嘉納治五郎の柔道と教育30 これからの教育からみた柔道(2)
今回は、主にキー・コンピテンシーの中心にあるreflectivenessについてふれ、DeSeCoの基底にある大きな特長をみていきたい。
まず、キーコンピテンシーは次のようなものである。
「知育」から「徳育」へ
結論から先にいうと(かつ単純に表現すると)、DeSeCoは、現代の「知育」中心の教育から、「徳育」中心の教育に転換すべきであり、「徳育」中心の教育に転換しなければ「人生の成功」も「正常に機能する社会」もない、という結論を出した。
ここでは便宜的に、知識や認知スキル(情報処理能力など)などの「認知的要素」に関する教育を「知育」、態度、感情、価値観や倫理、モチベーションといった「非認知的要素」に関する教育を「徳育」と表記するが、
DeSeCoは、人と社会が豊かになるためには、「認知的要素」の向上も重要であるが、それ以上に「非認知的要素」の向上が必要であると判断したのである。以下詳細をみていきたい。
教えられた知識や技能を超えて
まず、DeSeCoは、報告書(要約版)において次のようにいう。
□教えられた知識や技能を超えて
ほとんどのOECD諸国において、柔軟性、企業家精神、個人的責任が重視されている。個人は、適応するだけではなく、革新的、創造的、自律的、自発的であることが求められているのである。
多くの学者や専門家が同意していることであるが、現代の問題に対処するためには、複雑な精神的課題に対応できるような個人の能力を適切に開発することが必要であり、これは溜めこまれた知識を単に思い出して使うことをはるかに超えたものである。キー・コンピテンシーには、認知的・実践的な能力、創造力、その他、態度、モチベーション、価値観のような心理社会的な資質を動員する必要がある。
コンピテンシーが単に教えられた知識以上のもので構成されているという事実にも関わらず、DeSeCoプロジェクトは、一つのコンピテンシーが、それ自体、望ましい学習環境の中で学ばれることを提案している。
キー・コンピテンシーにおける枠組みの中心にあるものは、道徳や知性の成熟さの現れとして、自らを省みることができ、自らの学習と行動に責任をもつことができる個人の能力である。
(key competencies 8頁[no title:title=)
ポイントは、第一に、現代の課題に対応するためには、単に知識や情報をもっているだけでは足りず、「態度、モチベーション、価値観」のような非認知的要素が必要であるという点、第二に、キー・コンピテンシーの中心にreflectivenessがおかれたことであるが、以下敷衍してみていきたい。
直面する課題
DeSeCoによると、私たちは「変化」「複雑」「相互依存」という特徴をもつ社会におり、そのため次のような課題に直面しているという。
- 技術は急速かつ継続的に変化している。したがって、技術を扱う学習には、一連の作業を一時的に身につけることだけではなく、適応しつづける能力が必要となる。
- 社会はより多様化し細分化している。したがって、個人的な関係において、自分と異なる者と交流することがより必要となっている。
- グローバリゼーションは新しい形の相互依存を作りだしている。したがって、活動は、地域や国のコミュニティを超えて大きく広がる影響(例えば経済競争)と結果(例えば公害)に左右される。
(key competencies 7頁[no title:title])
そこで、敷衍すると、DeSeCoは、私たちがこの「変化」「複雑」「相互依存」がもたらす課題に対応するためには、以下に述べるように、「非認知的要素」の開発が必要であるという。
- 変化が激しい社会では、学校で習った知識は陳腐化する。人は生涯にわたって学び続けなければ社会に適応していけない。そのためには、その時々の知識や認知スキルよりも、学ぶことに対する意欲や感情(情動)、社会に対する関心や姿勢、世界観といった「非認知的要素」が必要である。
- 同様に、社会は複雑化し、人と人の絆が作りづらい社会になる。人の豊かな生活は、他人と豊かな人間関係を築けるか否かにかかっているといっても過言ではないが、このような豊かな人間関係は、この複雑な社会において、他者(社会)に対し、自ら意欲的に関わっていかなければ築くことができない。相手の立場に立って考えること、同じ目的を共有して協力すること、トラブルがあったときそれをうまく対処することなどが必要であるが、これらには、人に対する態度、倫理観、感情(情動)のコントロールといった「非認知的要素」の開発が必要不可欠となる。
