活動(exフィットネス)

という三つの側面があったといえるが、これからは

  1. 少子化によって子供も先生も少なくなるため、これまでのように学校が「競技活動(2)」を担うことはできない。競技の普及は学校に依存せずそれぞれの競技団体が行う。
  2. 学校の部活動は「余暇としてのスポーツ(3)」を学ぶ場になる

という未来像が示された。

これからは、生涯にわたって、主体的に、夢中になってスポーツに取り組んで充実した日々を送ること(遊び)ができる人材の育成が求められている。しかし、日本の生徒に「休みである土日にスポーツをしたいか」と聞くと、多くは「ノー」と答える。ヨーロッパではスポーツをすることがオフ(休息)だが、残念ながら、日本ではスポーツをしないことがオフである。現在、日本の子供は「余暇としてのスポーツ」を学んでいない。

この点に関連して「遊びについて理解を深める必要がある。「遊び」を「真剣ではない・勝敗を問わない・無駄な時間だ」と誤解する人々がいる。しかし、真剣に勝敗を競うことも遊びである。余暇にスポーツして遊ぶことの意義を捉えなおす必要がある。

3.学校から社会へ。しかし、理想とする社会がイメージできない!?

以上が第1部の有山氏の講義を筆者なりに咀嚼した内容だが、ここから第2部につながる問いが出てくる。

「余暇としてのスポーツ」でどのように人々の人生が良くなるのか、そして、「余暇としてのスポーツ」がたくさんある社会、豊かなスポーツライフがある社会とはどんな社会なのか、いまいちピンとこないのである。

例えば、柔道の場合、青少年は県大会や全国大会を目指して鍛錬する。そして、学校を卒業したら柔道からも卒業して、大人になってからは柔道をしない、というのが一般的である。余暇に柔道を楽しんでいる人、余暇に柔道をすることで充実した人生を過ごしている人を見かけない。したがって、豊かなスポーツライフがある社会を想像することが難しい。

学校と地域のスポーツの押し付け合いの現状に対して、何を目指しているかを明らかにしようというのがスタートラインだった。そして、余暇としてのスポーツを楽しむ人がたくさんいる社会、「豊かなスポーツライフ」がある社会がゴールとして示された。総じて、部活の地域移行とは、中学生の土日のスポーツをどうするか、という「学校」の問題というより、どのような社会を築きたいのかという「社会」の問題であるということが示された。

部活動の地域移行問題は、人口動態の変化、経済構造の変化、価値の変化の中で必然的に出てきたものと言え、学校だけの問題にするのはもったいない。社会におけるスポーツの価値を熟議し、実装する機会を捉えるべきです。

引用:書籍「スポーツを地域のエンジンにする作戦会議

ただ、余暇としてのスポーツを楽しむ人がたくさんいる社会、豊かなスポーツライフがある社会とはどのような社会なのだろうか。なぜイメージすることが難しいのだろうか。

3.ドイツと日本の違いから

この点、豊かなスポーツライフのある社会の代表例として良く上げられるのがドイツである。日本のサッカー「Jリーグ」は、ドイツのスポーツクラブを視察して感銘を受けた人々によって構想され実行されたというが、なぜドイツは豊かなスポーツライフのある「社会」を築くことができたのだろうか。

第2部では、ジャーナリストの高松平藏氏から、ドイツはなぜ余暇としてのスポーツを楽しむ人が多いのか、なぜ豊かなスポーツライフのある社会を築いているのか、その原動力について解説があった。

以下あくまで自分なりに理解した限りであるが、

ドイツの場合、人々は、「自由・平等・連帯・デモクラシー・人権」など、人として社会として大切にしたい共通の価値をもっている。したがって、スポーツを活用してこれからの価値を実現しようというのことが自然の流れとなる。そもそも「社会」という言葉にはこのような価値を実現した社会が理想である、という理想が組み込まれているので、これからの「社会」を考えるとき、スポーツを活用して上記の理想を実現しようとなる。「スポーツを通じて連帯する」とか、「スポーツクラブはデモクラシーの学校である」という考えは自然なことなのである。

他方、日本の場合、この「社会」という言葉は明治維新後に輸入して翻訳した新しい言葉であり、上記のような理想が組み込まれているわけではない。似たような言葉として日本には「世間」という言葉があるが、「世間」には「世間体が悪い」「世間を騒がす」というように、集団の中のバランスを保つことが大事であり、そのバランスを崩すことは良くない、集団よりも自分を優先することはよくない、という価値観が含まれている(したがって、豊かなスポーツライフのある「世間」を築こう、とはならない)。

個人を大切にするドイツ、集団を大切にする日本、という対比でみた場合、余暇の捉え方についても異なる。ドイツの場合、自分の人生をこのように過ごしたい、という個人の理想があり、余暇の過ごし方は自分の人生をかけて決定するものである。したがって人生を充実させるスポーツは本当に大切なものとして捉えられる。他方、日本の場合、会社(ムラ)にいる時間が大事であり、余暇とはその「余り」の時間にすぎない。

