嘉納治五郎の柔道と教育17 精力善用国民体育
徳育としての体育に関し、最後に、嘉納が、昭和2年(1927年)、数え年68歳のときに考案した精力善用国民体育についてみていきたい。
新しい体育の模索
嘉納は、野球のほか様々な体育を自ら試し、また常日頃新しい体育を考えていたが、嘉納がどのような体育を考えていたかについて、以下のようのエピソードがある。
□島岡浩一郎(明治43年東高師卒業)
(学生の集会に来られたときのお話)
体操といえば手や足を機械的に動かすだけで、その動作に何の意味もない。これでは面白味がない。例えば車を廻せとか、壁を塗れとか、号令をかけてその動作をしたらよいと思う。自分は旅先で、朝起きたとき、この新体操をしたら、傍にいた人が変な顔をして見ていた。云々。
それから、五十余年後の今日ではテレビが意味のある動作による体操をやっている。先生の物の考え方の非凡であったことを示すものである。古い習慣になずまず、一段高い所から物事を考える方であった(加藤仁平・嘉納治五郎231頁)。
□吉田貞雄(明治35年東京高師卒医博理博)
先生は体育についてはあらゆる方法、技術を考案し、実行された。その一つに「ものまね体操」というのがある。重い石を持ち上げる真似、井戸釣瓶を操るまねなど、全身の力を注いでその仕事をするので筋肉の発達に有効である。これはいつでもどこでも出来る。汽車電車の中でも、宿屋でも出来る至便の方法である(加藤仁平・嘉納治五郎230頁)。
精力善用国民体育
その嘉納は、数え年68歳のとき、精力善用国民体育(攻防式国民体育)を考案し発表する。
この精力善用国民体育は、一人でできるパンチやキックなどの当身技の単独練習と、二人が組んで行う「相対練習」によって構成されるものである。
嘉納は、晩年、次のようにこの精力善用国民体育(攻防式国民体育)の普及に努めた(藤堂良明『柔道の歴史と文化』167頁)。
- 昭和2年2月、文部省にて攻防式国民体育を講演、4月、大阪、山陽方面へ旅行、攻防式国民体育の説明講演
- 昭和4年4月、名古屋、大阪、別府、熊本、博多に旅行、攻防式国民体育を講演、5月、海軍兵学校、灘中学校で攻防式国民体育の指導と講演
- 昭和5年2月、前橋、長野、上田、大阪、岐阜方面へ旅行、攻防式国民体育を紹介、8月、講道館文化会『精力善用国民体育』を刊行、11月 東京日々新聞社後援で精力善用国民体育講習会を開催、文部大臣隣席
- 昭和6年、『作興』誌上に「精力善用公民体育に関する本会の期待」を発表
- 昭和7年8月、 ハワイ各地で歓迎を受け、また国民体育の実演と講演
その精力善用国民体育の目的は、概ね三つ、体育、徳育、武術にある。
体育としての精力善用国民体育
第一は、万人が容易く行い得る体育を作り、あまねく人々が健康を増進し体力を旺盛にすることである。
嘉納は理想の体育について次のようにいう。
- 筋肉としても内臓としても、身体を円満均斉に発達せしめて、なるべく危険の伴わないこと
- 運動は一々意味を有し、したがって熟練がこれに伴い、かつその熟練が人生に用をなすものであること
- 単独ででも団体にても出来、老若男女の区別なく実行し得らるること
- 広い場所を要せず、成るべく簡単なる設備で行い得られ、服装の如きも平素のままで行い得らるること
- 時間を定めて行うも、随時零砕の時間を利用して行うも、人々の境遇上及び便宜上自由になし得ること
しかし、この観点からみると、従来の体育は次のような問題を持っていた。
- 競技運動:設備を要する、広い場所を要する、多数の仲間を要するなど実行上障碍が多いうえ、大抵の教義は運動が偏しているので円満均斉なる発達に適しない。
- 武術:元来が攻撃防御の術であるから運動に偏りがある。講道館柔道は種々工夫をしているため他の武術より体育的価値が高いが、しかし、反る運動や手足を伸ばす運動が少なく、道場や稽古衣を要するなど問題がある。
- 体操:動きに意味がないから興味や熟練がなく、続かない。
そこで嘉納は、万人が親しめる体育を作ろうとし、武を軸にした体育(精力善用国民体育)を作り上げた。何故、武を軸にしたか、という点については、人の生活に最も必要である、という判断があってである。
人はよく走ることも必要である。重い物を持ち上げ得ることも願わしい。高くも跳び、広くも跳べることは結構である。しかしそれらに比しいずれが一層必要かと考えて見ると、明らかに危害に遇って己の身を全うし得ることは第一に必要であろうと思う。
自分は悪事をした覚えがなくとも、人間違いで襲われることもあれば強盗や乱暴人に脅迫されることもある。そういう場合に、仮に実力をもって勝ち得るだけの練習は積んでおらなくとも、平素ひととおりの修行をしているのであれば、落ち着いて己の身を処することが出来る。危害に出逢うのは人から襲われる場合ばかりではない。猛獣や狂犬に襲われることもある。また車が転覆することもあれば、高いところから落ちることもある。そういう時平素攻撃防御の練習をしているものであれば、よくその場合場合に処して己の安全を保つことが出来る。そういうわけで実用という点から論じると、第一に攻防式の練習をあげあければならぬ(嘉納・著作集_巻315頁)。
さらに嘉納は、個人の防衛のみならず、国の防衛のためにも国民の武術的鍛錬が有益であると考えていた。
