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カンボジアの柔道と文化~アンコールワットの道場、孤児院、地雷~

みなさんこんにちは、3.0マガジン編集部です!今回は、津田塾大学のMaja Sori Doval先生がカンボジアの柔道場を訪問、そして文化体験をした様子をお届けします。カンボジアという国、一般の方々には世界遺産である「アンコールワット」のイメージが強いと思いますが、実情はどのような国なんでしょうか。マーヤ先生には以前「ブータン王国で柔道と文化交流をして」という記事も執筆していただいています。こちらも併せてご覧ください!



カンボジアで柔道場の訪問と文化体験

年が明けた2018年の1月、judo3.0を通じて知り合った小林幹二先生のご紹介で、植田真帆先生とカンボジアへ柔道旅行に行くこととなりました。アンコールワットでの柔道場の訪問と、カンボジアの文化を幅広く体験ができた充実した三日間となりました。今回はカンボジアでの体験をお話したいと思います。

カンボジアへは、途中香港で一泊してから向かいました。明日の1月7日朝に、アンコール遺跡群があるシエムリアップに到着しました。多くの方々はカンボジアという国名を聞くと、世界遺産のアンコール遺跡群をイメージしているかもしれません。ですがカンボジアの文化を理解するためには、これまでの歴史を少し探る必要があります。

カンボジア王国の略史とカンボジアの現状

カンボジアは西にタイ、北にラオス、東はベトナムと国境を接しているインドシナ半島東南部に位置する王国です。カンボジアの国旗は青と赤の背景色の上、国旗の中央に白色のアンコールワットが示されています。青色は王権、赤色は国家、白色は仏教徒を表しています。アンコールワットは国旗に描かれていることから、カンボジアの歴史にとって重要な一部であることがわかります。

カンボジア王国の国旗
国旗の中央に見られるアンコールワット

アンコールワットは9世紀から15世紀までのクメール王朝の時代に当時の王都となったアンコールにおいて、ヒンドゥー教の寺院として建設されました。徐々に仏教の寺院に変容してきたそうです。15世紀に王都が現在の首都のプノンペンに移ったと同時にアンコールが一時的に放棄され、その後にアンコールワットは仏教の寺院として使用されるようになりました。クメール王朝を経て、タイとベトナム王朝からの侵入があった暗黒時代に入ると、1863年にフランスの護国領となりました。続いて1941年から1945年にかけて日本の占領地域にもなり、1953年に王国として独立しました。

その後は再び、暗い時代に入ります。1967年には、ベトナム戦争の影響も受けて1975年代まで続いたカンボジア内戦に入ります。さらに1975年にクメールルージュ(赤いクメール、カンボジア人の意味)という共産ゲリラ組織の政権が始まり、1979年まで続くことになりました。1976年からポルポトを最高指導者としたクメールルージュの政権は農業国への回帰を目標とし、過激の共産主義革命を実施しました。この革命によって都市住民が地方農村部へと強制的に移住させられ、自由市場経済、学校教育、通貨や財物、宗教や伝統文化が廃止され、アンコール遺跡群を含む数多くの文化遺産が破壊されました。

クメールルージュ政権下とその政策の結果として数多くのカンボジア人は飢餓や大量虐殺によって命を落としました。特に反対派とみなされた少数民族、宗教の信仰者、インテリ等は虐殺の犠牲者になりました。正式な数字がありませんが、カンボジアの人口の25%程がクメールルージュ政権下で命を奪われたという話もあります。カンボジアの各地において虐殺が行われた「キリング・フィールド」という場所が刑場跡として残っています。

1979年、ベトナム軍の侵攻によってクメールルージュの政権が崩壊されたと同時にカンプチア共和国が成立され、1989年にカンボジア国へと改名されましたが、クメールルージュは1980年代までベトナムに対するゲリラ戦を続けました。その結果としてカンボジアのインフラはほぼ破壊され、内戦中にカンボジア各地の土に埋められた数多くの地雷は、今日まで犠牲者を生み続けています。1993年に王政が復古されたと同時に現在のカンボジア王国が誕生しました。現在のカンボジア王国の主な産業は繊維産業、観光産業や農業です。カンボジアの人口は約1600万人ですが、カンボジア国民の平均年齢は25.3才となっています。平均寿命は64.9才ですが、全体の人口を見ると、65才以上のカンボジア人の割合は僅かの4.25パーセントとなっています。(こちらを参照)。現地に行った時も、数字で分かるとおりお年寄りが少ないという印象を、自分の目で見ました。

