柔道をはじめて良かった~ママが指導者になって分かったこと~
「気をつけ。正座。黙想。黙想やめ!」「正面に礼。先生に礼。お互いに礼。」
6 年生のリーダーの掛け声と共に、毎週火曜日夕方、 1 時間半の小学生の部の稽古が始まります。正面に座っているのは、私。一見、どこにでもいる普通の主婦です。まさかこの私が、子ども達に「先生」と呼ばれ、柔道を教える立場になろうなんて、数年前までは想像すら出来ませんでした。思い起こせば、この柿生柔道会の門をくぐったのはちょうど 7 年前の夏休みが終わる頃でした。
普通の主婦が黒帯を取得するまで
柔道との出会い
当時、長男は 4 年生、次男が 1 年生の時でした。それまでの約 2 年間は町田市の体育館で行われていた公開講座で、週 1 回の基礎的な柔道を習っていましたが、子ども達が「本格的に練習して大会にも出てみたい!」と言いだし、この柿生柔道会に入門させていただきました。当時の私はもちろん、柔道は始めていません。運動と言えば趣味の範囲で走る事を日課にしていたくらいでした。
道場へ週 3 回、子ども達の送迎をして道場の雰囲気に少しずつ私も慣れ始めた 10 月の初め、柔道会の関先生から「お母さんも一緒に柔道やってみればいいのに。それだけ運動しているんだから大丈夫でしょ!」と声をかけられました。
普段は毎日走っているので体力だけは自信があり、満更でもなく「ちょっとやってみようかなぁ~」と軽い気持ちでそのまま入門させていただきました。
元々私の父が柔道の指導者だったこともあり、幼い頃から柔道がとても身近にあったので柔道に対しての抵抗があまり無かったのでしょう。その上偶然にも、主人も高校時代は柔道部で、子どもが生まれたら選択肢無しに柔道をやらせるつもりでいました。
しかしよくよく考えてみたら、この時すでに私は42 歳。もう立派なおばさんです。さすがにいくら柔道好きの父でも、この事を話したら「お前、柔道を甘くみているのか!怪我でもしたら大変だぞ!」と一喝されそうだったので、年明けの正月まで黙って内緒にしていました。そして、旦那にも柔道をはじめるなんて言ったら反対されるだろうと思いきや「柔道をやるなら生半可な気持ちでやるな!黒帯取るくらいの気持ちでやれ!」と逆に叱咤激励されたのでした。
こうして親子 3 人で 2010 年 10 月から道場に通い、母も一緒に柔道を始めたのでした!
はじめの頃はこの年になっての人生初の柔道着が、何だか少し恥ずかしく、道場の端の方で小さくなっていました。それが回を重ねるごとに、会長をはじめ色々な先生方に出会うことで礼法、受身、体の裁きなど、事細かに丁寧に教えていただけました。そしてだんだんと柔道着にも慣れ、子ども達に混じって一緒に稽古をするようになっていました。
柔道を始めたばかりの頃、柿生柔道会に日本代表選手が来てくださった時の写真です!
体力のなさに嘆く。でも学ぶことが楽しい
道場に通えば通うほど柔道が楽しくなり、もっと色んな事を学びたい、もっと色んな技を教わりたいとどんどん欲も出てきました。もしかしたら、息子達より私の方がはるかに柔道を楽しんでいたのかもしれません。
しかしながら楽しい事ばかりではなく、当然痛い事もありました。毎回、稽古後はあちこちに大きなアザをできていたり、足首から脛の辺りはアザでどす黒くなっていたり、絞りで肘の皮は剥けたり、袖の中が血だらけになっていたり、本当にあちこちに傷を作っていました。また普段走っているから大丈夫と思っていた体力も、柔道で使う筋肉は全く違っていつも息切れてばかりで、こんなにも自分は体力が無いのかと嘆きました。その姿は本当に情けないものでしたが、これも当初掲げた黒帯を取得するという目標へ近づく一歩だと思えば全く辛くありませんでした。むしろ充実した時間を過ごしていたと思います。またこの年になって、何かを人から学ぶという事がとても新鮮で、学生の頃とは違って先生方の言葉一つ一つが本当に心に響きわたり、とても理解出来ました。
3級、1級、黒帯への挑戦 ~夢中に過ごした2年間~
そんな泣いたり笑ったりの日々の繰り返しで、気が付けばあっと言う間に 1 年が過ぎました。その頃に会長から「そろそろ昇級審査会に行って、3 級を受けてみたらどうか?」と言われ、初めて昇級審査会に行きました。川崎市の審査会場には当時、主婦で受けに来ている人は一人もいませんでした。受けに来ている中学生の保護者とよく間違えられたものでした。そして審査試合の対戦相手は毎回、現役柔道部の元気な男子中学生。下手すれば自分の息子と試合をするようなものでした。親子ほどの年の差がある相手になかなか勝てず、いつも半べそを掻きながら戦っていました。
現役の中学生だとだいたい 1級に合格まで、3~4回の審査で合格するそうですが、私の場合はやはりそう簡単にはいきませんでした。1 級合格まで審査を受けること全 6 回、約倍の時間がかかってしまいました。あまりにも勝てなかったので「やっぱり無理だ!」と投げ出したくなった事もありましたが、それでもどうにか1級合格まで漕ぎ着けた時の嬉しさは、この年になって感じたことのないほどの喜びでした!
