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東アフリカでの柔道指導第3回 タンザニアのその後とウガンダの現在

前回の投稿では、ボランティアでタンザニア(本土)代表監督を務めていた2007年~2009年の間の話を書かせていただきました。

紙幅の関係上、国際交流基金の事業として派遣された柔道指導団の話、judo 3.0のメンバーであられる渡邉先生による訪問やご支援など書ききれない内容もありました。

judo3.0メンバーである渡邊城士先生がタンザニアを訪問。柔道着を寄贈しました。

多くの方々に支援を受けながら務めた監督業でした。この2年と数カ月は、青年海外協力隊員時代よりもさらに柔道指導、そしてタンザニアの柔道家たちの人生に深く関わる機会になったと感じています。なによりジュマたちの指導を通して、下の世代にもいい影響を与えることができたのではないかと感じています。今回、最後の投稿としてタンザニアのその後、そして現在進行形のウガンダでの柔道の指導について書かせていただきます。

タンザニアのその後

2009年3月、在タンザニア日本国大使館での任期を終え、日本へ帰国。大学院へ戻り、研究を続ける傍ら、自身の出身大学で非常勤講師として学部生のタンザニアでのフィールドワークをお手伝いすることとなった。研究と講義の準備で忙しい日々を過ごしながら、毎年、短期間であるがタンザニアに滞在する機会を得て、タンザニアの柔道家たちとの交流を続けていた。

不正

2009年の私の帰国以降、タンザニアの柔道界には様々な変化があった。連盟としてはカシンデ会長がその職を離れた。海外での不法就労やビジネス目的でビザを取得したい人を柔道チームに帯同させていたということで連盟の業務から追放されたそうだ。不正を通じて得たお金で、海外の柔道合宿などへジュニア選手たちが参加していたらしい。またカシンデ会長は、家庭環境の厳しいジュニアの選手たちを自身の家で預かり、食事を与え、学校へ行かせていた。彼は私腹を肥やすために、柔道を利用していたのか?子どもの時代から育てた選手たちに稽古の機会を作るために不正な行為に手を染めたのか?私にはその深い背景を理解することはできない。 しかし、柔道連盟会長という立場を利用して、不正を働いていたことには変わりはない。

ネガティブな話題ばかりではない。第2回東アフリカ選手権でチームリーダーだったザイディはタンザニアに戻った後、私が協力隊時代に指導した警察学校の柔道コーチに就任。故郷の道場で育った生徒やカシンデ元会長が育てたダルエスサラーム(以下、ダル)の道場の生徒を呼び寄せ警察学校柔道チームを結成した。またザイディとカシンデ元会長が創設にかかわったダルの刑務官のチームも成長していた。

2011年 初の金メダル

ザイディは私の後を継ぎ、タンザニア(本土)のナショナルチームコーチとなり、2011年の東アフリカ選手権で初の金メダル獲得。2013年には男子の金メダル獲得数が1位となり、総合優勝。東アフリカのトップチームの一つとなり、東アフリカの強豪国ザンジバルやケニアと競うようになった。タンザニア(本土)チームの主力の多くは、私が監督時代にジュニアでジュマの活躍を見た世代だ。2011年にタンザニア初の金メダリストとなったアンドレアは、カシンデ会長(当時)の道場で育った子どもだった。

連盟は、カシンデ会長追放後、ブルンジに一緒にいったオマリが、副会長に就任(オマリは大学を卒業後、刑務官としての仕事を得て、柔道チームに合流していた)。現在は、会長に就任している。オマリだけではなく、私が監督時代にキストゥ道場で汗を流したメンバーが、連盟の役員に就いている。役員の多くが30代という若い連盟は、相変わらずお金がないが、2年に1回は役員でお金を出し合い、体重別の選手権を開催している。私がお金集めをして試合を開催した時代から大幅な進歩である。第2回の投稿の主役であったジュマは、私が指導していたキストゥ道場の先生になり、後進の指導に励んでいる(いまでも一番乱取をこなす)。「先生が教えてくれた柔道の基本を大切した指導をしたい」と言ってくれている。

