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嘉納治五郎の柔道と教育3 ただ勝敗を主眼とする武技は維新後の時世に適せず。

第3回では、嘉納が柔道を創った目的について触れておきたい。結論を先にいうと、教育を目的とした創ったのである。

嘉納が柔術を習った理由

まず、そもそも何故、嘉納は「柔術」を習ったのか。

自分が柔術を学び、また講道館を創設するに至った動機についてしばしば人からたずねられるが、柔道を学びはじめた動機は、今日自分が柔道について説いていることとはまったく異なったものであった。

自分の幼少の時分には、いうまでもなくいろいろのことを学んだので、漢学の先生にも通ったし、また英学の先生にも習字の先生にも通うたのだが、わが家をはなれてはじめて学校の寄宿にはいったのは、明治六年、芝の烏森町にあった育英義塾へはいった時だ。

この塾にはオランダ人が教頭をしており、ドイツ人が助教ですべての学科を英語で教えていた。自分はその以前箕作秋坪の塾に通うて、いくらか英書を学んでいたから、学科の上では他人におくれをとるようなことはなかったけれども、当時少年の間では、とかく強いものが跋扈して、弱いものはつねにその下風に立たなければならない勢いであったので、これには残念ながらつねにおくれをとった

自分は今でこそ普通以上の強健な肉体を持ってはいるが、その当時は病身というのではなかったがきわめて虚弱なからだであって、肉体的にはたいていの人に劣っていた。それゆえ往々他から軽んぜられた。

学問上ではたいていのものに負けないとの自信がありながら、往々にして人の下風に立たせられた自分は、幼少の時から日本に柔術というものがあり、それはたとえ非力なものでも大力に勝てる方法であるときいていたので、ぜひこの柔術を学ぼうと考えた(嘉納・著作集3 巻9頁)

嘉納は数え年16歳のとき開成校(開成学校 – Wikipedia)に入学するが、2年後輩の三宅雪嶺(三宅雪嶺 – Wikipedia)は、嘉納が殴られているのを見たという。

学生の中には旧藩そのまま腕力をほこるのがある。殊に高知県から出た千頭清臣、福岡孝季、千石貢が主動者の形をなして、事があれば人をなぐった。千頭は校内で第一の元気もので、ある日、嘉納治五郎が気にくわぬと、ひどくなぐりつけたが嘉納は手むかい出来なかった。嘉納はそれがくやしくて柔術を習い、後に柔道を世界にひろめるに至ったが、もとはといえば千頭になぐられたのに始まり、千頭が間接に柔道を盛んにしたことになる(加藤仁平・嘉納治五郎27頁)。

嘉納の発見

「往々他から軽んぜられた」嘉納は、それがくやしくて柔術を習ったのであるが、柔術の稽古をしているうちに、この稽古が教育として非常に効果があることに気がつく。

そうこうして修行しているうちに、自分の身体の著しくよくなったことを感じてきた。

・・それに自分はかつては非常な癇癪持ちで容易に激するたちであったが、柔術のため身体の健康が増進するにつれて、精神状態も非常に落ちついてきて、自制的精神の力が著しく強くなって来たことを自覚するに至った。

また、柔術の勝負の理屈が、幾多の社会の他のことがらに応用の出来るものであることを感じた。さらに勝負の練習に付随する知的練習は、何事にも応用し得る一種の貴重なる知力の練習であることを感じるに至った。

柔道を創った理由

以上のことを自ら実感した嘉納は、教育を目的として柔術を再構成することにする。

もとより方法としては在来教えられてきたった方法そのままでよいとは思わないが、相当の工夫を加えるにおいては、武術としてのほかに、知育・体育・徳育として誠に貴重なるもののあることを考うるに至った。

また、天神真楊流と起倒流との二流をあわせ学んだことから、柔術は一流のみでは全きものではない、二流のみならず、なおその他の流儀にも及ぼし、各その長を採り、武術の目的を達するのみならず、進んで知・徳・体三育に通達することは工夫次第で、柔術はもっともよい仕方であると考えた。

かかる貴重なものは、ただ自ら私すべきものではなく、弘くおおいに人に伝え、国民にこの鴻益を分かち与うべきであると考えるに至った。そこで、すでに修得したるところを土台として、これに工夫を加え、ひろく世に行なおうと決心したのである(嘉納・著作集26~27頁)。

嘉納は、柔術が「武術」としてのほか、「知育・体育・徳育」 として、すなわち教育として「誠に貴重なるもの」であるから「国民にこの鴻益を分かち与うべきである」として柔道を創ったのである。

「柔道」「講道館」と命名した理由

嘉納は、「柔道」「講道館」と命名した理由について次のようにいう。

・ことに自分の教え込もうとするものは、昔の柔術そのままではなく、はるかに深い意味を有し、ひろい目的をもってするのであるから、むしろ在来の名称とは別の名をもって行うがよいと考えた。

