東アフリカでの柔道指導 第2回 いつの間にやら代表監督に!
第1回の投稿では、1999年から2001年までの青年海外協力隊員時代の記録を書かせていただきました。その2年は、私がアフリカで人々とどのように向き合うのかを学ぶプロセスでした。この第2回の投稿では、2007年から2009年までタンザニア(本土)で柔道のナショナルチームの監督として柔道を指導した経験を書かせていただきます。
タンザニアに帰る
協力隊員としての任期を終えた私は、1年間のサラリーマン生活を経て大学院へ進学。アフリカ最高峰キリマンジャロの山腹の村をフィールドとして、文化人類学を基礎とした農村社会変容の研究をしながら、タンザニアの柔道家たちとの関係を継続していた。協力隊時代の配属先である警察学校へは、後任隊員が派遣され支援が継続されており、現地人の柔道教官の異動などによる人手不足などの問題はあったが、柔道の授業は続けられていた。研究生活を過ごしていたある日、在タンザニア日本国大使館での仕事の話が舞い込み、2007年2月、新たなタンザニアでの生活が始まった[1]。
大使館が所在する首座都市ダルエスサラーム(以下、ダル)で暮らすことになった私は、協力隊員時代から関係のあるダルの道場へ通い始めた。決して裕福ではない柔道家たちからお金を集め、毎月の施設使用料支払うことは容易ではなかったが、畳が9枚しかなかった道場には、2002年に日本大使館から50枚の畳の支援が入り(その後、この畳は別の道場の開設のため移設された)、またフランス大使館からもマットの支援が入り、十分に稽古を行える環境があった。残念ながら道場の創始者であったアブダラは不運なバス事故で故人となっており、その意思を引き継いだ柔道家たちがほそぼそと稽古を続けていた。
当時、援助関係の仕事でタンザニアに来ていたドイツ人のフィリッポ先生が、キストゥで柔道を指導しながら、タンザニア本土代表チームの監督となっていた。2007年には第1回東アフリカ選手権が隣国ケニアで開催され、このキストゥのメンバーを中心に代表チームが作られ、タンザニア(本土)チームとして参加していた[2]。
[1] 私の研究時代のアフリカでの経験はNPO法人アフリック・アフリカのHPでエッセイという形で読むことができます。http://www.afric-africa.vis.ne.jp/essay/index.htm
[2]独立時の歴史的背景からタンザニアには、1国2政府という政治的体制がひかれており、タンザニア政府に加えて、もともと独立国であったザンジバルにも自治政府がある。ザンジバルにも独自の柔道連盟がある。通常の国際大会へは「タンザニア」として参加するが、東アフリカ域内の大会では「タンザニア(本土)」、「ザンジバル」の2チームが出場できた。タンザニアとザンジバルの関係については過去の複雑な背景があり、私がその説明をすることは適任ではないため、この投稿ではタンザニア本土の話だけをしていく。
キストゥの道場に顔を出し始めた私は、面倒な監督としての指導を、フィリッポに任せて、柔道の稽古だけを楽しんでいた。しかし、フィリッポが本業の任期を終え、帰国することになってしまい「次の監督になってほしい」と会長以下、生徒たちにまで毎回の稽古で言われるようになった。私は「タンザニア人の誰かがやったほうがいい」と固辞を続けていた。そんなある日「じゃあ、フィリッポの退任記者会見に顔だけ出して」と頼まれ、嫌な予感もしたが、会見場へ足を運んだ。
突然のタンザニア代表監督就任
「本日はフィリッポ先生の監督退任と溝内先生の就任をお伝えします。」
多くの新聞記者の前で、会長が上のように発言。翌日には新聞各紙のスポーツ欄のトップに「柔道代表監督交代」の文字とともにフィリッポが私を模範演技で投げる写真がでかでかと掲載された。翌朝、日本大使から「新聞をみたよ」と言われた。後には引けなくなった・・・。
