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嘉納治五郎の柔道と教育34 これからの教育からみた柔道(6)

※作成中

今回は最後のキーコンピテンシー「自律的に活動する(acting autonomously)」についてみていきたい。

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内容

DeSeCoによると、「自律的に活動する」とは、次の三つの力を意味する。

  • 大きな展望の中で活動する
    • 「think globally act locally(グローバルに考えてローカルに行動する)」というスローガンにある程度表現されているが、身近な状況だけではなく、自らの行動がもたらす長期的、間接的な影響も配慮し、自分の利害だけではなく、他者の利害も考慮して活動すること。
  • 人生計画や個人的プロジェクトを設計し実行する力
    • 例えば、新しい仕事やアパートを見つけること、新しいスキルを学ぶこと、旅行に行くこと、地域のコミュニティを改善することなどである。目標を設定し、また複数の目標に優先順位をつけ、実行するために必要な資源(時間やお金など)を検討して効果的な計画を立て、状況の変化に合わせて適当な調整を行い、適宜、進捗を管理していくことなど。
  • 自分の権利、利害、限界やニーズを表明する能力
    • 他者の犠牲になるのではなく、自らが求めるものを主張し、自己を尊厳ある存在として取り扱い、行動に責任を持つこと。特に、現代は、多くの点で個人の権利や利益が他者のそれと対立し、ルールが複雑になっており、個人が自ら活動しなければ自己の権利等を守ることができない状況にある。

必要性

「自律的に活動する」ことが必要な理由について、DeSeCoは次のようにいう。

自律的に活動することは、社会的に孤立することを意味するのではない。反対に、これによって、人は、自分の社会的な関係、自分の果たす役割と果たしたい役割、環境に気付くことが求められている。これによって、人は、自分の生活と労働条件をコントロールし、意義深く責任ある方法で自分の生活をマネージメントする力を得ることが求められているのである。

人は、社会の発展に効果的に参加し、職場、家庭生活、社会生活を含む生活の様々な面がうまくいくために、自律的に活動しなければならない。なぜなら、単に大衆に追従するのではなく、人はアイデンティティを独立して発達させ、意思決定を行う必要があるからである。そのようにしながら、人は、自分の価値と行動を検討する必要がある。

自律的に活動することは、それぞれの人の役割が伝統的によく定まっていた場合と異なる現代の世界において、特に重要である。人は、自らの生に意味を与え、どのように適応するかを決めるために、個人的なアイデンティティを作る必要がある。一つの例として、仕事に関し、一人の雇用主に勤める安定した生涯にわたる職業は少ない、

一般に、自律性は、未来に対する適応と、社会的関係、自分の果たす役割と果たしたい役割、という自分の環境に対する気付きを求める。これは、健全な自己概念と、ニーズや欲求を、意思決定、選択、行動のような意思ある行為に転換する力を持つことが前提とする。

自律的(automonously)

さて、ポイントは、「自律的に(automonously)」という点にあるが、その意味するところは、その時々の状況において、思慮深く、他者にも配慮して責任ある効果的な行動をとる(相対的な自律性)というだけではなく、アイデンティティを創り、かつ、発展させるという点にある。

つまり、大きな展望を持ち、プロジェクトを実行し、自らの求めるものを求めることによって、自らの生に意味を付与するという、いわば自己実現にむけて活動することを意味している。

例えば、田坂広志氏は、次のような二人の石切職人の話をあげている。

旅人がある町を通りかかりました。その町では、新しい協会が建設されているところであり、建設現場では,二人の石切り職人が働いていました.その仕事に興味を持った旅人は、一人の石切職人に聞きました。

「あなたは何をしているのですか」

その問いに対して,石切り職人は,不愉快そうな表情を浮かべ,ぶっきらぼうに答えました。

「このいまいましい石を切るために,悪戦苦闘しているのさ」

そこで、旅人は、もう一人の石切り職人に、同じことを聞きました。すると,その石切り職人は、表情を輝かせ、生き生きとした声で、こう答えたのです.