〈写真〉連盟主催試合の様子、前日の審判講習会(2014年)、ジュマとその息子

2012年 再びタンザニアへ

私は、2012年1月から3年間、今度はJICA(国際協力機構)の青年海外協力隊事業を現場で調整する業務に携わることになり、タンザニアにまた長期で滞在することになった。赴任先がタンザニアのへき地であり、離れた立ち位置からタンザニアの柔道を眺めることとなった。監督への再度の就任や会長への就任をお願いしてくる柔道家もいたが、「タンザニア人がやるべきだ」とすべてを断っていた。連盟の面倒な話や試合の準備をみなに任せ、私は、たまの稽古への参加、審判講習の実施、家庭の事情で中学校に通えなかった柔道家たちへの進学支援などを楽しんだ。2015年1月にJICAでの任期を終え、帰国する頃にはダルの刑務所とモシの警察学校へ柔道の隊員が派遣されることとなり「もうタンザニアの柔道に私が深く関わらなくとも大丈夫かな」という気持ちになった。

2016年~ ウガンダへ

リオ五輪にタンザニアの選手が出場

2016年、私はウガンダ(タンザニアの隣国)で仕事をすることになった。赴任して半年が過ぎたある日「アンドレアがリオ五輪へ行く」という連絡が舞い込んできた。国際オリンピック委員会が、開発途上国の選手にも機会を広げるために設けた「ワイルドカード」での参加だ。アンドレアは、あのカシンデ元会長が発掘した生徒の一人で、警察学校のチームに所属しながら私に支援を受け、中学校入学資格を得るための塾に通っていた。当時、東アフリカ選手権を圧勝で連覇しており、-73㎏の選手であるが国内試合では無差別でも優勝していた。

リオに到着したアンドレアからは頻繁にメッセンジャーで連絡がきた。日本の永瀬選手ととった写真なども送られてきたが、メッセージの内容の多くは試合に向けての相談だった。「先生、相手のことを知っている?」「試合前にどんな稽古をすればいいの?」かわいい質問ばかりだった。インターネットで対戦相手のオーストラリアの選手の動画見て、アドバイスを返信してあげたりした。監督としてザイディが同行していたが、東アフリカでは敵なしだった彼も不安を感じていたのだろう。

結果は、見事な一本負け。勝てない相手ではなかったが、寝技に対応できず、関節を取られた。試合の後、負け惜しみの文章と「もっと強くなりたい。日本で稽古がしたい。」というメッセージが送られてきた。[1]

[1] アンドレアの出場は、講道館でも紹介いただいた。http://www.judo.or.jp/english/p/32097

ウガンダのビルの屋上

私はウガンダで柔道普及をすべく動いていた。ウガンダ柔道連盟に連絡を取り、稽古をできる場所を紹介してもらった。連れていかれた場所は、ビルの屋上。ウガンダ人の黒帯ジョージの指導のもと夕日を受けながら数名の柔道衣を着た若者が、数枚の子ども部屋用のマットの上で受け身や投げ込み稽古をしていた。

ビルの屋上にマットを敷いて、夕日を受けながら柔道をしていた。

「こんなところでも柔道をしたいという若者がいるんだ。」

劣悪な環境に驚く気持ちはわかず、彼らの姿をみてなんだかうれしくなった。これからこの2年か3年で柔道ができる環境を作ればいいやと少し興奮した。

その後、新たな職場で多忙を極め、なかなか本格的に柔道の稽古を開始できなかったが、ブラジリアン柔術を指導する米国人女性を紹介いただき、そちらに顔を出すようになった。韓国人のテコンドーの先生の家の敷地にある道場で稽古は行われており、毎週土曜日にそれに参加するようになった。そのうち「柔道も指導してはどうですか?」と韓国人のリー先生に言われ、その道場で週一回の稽古を始めることとなった。そのテコンドー道場では、テコンドーだけではなく、ブラジリアン柔術、キックボクシング、そして柔道の稽古が行われている。リー先生は、ウガンダの若者の育成につながればと広く若者を受け入れている。リー先生は私の尊敬する先生の一人となっている。

毎回、新しい生徒が飛び込みでやってきて、そのうちの大半が受け身に飽きて、いつの間にか来なくなった。それでも毎回来る生徒も増えた。私の指導がこの国の柔道の基礎を作るのかと考えると恐ろしく感じることもあるが、ほぼゼロの状態からの柔道の開始は、わくわくする経験だ。