部活の地域移行は、中学生の土日のスポーツをどうするかという「学校」の問題というより、豊かなスポーツライフのある社会をどのようにして築くか、という問題である、と整理することによって一歩前進したが、しかし、ドイツと比較することを通じて、日本で理想の社会を構想することの難しさが示された。

なお、ドイツが進んでいて、日本が遅れている、という話ではない。単に文化的な違いがあり、比較することで直面する課題への理解が進むということである。

4.参加者はどのように捉えたか。

以上の流れを経て、最後に参加者と質疑応答が行われたが、参加者はどのように捉えたのだろうか、ここでは4点ピックアップする。

一つ目は、部活の地域移行をどのように捉えたらいいのか、について有益だったという意見である。

  • 部活の地域移行は、教員の働き方の改革、部活の改革ではなく、社会構造の改革として捉えて実行しなければならないことが分かった。

二つ目は、いま直面している課題の解決には有益ではなかった、という点である。

  • 総論として理解できるが、各論として何をしたらいいかと言うと、結局、現状維持なのかなと思う。

三つ目は、問題の難しさに愕然とした、という意見である。

  • 「余暇としてのスポーツ」を充実していくことが分かったが、そのようなスポーツをしている人、教えているクラブは周りに見当たらない。これからやるべきことの難しさに愕然とした。
  • 近代化するために輸入した言葉「自由」や「平等」などの言葉に重みがなく、本当の意味で十分に取り入れているとは言えない。理想の「社会」を考えることが難しいが、部活の地域移行は、日本の近代化そのものの問題に関係するから考えずらい問題であることが分かった、

4つ目は、余暇としてのスポーツや生涯スポーツを充実させていこうと思った、という点である。

  • ①遊びとしてスポーツを実践する人をどのように育てるのか、②競技スポーツだけでなく、余暇のスポーツを教えることができる指導者をどのように育成するのか、③余暇のスポーツができる場を作るクラブやコミュニティをどのように築くのか、この点を具体的に考えていくことが必要だと思った。

5.競技スポーツ

なお、学校の部活動でそれぞれの競技ができなくなったとき、その競技は日本で存続していくことができるだろうか。また競争力を保つことができるだろうか。例えば、柔道の場合、日本のほとんどの中学、高校から柔道部がなくなったら、競争力を維持することができるのだろうか。講師の有山氏から「学校が競技スポーツを担うことはもう無理である。学校ではなく、競技団体が競技の普及と強化を行う体制を作っていく必要がある。競技団体はこの現実を見据えて、危機感をもって取り組んだほうがいい」との指摘がなされた。

6.まとめ

最後に、まとめとして、書籍「スポーツを地域のエンジンにする作戦会議」から引用する(赤字は筆者)。

もうすでにおわかりかと思いますが、本書は運動部活動の地域移行の先進事例を示したり、具体的な展開方法を解説したりするものではありません。

生徒にとって運動部活の何が問題なのか、教員の過重労働さえ解決できればよいのか、なぜここまでして定着している運動部をわざわざ学外でやる必要があるのか、そこまで無理して移行する意義はどこにあるのか等等、学外の関係者や保護者にとっては疑問だらけなのです。

一方で、教員の中にも現在の運動部活動に意義を認め、生きがいを感じて指導している人も大勢います。そのような教員にとっては、なぜ貴重な運動部活動を手放さねばならないのか納得いきません。運動部活動に今でも大きな期待を寄せる教員と、負担感からネガティブになっている教員の間で、学校も真っ二つに引き裂かれています。

大切なことは、①私たちはなぜ運動部改革をせねばならないのか、②それには運動部で行ってきたスポーツ活動の何を変えればいいのか、③最終的にそれは日本のスポーツの発展にどうつながるのか、をスポーツに関わる者すべてが共通理解することです。そして、誰もが納得できるゴールイメージを示さねばなりません。改革が行き着こうとする理想世界に対して、確信が必要なのです。

運動部活動を改革することで豊かなスポーツライフが手に入り、自分たちの生活がよりよく変わる・・そういう確信が抱ければ、そこにモチベーションややりがいが生まれます。その後に、各地域や学校に合ったそれぞれの計画が具体化していくはずです。

スポーツが単なる消費物や嗜好品ではなく、真の意味で現代社会の要請に応じる文化として発展する。その道筋のなかに運動部活動改革が位置付くことを願っています。

引用:書籍「スポーツを地域のエンジンにする作戦会議

以上、本イベントに参加して、数時間、部活の地域移行を立ち止まって考え、部活の地域移行が、日本のスポーツ環境、教育環境、社会環境の改革につながり、ワクワクする未来を生み出す可能性に満ちたものであるを知った。簡単にはいかないと思うが、その未来をカタチにしていきたいと思う。

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