カンボジア文化の体験と柔道場の訪問

トンレサップ湖

シエムレアプ空港に到着したのは1月7日の朝でしたが、そこはすでに30度を越える暑さでした。シエムレアプは世界遺産であるアンコール遺跡群の観光拠点として有名な都市です。最初に、近くにある河と結びついているトンレサップ湖に向かいました。乾季の時のトンレサップは琵琶湖の約4倍の面積ですが、雨季のピークである9月に入ると、トンレサップは乾季の6倍の面積にもなります。観光客用のボートを乗って、マングローブ林や「泳ぐ村」、水上のクロコダイルファームを見に行きました。最も印象に残ったのは、ボートから見られた柱に支えられた湖上家屋や一人でボートに乗った小さい子どもの姿等の「泳ぐ村」での生活でした。

トンレサップの周辺にある泳ぐ村
トンレサップの周辺にある川辺の様子

だるま孤児院の訪問

ホテルに荷物置いてから1991年に設立されただるま孤児院を訪問し、子ども達と遊びました。子ども達は学校教育を受けながら施設で共同生活をしています。孤児院の子ども達は経済的に支援されながらも、ほぼ自立して日常生活を送っていることが印象に残りました。料理や洗濯等は子ども同士で行い、年上の子どもは小さい子どもの面倒も見ています。このように生活している子ども達は、小さいころから「自己責任」を学んでいるそうです。学校に行かずに幼い頃から仕事をしている子ども達が多いカンボジアにおいて、教育は貧困からの唯一の逃げ道です。だるま孤児院で生活しながら学校教育を受け、その後観光ガイド、観光客用のお店で働いている卒業生がたくさんいるそうです。

孤児院の子供達との記念写真
折り紙に夢中になった孤児院の子ども達

柔道場の訪問

初日の夜は国際日本文化学園において稽古を行っているアンコール柔道場を訪問しました。現在、カンボジアの柔道人口は少なく、シエムレアプ以外に柔道を行っている場所は首都のプノンペンだけです。柔道場の数は僅か2ヵ所か3ヵ所しかありません。青年海外協力隊が初めて日本人指導者をカンボジアに派遣したのは、1966年のことです。しかし、1967年からの内戦やクメールルージュの政権の影響を受けた結果として柔道の普及状態はほぼゼロの状態に戻ったといいます。

現在、現場指導や畳、柔道着や帯の寄付等を含む普及活動を通じてカンボジアの柔道を支える日本人の方々が多くいます。また、2017年から2019年にかけて行われる「日本アセアン自他共栄プロジェクト」の一貫として、去年の9月に講道館で開催された国際セミナーではカンボジアの柔道家も参加しました。しかし、以上のようにカンボジアはまだ柔道人口が少なく、柔道の指導者も足りないのが現状です。設備や用具の問題もありますので、まず基盤を作る必要があります。

シエムレアプにおいて柔道は、国際日本文化学園・一二三日本語教室という私立学校を通っている生徒を対象に教養活動として行われていますが、別のところで指導してもらった柔道の生徒も一緒に稽古しているそうです。一二三日本語教室の生徒は20ドル程の月謝で、日本語の授業以外に柔道を含む教養活動にも参加できるそうです。柔道以外に空手道の稽古も行われていますが、柔道と空手道を同時に学ぶ生徒も何人かいました。

柔道の稽古は週に2回(土日)、各2時間位の程度で、生徒の数は約20名程です。有段者の指導者がいます。稽古は準備運動、補強運動や受け身から始まりました。柔道場は比較的狭く、畳のスペースも小さかったですが、生徒たちは柔道熱心で一生懸命に稽古に励んでいます。柔道用の畳が寄付される前は、空手用の薄いマットを使用して稽古したそうです。空手の道着や手作りの柔道着を着用した生徒も何人がいました。