- 相互依存する社会とは、自分の行動が多くの他者に影響を及ぼし、また自分の行動は多くの他者の影響を受ける。このような世界でうまく暮らしていくためには、自分の行動がどのような影響を及ぼすか、を考えて行動することができると同時に、単に周りに追従するのではなく、自分が望むことを主張し、自己実現に向けて実際に活動できることが必要である。これらをできるようになるためには、社会にどのように関わるかという世界観や価値観、自己実現に対する意欲や感情といった「非認知的要素」の開発が必要不可欠である。
現代の教育
では、現代の教育では「非認知的要素」の開発が行われているのか。
DeSeCoは、現在の教育システムはこれを開発していない、むしろ、現代の教育システムは非認知的要素の開発をかえって阻害しているのではないか、と認識しているという。
□DeSeCo報告書
認知的技能と知識は、明らかに伝統的な学校プログラムを通じて達成される重要な学習成果であるが、コンピテンシーに関する考察はそうした認知的要素だけに限定することはできない。
労働市場での行動や知性と学習に関する最近の研究は、態度や動機づけ、価値といった非認知的要素の重要性を示している。これらの要素は、フォーマルな教育の領域では必ずしもあるいは全く獲得されず開発されていない(キーコンピテンシー27頁)。
□教育学者の福田誠治氏の指摘
ヨーロッパにおける大きな流れの中で、OECDの教育研究革新センターは1995年あたりになると、教育目標とは「明日の市民」を作ることだと解釈するようになった。
この立場から、伝統的カリキュラムにおける高得点は他の重要な側面、すなわち生徒の間における創造性、批判的思考、自己信頼(self-confidence)といったものを犠牲にして達成されているのではないかという批判が高まってきた。
そこで結局、CERIはTIMSSのような数学、理科、あるいは他によくある読解の達成といった指標、ましてや旧来の読・書・算という「基礎的学力」では、現代の学校教育の成果を把握するには不十分であると判断するに至った。(福田誠治「競争やめたら学力世界一」197頁)
キーコンピテンシーの構造
以上のような背景があって、DeSeCoは、「認知的要素」と「非認知的要素」の双方が開発されるような教育の成果の定義を行う必要があった。この結果、キー・コンピテンシーは、次のような構造をもつことになった。
- キー・コンピテンシーの中心には、”reflectiveness”(思慮深さ、反省性)がおかれた。reflectivenessとは、先に引用した報告書でいうと、「道徳や知性の成熟さの現れとして、自らを省みることができ、自らの学習と行動に責任をもつことができる個人の能力」である(詳細は後にふれる)。
- キー・コンピテンシーは、「認知的要素」と「非認知的要素」の双方を含むものとして構造化された。例えば、「協力する能力」については、協力に関係する知識や認知スキル、実際的スキルなどの認知的要素のほか、態度、感情、価値観や倫理、動機づけという非認知的要素を動員する必要があるとされている(キー・コンピテンシー67頁)。
reflectivenessとは?
それでは、キー・コンピテンシーの中心にある”reflectiveness”とは、具体的にはどのようなものだろうか。DeSeCoの報告書(要約版)は、次のようにいう。
□reflectiveness:キーコンピテンシーの核心
この枠組の基本的な部分は、思慮深い考えや行動である。
思慮深く考えることは、比較的複雑な精神的プロセスを必要とするものであり、思考する主体に対し、思考する自分そのものについて思考することを要求する。
例えば、ある特定の精神的な技術の習得にそのプロセスを当てはめた場合、個人は、この思慮深さによって、この技術について考え、これを取り入れ、この技術を彼らの経験の他の側面に関連付け、技術を変化させ又は適合させることができる。さらに、思慮深い個人は、そのようなプロセスを、実践し、行動しながら探求する。
したがって、思慮深さとは、メタ認知的スキル(考えることを考える)、創造力、批判的なスタンスをとること、を活用することを含むものであり、これは、個人がいかに考えるか、という点に関するだけではなく、より広く、思想、感情、社会的関係を含みながら、個人がいかに経験を作り上げるか、という点に関するものである。
思慮深さとは、社会的な圧力から距離をとり、異なる展望を持って、独立した判断を下し、自分の行いに責任を持つことを可能とするような、ある一定レベルの社会的な成熟さに達することを個人に求めているのである。