そして、いよいよ昇段審査会に行くようになりました。目標の黒帯、つまり初段合格を目指して、今度は神奈川県立武道館へ毎月通うようになりました。ここでの審査試合は神奈川県内の女子中学生と当たる事がほとんどで、やはり主婦で受けに来ている人とはとうとう一度も会いませんでした。神奈川県は柔道が盛んなせいか、受けにくる女子中学生の強いこと!毎回、審査試合は 4 回行われるのですが、初めての時は 4 試合全敗でした。昇級審査の時よりもさらに相手が強くなり、4 試合全敗が 3 回続きました。今度こそ「私は本当に初段合格なんて出来るのだろうか?」と帰りがけ、武道館に隣接している岸根公園のベンチで一人よく泣いていたものでした。
そして4 回目の審査会で、何かが変わってきたのか初めて 4 試合中 3 勝を果たすことができたのです。
半ば諦めかけていた時のこの勝利は、本当に嬉しかったです。その後、5 回目で 2 勝し、昇段規定の 5 ポイントを獲得しました!約半年がかりで昇段審査の試合をクリアーし、その後「投の形」の講習会を受け、無事念願の初段合格!晴れて黒帯になったのです。3 級からはじめて目標の初段合格まで約 1 年かかりましたが、こんなにも夢中で一生懸命になれた事は、いつ以来の事だったでしょう。毎日の家事と育児、そして柔道の稽古と、時間の無い中でこんなにも一生懸命になれた時間は、今思えば貴重な経験だったと思います。
昇段試験に合格後、道場で昇段証書が授与されました!
指導者への道を歩き始める
指導に行き詰る ~本当に悩みました~
初段を取ると、道場の先生方に「これからは指導者側になって、子ども達の育成にも力を入れてもらいたい」と言われました。まだまだ自分自身が修行の身であったのですが、先生方の補助として小学生の稽古の時間に出来る限り参加していました。しかしながら人に何かを教えたり、ましてや指導したりした経験が今まで一度もなく、正直何をしていいのか手さぐり状態でのスタートでした。
私自身、父親に厳しく育てられたので「厳しさ=美徳」という認識が常に頭にあり、最初の頃はちょっとでもふざけていたり、やる気の無かったりする子どもをみると、かなり厳しく怒鳴っていたと思います。今思えば後悔しています。きっと、子ども達に舐められてはいけないという気持ちもあったのでしょう。次第に道場の子ども達にも怖がられ、気が付くと私の顔色を見るようなっていたのです。
自分自身、何が良いのか悪いのかも分からず手さぐり状態の補助指導員をしながら 1 年が経った頃、正式に道場から指導員として委嘱されました。補助として入っていた火曜日の先生が高齢で、道場に来るのが難しくなってしまい、このタイミングで私がこのクラスを任されたのでした。
「こんな私が先生として前に座っていいものなのだろうか?」「この子達に私は何を教えられるのだろうか?」と毎回自問自答しながら、本当に悩みました。私の受け持つ火曜日以外の先生はベテランで、試合で使うような実践的な技などを教えていたので、私に出来る事はその練習についていけるような体力作りと基礎基本をしっかりと教える事だと思い、前半は体力トレーニング、後半は礼法、受身、基本動作を中心に教える事にしました。
しかしながらやはり教え方もまだまだ下手くそで、どこか自分にも自信がなく、そんな所を全部子ども達に見透かされていました。火曜日のクラスは託児所状態になりなかなか統率できず、毎回稽古が終わると「この状況どうしたらいいのか?」と、帰宅後は家事も手につかないくらい、本当に悩みました。
「何でみんな言うことを聞いてくれないんだろう?」「何で集中出来ないんだろう?」「どんな稽古をしたら興味を持ってくれるのだろう?」と、柔道の本を買ったり、ネットで他道場の練習内容を見たりと自分なりに研究したのですが、なかなか定着する事が出来ませんでした。特に低学年の柔道をはじめたばかりの子どもを教えるのが本当に難しく、やさしく言えば遊んでしまうし、きつく言えば泣いてしまい、お手上げ状態が続いていました。
指導者を志したものの、迷走が続きました。
迷走から抜け出す~指導が変わったら子どもたちが心を開いてくれた~
そんなある日、道場の卒業生で現役の保育士をやっている M さんに「小さい子に柔道って何を教えればいいの?」と藁をも掴む思いで相談した。すると「5 歳 6 歳の子どもに柔道なんて、ちゃんと教えたってわかるわけないですよ!いいんですよ、遊んであげれば!柔道着を着て、いっぱい体を動かして、また来週も道場に来たい!と思ってもらえれば、それでいいんですよ!」との回答が。