代表監督になったとはいえ、やっていたのは週3回の稽古で指導するくらい。「試合に勝つには定期的な合宿と身分の保証と栄養だ」と愚痴を言う選手も多かったが、お金を集める体制がない柔道連盟にはそんな財政的余裕はなく、マイナースポーツである柔道のスポンサーになってくれる企業もそのときはなかった。また「日ごろの稽古もちゃんとできないのに、合宿なんて意味がない」と考えていた私は、日ごろの稽古に来る選手だけを指導していた。実際のところ、大半の選手たちは無職や学生であるためにお金が無く、稽古に来たくても来れない選手が多かった。
アブダラ先生の死後、毎回の稽古に来る柔道家は減っていた。この第2回の投稿の主役とも言えるジュマ、そして数人が顔を出すくらいだった。平時の稽古では何度も地味な基本動作の稽古や打ち込みを指導した。生徒たちが将来、指導者として正しい技術を伝えていけるようにすることを意識した。試合に勝つだけであれば別の指導法もあったが、将来のため正しい柔道技術の定着を目指した。また東アフリカの他国の選手と比較して、タンザニア選手は、体の線が細く、気の優しい性格ところがったことから、地味だがしっかりとした技術で対抗することを目指した。実際にやったことは、基本の打ち込みと体捌きの稽古、相手を崩す足技の稽古、そして乱取だ。ひたすら地道な稽古を続けた。最初はジュマと他数人という稽古だったが、日を追うことに生徒は増えていった。また2つの道場が新設された。当時の連盟会長カシンデ先生がダルの下町で、第1回東アフリカ選手権-60kg銀メダリストのザイディが故郷の町で子どもを指導する道場を開いており、柔道人口は着実に増えていた。それから小学生から高校生の年代の生徒が通う道場にも顔を出し、将来のための種をまいた。
ザイディの道場:道衣はないが、毎日早朝、夕方の稽古に多くの子どもたちが集まる
第2回東アフリカ柔道選手権、ジュマという青年
さて、この第2回の主役であるキストゥ道場の生徒ジュマを紹介したい。ジュマは、すでにその時に30歳を超えた柔道家で、毎回の稽古に来る唯一の生徒で、いつの間にか私の打ち込みパートナーで投げられ役となっていた。皆が嫌がる私との乱取にも積極的に取り組んだ。柔道センスがあるわけではない彼は正直なところ、若い生徒や代表チームの選手から舐められているところがあった。それでも彼は、私に何度も投げられながらも、零細な野菜販売店の経営で苦労しながら家族を養いながらも、笑顔で毎回の稽古に来た。
いたって地味な稽古を続けていたある日、第2回(2008年)の東アフリカ選手権開催の話が届いた。場所はブルンジ。タンザニアと隣接する小さな国だ。前稿で説明した「ルワンダの悲劇」が起こったルワンダの南にあり、同じように民族間の争いの影が落ちる国だ。ブルンジの大統領はスポーツを通じた国内融和を一つの政策としており、柔道チームに対しても多大な支援を行っていた。
試合参加費用の捻出のために会長以下、みなが各地を奔走したが、支援してくれる企業はなかった。結局、持続性という観点から避けてきた日本人の同僚や友人たちからの寄付集めを始めたところ、思いがけず多くの方から支援をいただけ、出発前に最低限の資金を得ることができた。途上国ではたびたびあることだが、寄付など集められた資金の使途が不透明になり(もしくは不透明であると思い込み)、チームの中に不信感が生まれることがある。そのためすべての収支を明確にし、選手や関係者に示した。
このブルンジの大会には、キストゥの稽古に定期的に来ていたカシンデ、ザイディ、フォーカス、オマリ、ジュマの5人だけが参加した。連盟会長のカシンデ先生も選手として参加するといい始めた。ブルンジの首都ブジュンブラへは列車で丸2日、タンザニアの西部にあるタンガニーカ湖沿岸の町キゴマまで移動し、そこから乗り合いバスで丸1日移動するという過酷な移動だった(仕事がある私は飛行機で移動)。私の妻が作ったお弁当を携え、列車に乗り込む彼らは、なんとも珍道中の始まりという感じだった。