国民が普遍的に武術を心得ていなければならぬというわけは外の機会にもしばしば私が唱えていることであるが、ここにも一応述べてみたいい。
そもそも武という字は、戈と止という二字から組み立てられているように、武ということはあえて争うことではなく、外から侵されないようにすることが本体でなければならぬ。一国に国防が必要であるように、個人にも自己を防衛するだけの用意がなければならぬ。
ある者が己のいう通りにせねば暴力を加えるぞ、というて威したからとて、それに屈するようなことではならぬ。先方が無理で己が正しければ、あくまでも自己の所信を貫き、抵抗もし力争もするだけの意気込みも技術も心得ていなければならぬ。それは女でも男でも同様なわけである。
また一国に常備軍というものは限られた数しかないが、一朝外国と事を構えるようなことが生ずれば、国民はこぞって国のために戦う決心がなければならぬ。そういう場合に平素武術をもって心身を鍛えておらぬものは往々恐れを懐き、国民の義務をも忌避するようなことになる。それ故、武術的鍛錬は平素すべての国民が実行していねばならぬ。
しかるに従来のように武術といえば道場を要し、特別の服装や種々の器具を要するというようなことでは少数の有志者には差支えないとしても、広く国民的に行うことは望み得られぬ。それがもし精力善用国民体育のようなものであれば、実行は容易である広く国民は行う。広く国民が行うから精力善用の精神をあまねく国民に徹底しむることになる。これが国民の精神教育のためにもこの体育が必要な所以である(嘉納・著作集1巻130~131)
徳育としての精力善用国民体育
第二は、徳育、すなわち、精力善用・自他共栄を広く浸透させるためである。
かの体育こそは精力善用自他共栄の精紳を喚起し徹底せしむるに適当なものであると思う。第一かの体育そのものが精力善用の精紳から案出せられたものであるから、かの体育を行い、またそれを味わう時は自ら精力善用という考えが心に浮かんで来て、日常生活においてこの主義の実行を促すようになってくる。従来日々に三省するとはよく人々が口にするところであるが、殊更に三省する機会を作らずとも、この体育を行う時は、すなわち、己の行を省みるということになって来得るのである。
諸外国においても、体育を精神修養の手段として行うことは普通のことであるが、国民精紳を養うためには少数の有志が行う体育ではなく、国民が普遍的に行う体育でなければならぬ。そういう点から考えると、精力善用国民体育程適当なものはない(嘉納・著作集第1巻130頁)
武術としての精力善用国民体育
第三は、柔道の武術としての欠陥を補うためである。
柔道の乱取りが武術として体育としても大なる価値を有することは論に待たぬのであるが、同時にまたいくらかの欠点のあることを認めねばならぬ。武術として乱取の欠点は、当身の練習が欠いていることである(嘉納・著作集1巻278頁)。
第二次大戦後
しかし、この嘉納が苦心して作り上げた精力善用国民体育は、第二次大戦後、武術的色彩が濃いということで行われなくなってしまったという(藤堂良明『柔道の歴史と文化』168頁)。
どのような経緯で実施しなくなったかは現時点で分からないが、日本を占領した連合国占領軍は、武道を禁止し、数年後、日本政府は、柔道は武道ではなくスポーツであるとして学校柔道に復活させた。このとき、精力善用国民体育は、武術的色彩が濃いとして、占領期間中復活させることが出来ず、占領後もそのままになったのだろうか。
あい然たるまなざし
最後に、この精力善用国民体育にかける嘉納の思いが伝わるようなエピソードをもって終わりとしたい。
□山崎英助(米子市)
先生の理想郷は、全世界の人類がいずれも健やかに、各々そのところを得て幸福を味わいうる、仏教でいう極楽の如き世界であった。先生は、酒は禁ずることはいらない。丁度よいだけ、過不足ないだけやればよいのだといわれた。それこそ先生の真の柔道である。先生の伝記を書くものは、単なる柔道の修行法の一部である乱取試合の格闘技の師範と誤記しないよう、無為無心、超然として天地とともにあられた先生の御心持を十分に伝えて、後学万民の良き指導者としてほしい。
御老後、柔技の世界発展の跡を反省して「自分が教えた柔技は、かくもゴツゴツの剛道ではない」と歎かれた。そして精力善用国民体育をお生みになり、これを先ず全国の女子中学校生徒に正課として課し、女性が母としてその子に真の柔道を教え、真の柔道が普及することを最後の一生の事業として全国遊説に立たれた。
ある時、熊本において松岡辰三郎氏をつれて女学生に講習されたことがあった。閉会の言葉として熊本柔連会長福田源蔵五段が、
ニュースをお知らせします。昭和35年10月(ママ)、熊本長六橋にて悪人におそわれし婦人あり。されど実に見事なる態度でその場を処理、皆を感動せしめたり。その婦人につき詳細事情をききたるところ、本人、只今、この嘉納先生の柔道講義受講者某になりき。
との意味の謝辞を述べた。その時の先生のあい然たる御まなざし、今も眼前にある心地がする。然るにこのご指導の中途で御他界、その後これが普及に力をつくすことの余りにも少ないのを悲しむものである(加藤仁平・嘉納治五郎234頁)。
※本記事は、2010年8月から酒井重義(judo3.0)によってブログで連載された研究論考「勇者出処~嘉納治五郎の柔道と教育」の再掲です。