2017年の日本祭り

やっとまともな受け身と簡単な投げ込みができる生徒が数名出てきたときに、現地の日本大使館から文化交流イベント「日本祭り」で柔道の披露をしないかという依頼が来た。いい機会だが正直、今のウガンダの生徒だけでは質を担保するのは難しかった。黒帯のジョージも実力的には厳しいところがあった。なにより「将来は指導者になりたい」という割にはその覚悟を感じさせてくれないのんびりした性格だったことから、不安を感じていた。

「困ったなあ」とタンザニアの生徒たちに言っていると、ジュマとアンドレアから連絡がやってきた。その内容は「やっと恩返しができる機会が来た」というものだった。「みんなでお金を集めて、自腹で行く」とまで言ってくれた。「自腹で」とは言ってくれたものの、彼らの懐具合を知っている私は、一部の費用を送金した。

そして車中泊の移動を経て、二人は来てくれた。バス停で再会したとき、ザンジバルで開催された東アフリカ選手権(2009年)に参加するために皆で船着き場に集まった日のことを思い出した。およそ2年ぶりの再会だった。

日本祭りで技を披露するアンドレア、受けはジュマ。

 

先生となったジュマは、英語しかわからないジョージにスワヒリ語で、柔道の先生として大切なこととは何か、如何に基本が重要かを語ってくれた。オリンピアンとなったアンドレアは東アフリカ随一の技を見せてくれ、ウガンダの生徒たちに「先生についていけばできるようになるよ」と偉そうなことを言ってくれた。ジュマとアンドレアの活躍で柔道の披露は成功裡に終わった。初心者の生徒たちも精いっぱいの投げを披露してくれた。

「五輪へ連れていく」と夢想して

披露は終わったが、少し滞在を伸ばしたジュマとアンドレアは、ジョージとの稽古にも参加してくれた。そしてタンザニアへ帰る前日、アンドレアがビニール袋を持ってきた。

「先生、これ。」

アンドレアから渡されたものは、タンザニアの国旗が入ったポロシャツ。リオ五輪で着ていたものだ。

1999年、協力隊の訓練所で「五輪に選手を連れていく」と酒を飲みながら語った夢が、17年後、タンザニア人自身の努力と「ワイルドカード」という幸運があいまって果たされたことをそのポロシャツを着た時に実感できた。正直、実力を伴わない段階で五輪に参加することには疑問もあったが、うれしかった。そのポロシャツは私の宝ものの一つとなった。

2018年の日本祭り

3回に渡り、現在進行形の東アフリカでの柔道指導の経験を投稿させていただきました。その過程では本当に多くの方の支援を受けました。なによりタンザニア、そしてウガンダの人々が未熟な私を受け入れてくれたからこそ、私は柔道指導を続けられました。日々の生活に追われながらも柔道を愛する彼らに最大の感謝を送りたいと考えています。

ジュマやアンドレアが助けてくれた柔道披露から、紆余曲折ありながら、もう1年が経過しました。ウガンダ人の生徒も増えましたが、難民や学生として、ウガンダに入ってきたコンゴ民主共和国の生徒が増えました。彼らコンゴ人は母国での柔道経験があり、ウガンダ人のいい刺激になっています。

先日、今年の日本祭りが開催され、今回も柔道を披露させていただく機会をいただきました。

2018年の日本祭り参加者


今年はカンパラの道場に来てくれているウガンダとコンゴ民主共和国出身の生徒だけで実施することができました。

少しずつですが、ウガンダの柔道普及は進んでおり、来年の2月の東アフリカ選手権にウガンダとして初めて選手を送ることを次の目標にしています。これらの話しはいつか別の形で多くの方に伝えることができればと考えています(活動の進捗をウガンダ柔道のfacebookページをご覧いただけます)。
最後に、3回という長い私の話にお付き合いいただきありがとうございました。

溝内克之(みぞうちよしゆき)

大阪市立汎愛高等学校武道科卒。京都文教大学文化人類学科在学時に青年海外協力隊に参加。2年間、タンザニアの警察学校で柔道を指導。その後、大学院の研究や日本大使館やJICA(国際協力機構)での勤務の為にタンザニアに滞在(合計9年)。現在はJICAウガンダ事務所で仕事しながら、ボランティアで柔道の指導をしている。

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