「ええ、いま、私は、多くの人々の安らぎの場となる素晴らしい教会を造っているのです。」

「石を切る」という同じ行為を行っているにもかかわらず、一方のアイデンティティは「いまいましい石を切る人」であり、他方は「素晴らしい教会を作る人」である。

「いまいましい石を切る人」になるか「素晴らしい教会を創る人」になるかは本人の選択に委ねられているが、どちらのアイデンティティが「人生の成功(successful life)」に近いかは明らかだろう。

このように、DeSeCoが育成したい「自律的に活動する力」とは、自分の人生により大きな意味を付与するような、アイデンティティを創りあげ、さらにそれを発展させていく力を意味している。

例えば、たった一つの石を切っているだけでも、全体的に見て、教会を作っている(だから自分の仕事に価値がある)と認識することができ(大きな展望)、自分が真に求めることが「素晴らしい教会を作る」ことであり、「石切」のほかに「建物の設計」もしたいのであれば、それを周りに伝え、設計の仕事もできるよう交渉する(自己の権利等を表明する)、そして、設計の専門学校にいって勉強を始める(プロジェクトを実行する)、というようなことである。

それでは現在の学校は、このような自律的に活動する力を育成しているだろうか。

あえて単純にいえば、多くの学生は、学校教育の中で、国語数学などの「道具」の習熟が求められ、そのトレーニングを積んできたところ、突然、就職活動の際、会社の採用担当者から、志望理由や部活動など勉強以外のことを聞かれ(「自律的な活動」ができるか否かを問われ)、びっくりしているというのが現状ではないだろうか。

「自律的に活動する力」には、知識や情報処理能力などの「認知的要素」以上に、モチベーション、倫理、世界観、態度といった「非認知的要素」の開発が必要不可欠である。前にふれたように、DeSeCoは、現代の教育が認知的要素の開発に偏り、非認知的要素の開発を阻害していることを問題視しているのである。

柔道

それでは、DeSeCoがこれからの教育において「自律的に活動する力」が必要であると定義したことは、これからの柔道のあり方にどのような示唆を与えるだろうか。

第一に、そもそも嘉納治五郎は、柔道を通じた「自律的に活動する力」の育成を企図していたという点を確認する必要があるだろう。

嘉納は、柔道の稽古を通じて「自他共栄」「精力善用」を体得できるのであり、体得したら人生百般すべてに応用しなさいと教えていたが、この「大きな展望の中で活動する力」と「自己の権利、ニーズ等を表明する力」は「自他共栄」の中に、「人生計画や個人的プロジェクトを設計実行する力」は「精力善用」の中に含まれている。

例えば、「Aさんを投げたい。」と思って、新しい技を探し、何度も繰り返し練習し、失敗したら其処から学んでさらに稽古のやり方を工夫し、またAさんをよく研究するなどして、遂にAさんを投げた、という場合、これはまさしく「個人的プロジェクトを設計し実行した」ということである。

また、嘉納は、「稽古をするものは、相互に対手のためを図りながら自分のためを図るという心掛が必要である。・・修行者がだれも皆そういう心掛で練習してこそ、・・乱取の練習が徳性涵養の方法となり得る」というが、これは「大きな展望の中で活動(他者に配慮する)」しつつ「自己の権利等を主張した」ことである。

つまり、嘉納は、「柔道の稽古でAさんを投げることが出来たならば、それは「精力善用」や「自律的に活動する力」が身についてきたことだから、その力を、学力を上げるとか、本を読むとか、旅行するとか、あらゆる場面に応用しなさい。」と、そして、

「無自覚に稽古をしても身につかない。何故、稽古をするのかを意識して行うことで初めて身につくものである。だから、「精力善用」「自他共栄」を体得するという目的を常に意識しながら稽古しないさい。」と常々話していた。

したがって、これからの教育と柔道を考える上で重要な点は、柔道は「自律的に活動する力」が身につくように設計されてるが、そのような力が身につくような「運用」が実際に行われているか、という点にあるだろう。例えば、生徒が指導者の言うがままに単に稽古をしたのでは「自律的に活動する力」は育成されない。

旅、ホームステイ、物語

第二は、本稿で検討している仕組み(異なる地にある道場で稽古をしホームステイをする)についてである。

「旅」や「他人の飯を食う」「同じ釜の飯を食う」経験が「大きな展望の中で活動する力」や「プロジェクトを設計実行する力」「自分の権利等を表明する力」を育成することは明らかだろう。

ごく普通の高校生が単身外国にいって道場で1週間稽古をしてくる、たったこれだけのことだが、実行するためには、大きな展望の中で活動する力、プロジェクトを立案実行する力、自己の権利等を主張する力が大いに求められるのである。

その上で、さらに着目したい点は、

  1. 「自律的に活動する力」を育成する方法として「物語」があること、
  2. 嘉納治五郎の物語は「自律的に活動する力」を育成する「物語」であること、
  3. そして、本稿で検討している仕組みは、嘉納治五郎の物語を現実に再現し、実体験を伴うものであることから、「物語」が持つ効果を最大限発揮できること、

という点である。以下詳細にみていきたい。

 

問題の所在

まず、改めて問題の所在を確認する。

「こんなに目に光のない子どもたちが多い国は世界のどこにもない」(筑紫哲也「スローライフ」)といわれるように、日本人の「自律的に活動する力」や文部科学省が定義した「生きる力」が減少しているという指摘はよく行われている。

