これからの教育を「身体・環境・哲学」を切り口として少し考えた-judo3.0はこれから何をするのか?(2)
NPO法人judo3.0は、活動を始めて今年(2024年)が10年目となります。そこで「judo3.0とは何か?これから何をするのか?」を考察する取組みを始めました。第1回は2024年3月29日に行われました。
第2回が2024年5月20日に行われました。Judo3.0代表の酒井が、これからの教育を考える切り口として「身体」「環境」「哲学」を上げて、栗田愛弓氏の司会のもと、参加者と話し合いをしました。以下その概要となります。
これからの教育を考える三つの切り口
身体
テクノロジーが進化し、AIが高度な知的作業をこなす時代において、人間の存在意義、そして教育の意義はどこにあるのだろうか、という問いが否応なく重要になってくる。そうすると、やはりこの問いに対する一つの答えとして「身体」への着目が集まるだろう。AIやコンピュータは高度な情報処理能力を持つが、物理的な身体を持たない。だからこそ、人間が人間であるための条件、知性の源泉は「身体」にあると考える(もっとも、ロボットの技術発展は凄まじい。今後ロボットが高度に「動く」ことによってどのような影響がでるのか興味深い)
身体を動かすという行為は、単なる肉体的な活動に留まらない。身体を動かすことで、人間は初めて世界を認識し、環境と相互作用する。この過程で、脳内には複雑な神経ネットワークが形成され、知性が育まれる。そして、身体を動かすことを通して、人間は自身の可能性と限界を認識し、成長していく。
現代社会は、身体を動かす機会が減少している。産業革命以降、機械化が進み、肉体労働は減少し、デスクワーク中心の生活スタイルが一般的になった。さらに、子供たちはゲームやスマホに夢中になり、外で遊ぶ時間が減っている。このような運動不足は、健康問題を引き起こすだけでなく、人としての発達に悪影響を及ぼす可能性がある。
これからの教育を考えるとき、知性や自我、人間らしさの源泉となる「身体を動かす」とは一体何なのか、という視点が大事だと思う。人々が柔道をしているとき、それは何をしているのだろうか。何を学んでいるのだろうか。人間の身体性を再評価し、教育における「身体」の役割を見つめ直す必要がある。
環境
教育は、真空の中で行われるものではない。子供たちは、周囲の環境、そしてコミュニティとの相互作用を通して成長していく。これからの教育を考えると、環境やコミュニティのデザインは欠かすことができない。
近代教育は、学校という隔離された均質な空間で、同年齢の子供が集まり、教科書という形で体系化された知識を学ぶ。体系化された知識を効率的に伝達できるが、知識が文脈から切り離されるので、学ぶ方は「なぜそれを勉強をしなければならないのか」という疑問が当然生まれる。学ぶ意義が分からないまま学ぶ。これでは情報処理能力が発達しても、意欲、世界観などの非認知能力は発達しにくい。
しかし、この教育のカタチは明治維新以降の情報技術やAIがない時代の産物であり、現在の技術を前提として学校をデザインしたら学校のカタチは異なってくる。ネットで授業を受けるN高校などはその典型だろう。
このようにオンライン上でできることはオンラインで行った上で重要性を増してくるのが、現場での生の体験である。様々なことをネットやAIで学ぶことができるようになったとき、人はどこに行くのか。体験することでしか学べないことを学ぶために優れた体験を求めて移動するようになる。
優れた教育体験を導く環境の最たるものは良質なコミュニティである。柔道は世界各地に良質なコミュニティを有する。柔道という哲学と非言語コミュニケーションツールを有している。これからの教育を考えるとき、この柔道のコミュニティという側面からどのように未来の教育をデザインしているか、という視点が大事であると考えている。judo3.0が国際柔道交流やインクルーシブな柔道環境に取り組んでいる理由もこの点にある。
哲学
現代の社会は、グローバル化が進み、異なる文化や価値観を持つ人々と接することが多くなったことで、分断、対立がよく目につくようになった。2022年,2023年には大きな戦争が始まった。このような時代において、道徳、モラル、哲学など、人間としての最低限の価値判断の共通の基盤をどのようにして築くか、ということが改めて重要性となってくる。
そのような基盤は古来より宗教が担ってきたことであるが、世界に様々な宗教があること、そして、政教分離を旨とする国家が多いことから、特定の宗教をベースにして進めることには限界がある、という難点がある。
このような世界的な課題に正面から向かい合ったのが嘉納治五郎だった。嘉納治五郎は、特定の宗教、特定の哲学理論によらずに、人類共通の道徳の源泉、人としての大道を探し求め、最終的に人類の共通の価値基盤として「精力善用・自他共栄」を打ち出した。現在、このような嘉納治五郎の取り組みにスポットライトは当たっているとはいいがたいが、世界各地で指導者が自らの人生を費やして青少年の教育に柔道を通じて取り組む理由はこの柔道の道徳的な魅力と可能性にあるからだろう。これからの教育を考えるとき、この「精力善用・自他共栄」という哲学を改めて再検討することに意義があると考える。
質疑応答
今回は、これからのjudo3.0の活動を考えるにあたり、これからの教育とはどのようなものになるのか、身体・環境・哲学という切り口でみた、というものである。これに対して、以下のような意見が出された。
- 現在行っている活動がここで話された未来にどのようにつながっているのか、このあたりがストーリーとして分かりやすくなったらいい。
- 「精力善用・自他共栄」は優れた哲学だとしても、人それぞれ様々な考え方があるから、他者に押し付けるようなことになったら問題である。どのようにバランスを取っていくべきかを検討する必要がある。
- このような漠然とした未来に対して、具体的にどのような目標を設定して、活動の計画を立てるのか、具体的な数値目標が設定されることが必要だ。
今回はこの「教育」に関するこの三つの切り口から、これからの「柔道」をどう考えるか、という点については時間が足りず、話題にすることができなかった。抽象的な未来を描くことは重要だが、同時に、その実現に向けた具体的な道筋を示すことも欠かせない。今回のセッションでは、未来の教育について考えるきっかけになると同時に、judo3.0の活動の根幹にある未来像と具体的な活動との間に存在するギャップを浮き彫りにすることにもなった。引き続き、これからの柔道教育のカタチを考え、judo3.0に関わってくださる有志と何ができるのかを検討していきたい。