(key competencies 8頁no title)
これがDeSeCoの報告書(要約版)に記載され内容であるが、これだけでは分かりにくいので、以下、報告書本文の記載をもとに3点ほど補足する。
reflectivenessが機能する場面
reflectivenessは、次のような場面に対応するために必要とされる精神的・道徳的な成熟さ・複雑さといった概念である(キーコンピテンシー98~102頁)。
- 「社会空間を乗り切ること」:人は、親子関係、文化、宗教、健康、消費、教育と訓練、仕事、メディアと情報、コミュニティなど様々な社会領域にかかわり、それぞれの領域で適当な役割を果たすことを求められている
- 「差異や矛盾に対処すること」:多様な世界は「あれかこれか」という単純な解決ができない。平等と自由、自律と連帯、効率性と民主的プロセス、エコロジーと経済の論理、多様性と普遍性、イノベーションと継続性など相互に緊張関係、矛盾関係にあるものを取り扱うことが求められている。
- 「責任をとること」:教えられたことや言われたことにただ従うのではなく、自ら考え、自らの行動指針を作り出すこと。社会からの様々な要求に対し、単に従うのではなく、問い直し、「良い人生とは何か、についての自分の考えからすると、この状況では何をすべきか。」「あのようにした自分は正しかったのか」などを検討し、現在の社会のルールや価値観、自分の現在のルールや価値観をともに省みて、自らが従うべきルールや価値観を新たに作り上げることが求められている。
reflectivenessとは、このような複雑な課題をうまく取り扱う「精神的な複雑さ」を意味する概念であり、根底には、もう一人の自分が、自分の思考や行動について客観的に考察できるような能力(メタ認知:考えている自分について考える)が想定されている。
・・「省察」とは、自分が「自身を客体とするような思考過程の主体」となること、つまり自分の思考や行動を(高いところから)観て考えているもう一人の自分がいるということである。
そのおかげで、自分の行動や思考を自分の行動計画や社会的な脈絡の中で意義づけ、評価し、調整して、さらに続行したり変更したりできるのである。
また、このような「省察」は、「思考について思考する」という「メタ認知技能」のはたらきと考えられ、「想像能力や批判的姿勢をとること」を意味する。PISAはとりわけ、この力こそ社会性を生み出すものとだと見ている。(福田誠治「競争やめたら学力世界一」218頁)
reflectivenessの発達プロセス
reflectivenessは、人が大人になるにつれて精神的に成長していくという発達プロセスに即したものであり、通常、大人にならないと獲得されない。また、このreflectivenessのレベルを上げるには、高度な教育というより、豊かな人生経験が必要となる。
先に述べたこの精神的複雑さの高次レベルは、高度な認知スキル、あるいは高度な教育を前提とするものではないが、「フォーマル、及びインフォーマルな知識や人生経験の総和に関係する、批判的思考や思慮深い実践の全体的発達を必要とする」・・。
したがって、このアプローチはまずもって認知的、あるいは知的な問題ではなく、認知的・知的な要素とともに、適切な動機、倫理、社会的・行動的な要素を含む複雑な行動システムに関係している。・・
研究によれば、このような精神的複雑さのレベルは成人になるまで通常獲得されない。個人が「社会化のプロセス」から距離をおき、自立した判断ができ自らの行動に責任をとれるようになるまで、十分に社会化される必要がある。
このような理解は、個人がより高次な精神的複雑さをその思考や行動に組み込む、人間の発達に関する進化論的モデルに基づいている・。(キーコンピテンシー102~103頁)
reflectivenessと三つのキー・コンピテンシーとの関係
reflectivenessは、「道具を相互作用的に用いる」「異質な集団の中で交流する」「自律的に活動する」という三つのキーコンピテンシーの中心に位置する。
それが意味することは、reflectivenessのレベルが上がれば、三つのキー・コンピテンシーのレベルも上がるという関係であり、逆もまた同様に、例えば、「自律的に活動する」というキー・コンピテンシーが発達すれば、reflectivesssのレベルが上がり、その結果、他のコンピテンシー(道具を相互作用的に使用、異なる集団と交流)も発達するという関係である(おそらく)。