追いかけるように飛行機でブルンジに入った私は、いつの間にやら審判団に入れられていた。審判をすることは望んだことではなかったが、経験不足の審判が多く、各国のコーチや選手からの要請を受け、東アフリカの柔道の発展のためにその要請に応えざるを得なかった。そのため、結局選手たちに試合の当日、アドバイスを与えることができなかった。タンザニアの選手が早期に敗退したこともあるが、結局、多くの試合を裁くこととなった。結果は、ザイディが銀メダル、なんと会長のカシンデ先生が銅メダルを獲得(とはいえ、参加選手が少なく2回勝利したのみ)。国別のメダル獲得数では最下位という結果だった。
試合の結果よりも、開会式でお揃いのジャージを着ている他国の選手の横でそれぞれの私服を着ている選手たちを見て同行した妻が「せめてお揃いのTシャツでも作ってあげたかった」と残念がっていた。私は審判という立場上、決勝で昨年と同じケニア選手に敗れ号泣するザイディに声をかけてやれなかったことが、残念だった。さて今回の主役と書いたジュマは、全然自分で技も出せず、不甲斐ない初戦敗退で終わった。
左からフォーカス、カシンデ先生、オマリ、ザイディ、そしてジュマ
ジュマの活躍がもたらした道場の変化
タンザニアに帰国後、いつものキストゥの稽古に変化が生まれた。私が日ごろの稽古に来る生徒しか試合に出さない、逆にちゃんと稽古すれば「あのジュマでも代表チームとして選ばれる」とでも考えたのかどんどん生徒が増えた。正直、初戦敗退であったが、ジュマの実力は、過去に代表チームにいた選手たちよりも伸びていた。メダルという結果にはつながらなかったが、次回の東アフリカ選手権では皆がメダルを狙えると実は私は確信していた。
2008年には様々な変化があった。ブラジルで開催された世界選手権にザイディが選手、カシンデ先生が監督として参加(途上国の選手にブラジル連盟が航空券と宿泊費を負担)。選手選考に関して、ザンジバルの連盟との間で激しい協議があったようだが、そもそも実力を伴わない段階で世界選手権に参加することに反対だった私は「私は関わらない」という立場を表明していたので、最終的な選手選考の事情は分かっていない。ちなみに結果は、見事な1回戦負け。試合から戻ったザイディは、その後、「人生を探しに行く」とヨーロッパへの移住を目指し、タンザニアから離れた(その後、帰国)。 代表チームのリーダーだったザイディを失ったが、私は相も変わらず、地味な稽古をキストゥで続けた。そしてジュマは相も変わらず、ニコニコしながら私に乱取を挑んできた。
またカシンデの提案で、キストゥ道場の創設者である故アブダラ先生を偲ぶための大会を開催した。冒頭紹介した2つの道場の子どもたちの試合と無差別級と団体戦を行った。しっかりとした基本の動作を身につけきれいな柔道をしてくれる子どもたちを見て、将来のタンザニアの柔道は明るいなと思わされた。この試合での最大の衝撃は63㎏しかないジュマが優勝を果たしたことだ。決勝では、120㎏もある選手から背負投で「技有」を奪取した。毎回一緒に乱取をしていた私は、可能性があると密かに考えてはいたが、その予想通りになった。この大会以降、真面目に稽古に取り組み、私と乱取する生徒が増えていった。ジュマをなめていた中高生世代の生徒たちもキストゥの道場に来るようになった。
第3回東アフリカ選手権、ジュマの大活躍
そして2009年3月、ザンジバルでの東アフリカ選手権を迎えた。前回同様、多くの方の寄付で選手を参加させることができた。ザンジバルは、ダルから船で数時間のところにあり、費用が抑えられたことから、数名のジュニア選手も連れていく事ができた。また会長は、どこで手に入れたのかわからないが、お揃いのジャージを手に入れてきていた。私の妻が作った弁当を持って5人で参加したブルンジ大会とは、まったく違うチームのようだった。2009年3月で大使館の業務の任期を終える私にとって最後の試合だった。