当日は生徒の希望によって自由参加ができる二つのグループに分けて実技指導を行いました。小林先生は立ち技で、もう一つのグループは植田先生と私が一緒に固め技の基本の指導を行いました。固め技の指導において特に下からの攻め方と返し方をテーマにしましたが、生徒のレベルがバラバラで、基礎ができていない生徒からある程度でできる上級者もいました。限られた設備で、稽古時間が少ない環境で明るく笑顔で一生懸命に稽古に励んだ生徒の姿は印象に残りました。

アンコール柔道場の生徒達との記念写真
実技指導の様子

アンコール遺跡群で観光

二日目はアンコール遺跡群を観光しました。初日に引き続き、日本語と英語を話せるアニキさんという方がガイドをしてくださいました。アンコール遺跡群で最も有名なアンコールワット以外にも、アンコールトムやバイヨンが有名な遺跡です。アンコール遺跡群の入場金はカンボジア人なら無料ですが、海外観光客の入場金は37ドルです。朝5時から一日使用できる入場金が購入できますが、専用販売場では早朝から多くの観光客が並んでいました。

アンコールワットの朝日

入場券を購入してからアンコールワットの朝日を見に行きました。アンコールはサンスクリット語で王都、ワットはクメール語で寺院を意味しています。アンコールワットの朝日は本当に綺麗でした。これは見る価値があります。その後、昼間はアンコールトムとその周辺を見に行ってきました。特に印象に残ったアンコールトムの中心寺院であるバイヨンの四面像でした。

バイオンの四面像

観光を終えて全体的な印象としては、観光産業はカンボジア経済の主な柱の一つとなっていることを強く感じました。物価は思ったよりも高く、外食の金額は日本とほぼかわらない印象でした。アンコールワット遺跡群の入場金以外にも観光客向けの値段は現地の人に対しての値段と異なっていることがありました。例えば、水を買うときの値段は普通の値段の2倍でした。また、カンボジアの若者にとって観光客のガイドは魅力的な職業ですので、外国語を学ぶ青年が多くいます。

地雷原の現場視察と地雷博物館の訪問

3日目は非政府団体(NGO)のCambodian Self Help Deminingが地雷除去作業を行う地雷原の視察に行きました。この団体はクメールルージュの元少年兵アキ・ラー氏が2007年に設立した組織です。現在、女性も含めた約25名の隊員は5つのチームに分かれて、農村を中心に地雷除去の作業を行っています。30度を超えた暑さの中でミス一つが致命的になる作業に励む隊員の姿を見て、地雷の恐ろしさを肌で感じました。

視察に行った当日の朝には、地雷2つが見つかりました。この地雷を起爆しなければなりません。団員の指示に従って起爆のスイッチを押した緊張感と恐怖感は一生忘れられません。現場視察を終えてアキ・ラー氏が1997年に設立した地雷博物館も見に行きました。地雷博物館の構内には、地雷の犠牲者になった子ども達を始め、生活が困難の子供達を受け入れる孤児院も運営されています。

CAMBODIA SELF HELP DEMINING隊員との記念写真
地雷原で見つかった地雷
地雷の起爆

最後に

小林先生のおかげで非常に印象深く、カンボジアの文化を幅広く体験ができた3日間でした。普通の観光客には見えないカンボジアを味わうこともできました。様々な困難がある状況でも、現地で出会った明るくて元気なカンボジア人の姿には感動しました。また孤児院を訪ねて、教育の重要性を改めて強く実感しました。先進国に住む私達は普段、足りないものがない豊かな生活が当たり前のようになっていますが、それは当たり前ではありません。経済的に安定した豊かな生活に恵まれていることに対して常に感謝しなければならないことを改めて強く感じた3日間でした。

アンコールワットの近くにある湖に遊んでいる子供達
アンコールトム
Maja Sori Doval

比較武道研究者・津田塾大学専任講師

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