このようにreflectivenessを中心として三つのキー・コンピテンシーが連動している。
キー・コンピテンシーの三つのカテゴリー(またこれらのカテゴリーの内部で明らかにされたキー・コンピテンシーのそれぞれ)は、現代生活において有能な行動を取るための条件としての高次の精神的複雑さの発達を含意している。
自律的に活動するためには、社会領域を乗り切るために必要な精神的プロセスが必要であり、多様性に対処したり、責任をとったりすることが求められる。相互作用的に道具を使用したり、社会的に異質な集団で交流することにも、同じことが当てはまる。
理論に基づいた概念として、この三つのカテゴリーは、個人が関連するすべての社会領域において能動的で責任ある役割を果たせるようにエンパワーする能力を構築する基盤を提供する。(キー・コンピテンシー104~105頁)
一応のまとめ
DeSeCoは、これからの教育には、非認知的要素の開発(徳育)が不可欠であると認識し、キー・コンピテンシーは認知的要素と非認知的要素の双方を含むものとして構造化し、キー・コンピテンシーの中心に、精神的な成熟性を意味するreflectivenessをおいた。
もちろんreflectivenessは、認知的要素、非認知的要素をいずれも含む概念であると思われるが、DeSeCoの重点が、現在の教育では開発されていない非認知的要素の向上にあることは明らかだろう。実際、reflectivenessの向上には、高度な専門教育等(認知的要素の向上)は必要ないとされている。
あえて単純にいうと、reflectivenessとは、「子ども」から「大人」になること、「立派な社会人」になることである。
- 「大人」には、「うまくいかなかったけど、言われたとおりやったので責任は持ちません。」という言い訳は許されていない(責任をもつ)。
- 同様に、「仕事が忙しいから子育てはしません。」、「関係ないので投票しません。」といったことも許されていない。それぞれの立場での役割を果たさなければならないのである(社会空間を乗り切る)。
- また、仕事でもプライベートでも「あちら立てればこちらが立たぬ」というような厄介なことが生じる。このような厄介ごとは子どもであれば大人が代わって対処してくれたが、大人には代わってくる人はいない(差異や矛盾を扱う)。
このようにDeSeCoは、reflectivenessをキーコンピテンシーの中心におくことによって、あまねく人の教育目標とは、「頭のいい人(知識)」や「できる人(認知スキル)」を育てるのではなく、「子ども」を「大人」にすること、「立派な社会人」を育てることにあることを示し、現代の「知育」中心の教育から「徳育」中心の教育に転換することを提言した。
この点、シンクタンク・ソフィアバンク代表の田坂広志氏は、文芸評論家亀井勝一郎氏の「割り切りとは魂の弱さである。」であるという言葉を引用し、「器の大きい人物」について以下のように語るが、
この社会に存在する様々な「矛盾」を前に、この「矛盾」と正対し、それを心の中に深く把持し、「割り切る」ことなく、その矛盾の止揚の道を求めて、格闘し続けること。
それは、まさに、「魂の強さ」と呼ぶべき力量が求められる営みなのでしょう。しかし、そのことの大切さを理解するとき、我々は、古くから、優れた政治家や経営者などのリーダーに贈られるあの言葉の、本当に意味を知ります。
「器の大きい人物」
それは、心の中に、壮大な「矛盾」を把持し、その「矛盾」と対峙し、格闘し続けることができる人物。そうした人物に送られる言葉なのでしょう。(田坂広志「未来を予見する5つの法則」161頁)
この田坂氏の表現を借りるならば、DeSeCoは、万人を「器の大きい人物」にすることが人類の教育の目標であると提言したのである。
なお、念のため確認すると、「知育」中心から「徳育」中心の教育に転換すべきといっても、DeSeCoが知育を軽視したということではない。むしろ逆である。これからの社会は、知識基盤社会であり、知識や認知スキルがますます重要になるが、効果的な「知育」には「非認知的要素」の開発が必要不可欠である、と認識するに至ったのである。
柔道へ
それでは、現代の最も優れた研究であるDeSeCoが、キーコンピテンシーの中心にreflectivenessをおき、これからの教育は徳育中心でなければならないと提言したことは、これからの柔道を考えるにあたってどのような意味をもつだろうか。次回はその点をみていきたい。
※本記事は、2010年8月から酒井重義(judo3.0)によってブログで連載された研究論考「勇者出処~嘉納治五郎の柔道と教育」の再掲です。