よく考えてみると、柔術とはいうものの、実際根本となる道があって、術はむしろその応用であるのだ。故に、まず教うるに道をもってし、しこうして応用の術をもあわせ教うるが適当であろう。

してみれば、本来柔術という名称そのものからやめたかったのだが、先師からこの名によって教えられた技術がもととなって今日をなしたのであるから、名までも全然変更するのも本意ではない考え、柔の一字をのこし「柔道」 としたのである(嘉納・著作集3巻27頁)。

・・故に、この柔道を教授する教育所を講道館と命名した。そのわけは、決して単なる武術を教うる場所ではないということを明らかにするためである。

もし単に武術の道場というならば、練武館、講武館、または尚武館などといったであろう。ことさらにこれを避けて講道館といったのは、道は根本で術はその応用として授けることを明らかにするの意である(嘉納・著作集3巻28頁)

柔道は、単なる武術を教えるのではない、「道」を教えるのだ、と嘉納はいう。

日本の身体文化における明治維新?!

嘉納は、旧来の「柔術」と「柔道」の違いについて次のようにいう。

昔の柔術は、他の諸般の武術と同様、目的はあくまでも攻撃防御であった。もとより子弟に技術を教える間に、先生は、道も合わせて説いたこともあろう。また平素の心掛けも教えたであろう。

しかし、それは人の人たる当然の務めを尽くしたに過ぎぬのであって、教育の本体は、技術を教えることにあったのである。それを講道館においては、道を教えるを本体として、技術は道の応用として教え始めたのである(嘉納・著作集2巻306~307頁)

ここに革命とでも評すべき大きな転換があったこと(少なくても嘉納の認識では)を指摘しておきたい。

「教育の本体」は、嘉納以前は「技術」、嘉納以後は「道」なのである。

日本が、明治維新(大政奉還が行われたのは嘉納が数え年8歳のときである)、すなわち王政復古という伝統回帰を土台とした近代化を行い大きな転換を図ったように、柔術という日本の身体文化もまた、嘉納により「教育」という目的から再構成され、大きな転換を図ったといえるだろう。

『代表的日本人』(ちくま新書)を著した斎藤孝氏は、端的に次のように言う。

「柔道」のもう一つの意味合いは、「術」より「道」を優先させたことです。勝ち負けより、もっと大事なことがある。人の道を教えるのが柔道である。人を絞め殺すための術ではなく、自分自身や他人を高めていく「柔の道」というものを確立したのが、治五郎の打ち出した柔道でした。

嘉納治五郎は「自他共栄」という言葉を使いますが、自分と他人が共に栄えていくあり方こそが柔道の目指すところであると考えました。だから人格形成を第一義に置き、武術を捉え直したわけです(57頁)。

なお誤解がないよう指摘しておきたいが、教育の本体を「道」にしたとしても、嘉納は「術」を疎かにしたわけでは決してない。むしろ、「術」を非常に重視していた。嘉納は、命のやり取りを伴う真剣勝負の場を常に想定し、合気道、空手や棒術などを柔道に取り入れようと研究しており、いわば総合格闘技のようなものを作ろうとしていた。現在の柔道は、嘉納にとって完成形ではないのである。

張之洞との対話

最後に、嘉納と清国の指導者の一人である張之洞(張之洞 – Wikipedia)との対話を引用したい。

嘉納は、張之洞から「先生の創始せられし柔道は、いかなる武技でありましょうか。」と聞かれた際、次のように答えている。

柔術は、旧来、ただ勝敗を主眼とする武技だったから、維新後の時世に適せず。ゆえに時世を鑑み、これに道徳の教えを加え、青年に学ばしめて、心身鍛練の法としたのである。

柔術を改めて柔道とした理由、柔は力と力とを闘わし、技によって勝敗を決するものであるから、術と称すべきだが、自分の唱道する柔道は、これはなにゆえに敗れ、あれはなにゆえに勝ったのか、その理を討究して、原理を発見し、原理より術に及し、またその原理の道をもって、心を修養する法とするから、柔道と称するのである(嘉納・体系第11巻212頁)

柔術に「道徳の教えを加え」たのが柔道なのである。

それにしても、柔術が廃れた理由について「ただ勝敗を主眼とする武技だったから、維新後の時世に適せず。」と話している点は興味深い。柔道もまた「ただ勝敗を主眼とする」ようになったら廃れていくのだろうか。

以上、柔道は「道」「道徳」を教えるために創られたものであることに触れたが、この嘉納の言う「道」「道徳」の内実こそ、「嘉納はどのような人間をつくろうとしていたか。」という問いへの答えとなっていく。

※加藤仁平『新体育学講座第35巻 嘉納治五郎 -世界体育史上に輝く-』(逍遙書院)を「加藤仁平・嘉納治五郎」と略記。

※本記事は、2010年8月から酒井重義(judo3.0)によってブログで連載された研究論考「勇者出処~嘉納治五郎の柔道と教育」の再掲です。

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