では、何故、減少したのだろうか。そして、どうすれば向上するのだろうか。これがここで扱う問題の所在である。

この点、前回は、門脇厚司氏の著書「社会力を育てる」をもとに、子どもと様々な大人が直接交流する機会が激減し、子どもの心の中に社会の一員であるという意識が形成されず、責任ある大人になりきれないことが原因の一つではないかという点にふれた。

今回は、齋藤孝氏の著書「代表的日本人」をもとに、少年期に倫理性の高い「物語」を生きる経験、つまり、生き方が学べるような読書による擬似経験が減少しているという点をみていく。

小説家、佐藤紅緑

齋藤孝氏は、「代表的日本人」として、昭和初期、少年向けの小説雑誌「少年倶楽部」に「あゝ玉杯に花うけて」などを連載し、爆発的なヒットを生み出した小説家、佐藤紅緑を取り上げた。

それは何故か。

理由は、次のように、当時の少年たちに対し、悪に屈せず、ズルをせず、努力を惜しまず、世のため人のために生きるという、生きていくために正しい生き方、倫理観を、物語を通じて浸透させたからである。

子供たちが小説の主人公になったかのような気分で、勇気や卑怯を憎む心を内側から体験したことが、佐藤紅緑の影響力の特長でした。

もちろん「『武士道』にはこういうことが書かれているから、君たちもしっかりと勇気を持ちなさい」とか、「卑怯なふるまいをしてはいけませんよ」というように、真正面から説教するのは教育の基本スタイルですが、物語というスタイルが広く深い教育的効果を発揮することがあるのだということを忘れてはなりません。自分の人生を物語に重ね合わせ、物語の中で生きることを疑似体験することによって精神的に成長します。

少年時代の同化しやすい心を鋭く見抜き、そこへ向けて働きかけてくる作家が影響力を持ちます。

主人公が危機に直面する場面を読むと切羽詰った気持ちになり、主人公が友だちに裏切られるような箇所では、本当に自分が裏切られたように悲しくなる。少年時代の同化能力の強さに寄り添いながら、紅緑の小説は子供たちの心に深く入っていきました。

紅緑が物語をとおして伝えたのは、ストーリーもさることながら、生きていくための倫理観でした。彼の小説には倫理の基本がすべて入っていて、それを読むことによって、これからの世の中を生きていくための基本となる心構えや態度が自然に学習できます。そこが、この小説の優れた役割でした。(齋藤孝「代表的日本人」103~104頁)

戦後日本の高度経済成長期は、この佐藤紅緑の物語を読んだ少年が大人となって働いた時代だった。ところが、昨今、テレビゲーム等が流行り、同化能力の非常に高い少年期に、物語中に生きる疑似体験をする経験が著しく減少した。

必ずしもこれだけが理由ではないとしても、この結果、日本人の心から、向上心や「世のため人のために尽くしたいという気持ち」が減少しているという。

小説一つで世の中が変わるわけではありませんが、明治時代の人々が持っていた素晴らしさを次の世代に伝えることに成功しました。世界に伍していくためには正しい生き方をしなければならない、自分はズルをしないで、みんなのためにがんばっていこう。こんな正しく、まっすぐな気持ちを子供たちに注ぎこむことによって、明治の精神は辛うじて命脈を保つことが出来たのだと思います。

しかし今日のように、いちばん心の柔らかい少年時代にずっとゲームばかりをやっていると、まっすぐな倫理観は伝わりにくい。ゲームで生き方を学ぶのは難しいし、そもそもゲームに人格形成を求めること自体馬鹿げています。ゲーム中心で、倫理観を養ってくれる少年小説などをあまり読まずに少年時代を過ごしてきた世代が、いまではもう二十代、三十代になっています。

この世代に、働く気持ちが薄れているように感じられるのは、たんに偶然ばかりとは思えません。もちろん、その原因を、ゲームに費やす時間が多かったからとばかりは言えないと思いますが、日本人の心の中から向上心が低下しつつあるのは否定しがたい現実です。何かを学び、それを一生懸命生かして、世のため人のために尽くしたいという気持ちが、幼い頃に定着していないのです。

(齋藤孝「代表的日本人」114頁)

ただ楽しく、笑っていれば、それで済むというような生活では、その後が立ちゆたかなくなります。お笑い番組に打ち興じ、ゲームで時間をつぶし、寸暇を惜しんでケータイで友だちと連絡を取り合うということだけで小・中学校時代を過ごしてしまうと、善なる生き方に対して向かい合う姿勢など生まれようもありません。(齋藤孝「代表的日本人」118頁)