目からうろこでした。私は「柔道とはこうあるべき!」という自分の理想像を無意識に子ども達に強制していたのだと思います。そして言う事を聞かない子どもには大きな声で怒鳴り、力づくでねじ伏せていたのだと思います。
M さんの助言を境に、気持ちもすっと軽くなり、私の指導が徐々に変わりはじめました。とにかく「来週もまた道場に来たいと思えること」「帰る時はみんな笑顔にさせること」「稽古中は来ている子の名前を全員必ず呼びかけ褒めること」とこの 3 本を私の指導の根底とし、愛情を持って接することにしたのです。
すると、だんだん子ども達が心を開いてきてくれたのです。大きな声で怒鳴ることもなくなり、子ども達との距離が縮まっていくのを肌で感じられるようになりました。すると次第に私も、子ども達のちょっとした成長にも心から感動し、喜びを感じるようになりました。本当にこの子達が可愛いくて、どんな事があってもこの子達を守っていかなくてはと思えるほど、私の大事な生徒になってきたのです。
指導者としての成長を目指す~C級指導者への挑戦~
私はいつもこの子達にたくさんの事を教えてもらっています。成長させてもらっています。そんな子ども達が私を信じて先生と呼ぶのなら、私もちゃんと資格のある指導者にならなくてはと、今年の 2 月に全柔連の準指導者資格を取りました。
この指導者講習会は本当に勉強になり、これから指導者を目指す人には受けてもらいたい講習会です。しかしながら準指導者では、大きな大会引率などが出来ないので、出来れば弐段を取りC 級指導者、そして 参段を取り B 級指導者と上の資格を取りたいという思いが常にありました。
やはり 弐段の壁は高く、また年齢的にもあの審査試合をする体力と気力にも自信がなく「私はやはり初段の準指導者までか」と思っていた矢先に偶然見つけたのが、今年の講道館女子夏期講習会でした。講習会最終日に昇段審査があり、審査試合は無しに主に「投の形」で 弐段が受けられるとのことでした。初段を取ってから早 5 年が経ち、ここまでかと諦めていた時のこの機会に迷いもなく申込み、この夏講道館で 4 日間の夏期講習会を受講し、最終日の昇段審査で無事、弐段合格が出来ました。これで来年は、C 級指導者を受けに行く事ができます!
講道館夏期講習会の様子
もし柔道をはじめなかったら、
サッカー元フランス代表チームのロジェ・ルメール監督が「学ぶことを止めたら、教えることを辞めなければならない」と言ったこの言葉を胸に、私は道場の子ども達の為に、そして自分自身の為に、常に学ぶ事に前向きに積極的でありたいと思っています。また、柿生柔道会で会長が子ども達に教えている柔道は、講道館柔道の嘉納先生の教えに沿っている事もあらためて今回認識しました。将来の子ども達の為に、この柿生柔道会を長く繋げていくことも私の役割なのではないかと最近思うようになりました。
7年前の私は、今柔道の指導者になっているなんて全く想像していなかったでしょう。まさかここまで私が柔道にはまる事になるなんて、天国の父が聞いたらびっくりする事でしょう。最初に少しお話しした私の父は、私が柔道を始めた 2010 年の 12 月に突然他界し、実は私が柔道を始めたのを知らずに亡くなってしまったのです。父も柔道が大好きで、生涯柔道にかけていた人でした。今こうして私が頑張れるのも、父の姿が私の中にあるからなのかもしれません。父からあまり褒められた記憶などないのですが、きっと天国から私がやっている事を見守ってくれていると思います。
柔道をはじめなかったら、こんなに泣いたり笑ったり、喜んだり、落ち込んだり、張り合いのある時間は過ごせなかったかもしれません。
柔道をはじめなかったら、こんなにもたくさんの人と出会えなかったかもしれません。
柔道をはじめなかったら、こんな未来も描けなかったかもしれません。
だから、思い切って柔道をはじめて良かったと思います。
黒帯を初めて巻いた時の写真。感動です。
プロフィール
坂上 圭子 (さかうえ けいこ)
柿生青少年柔道会 指導員兼父母会長(2012~現在) 町田市鶴川第二中学校 元PTA会長(2013~15) 町田市公立中学校PTA連合会 元副会長(2014~15) 町田市教育委員会 教育委員(2016~)