大会初日の前日、「自分の選手のために審判はしない」と宣言していた私のもとに、東アフリカ柔道連盟の会長、審判理事、果ては他国の監督までがやってきて「全選手の公平性のために審判をやってくれ、せめて初日だけでも」とお願いされた。結局、初日の審判を受けることとなった。私がいないなか、初日に超級と100kg以下でメダル奪取(銀と銅)。ザイディが地方の道場で育てた小学生が、女子48㎏以下級では銀メダルを獲得し、他国の選手・監督を驚かせた。なにより地味な打ち込みなどばかりさせられていた選手たちが一番驚いていた。大会2日目には、駄目元で参加させたジュニア選手は、他国のシニア選手と競り合い、メダルの獲得には至らなかったが、互角の試合をした。
さて今回の主役ジュマは、私の指示で60㎏まで減量。地味な勝ち方ではあったが、試合を勝ち進んだ。迎えた準々決勝の相手はザンジバルの選手。決め手なくゴールデンスコアの延長戦へ。技の切れはないが、私と何度も乱取したジュマは、まだまだスタミナ十分で、足技で攻めた。相手にそろそろ指導かと思った瞬間。「ガツン」という音が聞こえた。対戦相手とのバッティングだった。私はバッティング後も平然と試合を続けようとするジュマを見て、継続後の試合のことを考えていたが、審判は「待て」をかけ、相手の「反則負け」を宣告した。確かに相手選手はわざわざ頭を引いてから頭突きをしており、その試合を見ていた多くの選手・役員・審判団が「アッ」と声を上げるほどであった。
そして準決勝。対戦相手は、過去2回の大会でタンザニアのエース・ザイディを決勝で破っているケニア選手。私がジュマに与えた秘策は、寝技勝負。ケニア選手は得意の低い背負い投げに入った際、寝技への意識が低く、一度技を受け止めてしまえば、容易に固め技に入れると考えていた。試合はケニア選手の優勢で進んだが、予想通りにチャンスが来た。低い背負い投げを受け止めたジュマが、そのまま横四方固で抑え込んだ。私が「よし」と声を出した瞬間、審判が「待て」をかけた。当然、抗議したが、試合は継続となり、試合再開後、ジュマは背負い投げで投げられた[3]。結局、ジュマは3位決定戦を勝利(喧嘩四つの相手の出ている足を徹底的に出足払、小外刈等で崩し続け、背負投へつなげるという作戦をジュマが完遂)。多くの人から見ると奇跡の3位。私には日ごろの努力で勝ち取った3位だった。大会が終わり、他国の選手やコーチたちが「タンザニアチームは劇的に変わった」とわざわざ伝えに来てくれた。切れる技があるわけではなく、恵まれた体格があるわけではないジュマが、地道な稽古の結果、メダルを獲得した。これは正直、他の多くの選手たちにとって衝撃だった。
[3] 「東アフリカでは各国の審判団が身内びいきの判定をする」という意見もあるが、私には、正直、審判の経験不足による判定のブレ、判断ミスであると感じている。
会場を離れ、夜中に出航するフェリーをチームのみんなと港で待っていた。私はへとへとで眠りにつきたかったが、一人一人の選手に声をかけに回った。特にジュニア選手には、試合の感想と将来の目標を聞いて回った。若い選手たちは少し興奮していた。そんななかジュニア選手のアブーが、みんなに聞こえるように話し始めた。
「先生、今回のMVPはジュマだと思う」
そしてアブーが続けていった言葉にみんなが大爆笑した。
「なんせ、頭突きされても怒らなかったんだから」
このザンジバルの試合に参加した多くの選手は、今では連盟の役員や指導者になっている。そしてチームに帯同していたジュニア選手たち(第1回の冒頭で出てくるオリンピアンとなったアンドレアも)はその後、将来のナショナルチームのメンバーになっている。その話は、次回。第3回で書かせていただきたい。
2009年東アフリカ選手権タンザニアチーム:2列目中央の帽子をかぶっているのがジュマ
溝内克之(みぞうちよしゆき)
大阪市立汎愛高等学校武道科卒。京都文教大学文化人類学科在学時に青年海外協力隊に参加。2年間、タンザニアの警察学校で柔道を指導。その後、大学院の研究や日本大使館やJICA(国際協力機構)での勤務の為にタンザニアに滞在(合計9年)。現在はJICAウガンダ事務所で仕事しながら、ボランティアで柔道の指導をしている。