その上で、齋藤孝氏は、現在の日本には全体的に「漠然とした不安感」があるが、その不安の根源は、真面目さや向上心を嘲笑する傾向が強くなっていることへの不安にあると指摘するが、これは多くの人々が納得するところではないだろうか。

いま日本全体を覆っているように思える漠然とした不安感は、そんな向上心のない国民ばかりになったら、これからどうなるのだという気分にも根ざしているように思います。その不安は、日本が貧しくてもどうしようもない、ということから来ているのではありません。社会の中に、真面目さやひたむきさを嘲笑し、働く気持ちや向上心といった基本的な姿勢を軽く扱う傾向が強まりつつあることが不安感の根源にあるのです。

日本が経済的に苦しかった昭和20年代には、こんな不安はありませんでした。「働こう」という気持ちが全体にみなぎっていて、この時代は不安感というより、何かをやらなければいけないという気持ちのほうが勝っていました。だから、現代が抱えているような未来への不安感はありませんでした。

確かに、昔と現代を比較すると、少年期の過ごし方が大きく変わっており、その中でも、テレビやゲームに費やす時間は著しく異なる。

齋藤孝氏は、このような現状だからこそ、積極的に、生きる姿勢を学ぶことができる「物語」を読み、物語の主人公としての疑似体験をすべきであると指摘する。

現在は、基本となるモチベーションが落ちてしまっています。そういうときこそ、子供の頃に、世のため人のために生きる気持ちを励ます文学作品や伝記を読み、人はどのように生きるべきなのかを考えることが大切です。今日では、社会が自然な雰囲気として向上心を教えてくれるわけではありません。働く気力の原型を形作るためにも、積極的な工夫が必要なのです。

私は、人間のライフサイクルにおいて最も倫理的な時代は小学生時代だと思います。小学生のときは、いろいろな物事を素直に受け止め、素直に考えられる時代です。その頃にこそ、善とは何か、よりよく生きるとはどういうことなのかを徹底的に教えるべきでしょう。そうして、勇気を持つことが重要だとか、悪を憎む心が重要だとか、友情が大事だということを、人生の基本にまず据えるよう導くべきなのです。(齋藤孝「代表的日本人」116頁)

以上が齋藤孝氏の指摘であるが、ここでのポイントは、単に「~するな」という説教という方法のほか、「物語というスタイルが広く深い教育的効果を発揮することがある・・」という点にある。

他人に配慮できるやさしい人になってほしい、つらいことがあってもくじけず一歩でも半歩でも前に進んで乗り切ってほしい、誇り高く生きてほしい、そのように願う場合、真正面から「説教」をするという方法のほか、「物語」の中を生きる機会を作るという方法があるのである。

嘉納治五郎の物語

それでは、柔道は子どもの生きる力を育むような「物語」をもっているだろうか。

幼くして母を亡くし、成績は優秀ながらも身体が強くなかったため友人からいじめられた嘉納は、強くなりたいという一心で、当時廃れていた柔術という「異界」に足を踏み入れる。

その柔術修行中、嘉納に心技体を授けた師はその役割を終えたように世を去り、嘉納は三つの道場を旅する。この旅の過程で、単に「強くなりたい」というわが身の思いからはじめた嘉納は、この素晴らしいものを世に広げたい、と願う利他的な人間に成長してこの世に還ってくる*1

この世に還ってきた嘉納は、自他共栄の社会を築かんとして、柔道の開発と普及からはじまり、日本の公教育の教師の育成、中国人留学生の教育、オリンピックを通じた体育の振興、道徳の根本原理の探求など、まさしく世のため人のために己を尽くす。

この嘉納治五郎の物語は、生きる力や自律的に活動する力など、人が生きるうえで大切なものを育むだろう。

本稿で検討している「異国の道場で稽古をする」という仕組みは、この嘉納の物語を再現するものである。

参考:第26回 「かわいい子には旅をさせよ。」と「他人の飯を食う。」 – 勇者出処 ~嘉納治五郎の柔道と教育~

読むだけでも効果がある「物語」を体験することができたならば、どれほどの効果があるだろうか。

嘉納の物語がもつ可能性については改めてふれるとして、今回はここまでとし、次回は、これまで見てきた、定義した教育の成果を、今度は、どのような方法で実現したらいいのか、という点をみていきいきたい。

*1:「たまたま」嘉納の師が世を去り、そして、新たな師に出会い異なる流派の柔術を学んだことが柔道を創るきっかけとなった。

※本記事は、2010年8月から酒井重義(judo3.0)によってブログで連載された研究論考「勇者出処~嘉納治五郎の柔道と教育」の再掲です。

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