嘉納治五郎の柔道と教育39 これからの地球からみた柔道(通過儀礼~神話と祭り~)(1)

本稿は、柔道の新しい仕組みとして、世界200カ国以上のネットワークを活用し、青少年が異なる地にある道場にいって、その地の人々と稽古と寝食を共にする機会を提案し、これまでその必要性や有益性について「柔道」「教育」「日本」という視点からみたが、今回は最後に「地球」という視点から、具体的には「通過儀礼」という視点からみていきたい。

幸福になる方法

ある門人は、嘉納について、「先生の理想郷は、全世界の人類が いずれも健やかに、各々そのところを得て幸福を味わいうる、仏教でいう極楽の如き世界であった。」と話したが(加藤仁平『嘉納治五郎』234頁)、人はどのようにしたら「各々そのところを得て幸福を味わいうる」ことができるのだろうか。

嘉納はいう。

道徳の最も高い域に進んだ人は、おのれの欲することをすれば、それが他人のためにも、社会のためにも国家のためにも人類のためにもなるのである。善いことをすれば満足する。よしや自己の肉体上の満足を図る場合があっても、それが最も高い精神上の満足を得る手段として必要であるからである。

これに反して、道徳上の最も低い位置にあるものは、自己の欲するところは事ごとに他人の利益を衝突し、社会国家人類の福祉と矛盾する。それゆえに、道徳の高い人は、他のためになること、すなわち徳行することが、自身の満足と一致する。道徳の低い人は、もし道徳を行うとか、正しいことをしようと思えば、絶えず苦痛を感ぜざるを得ぬのである。

この相違が修養の出発点である。(中略)

道徳は、畢竟、他人、社会、国家、人類の自己に対する要求に適応する道であるから、徳性を涵養するとか道徳的の修行をするとかいうことは、不十分なる適応から十分なる適応に進んでいく努力なのである。

嘉納の解は、一つのことを考え行うに際し、自分のためにも他人のためにもなるようになること、つまり、自他共栄を図ることができることである。

道徳の原理を探求した嘉納によると、人は共同生活をしている以上、その社会の存続と発展に適応しなければ、社会から排斥されてしまう。他方、単に他人の要求に従属するようになってしまっては満足を得られない。

したがって、人が「各々そのところを得て幸福を味わいうる」ためには、他のためになることが自分の満足と一致するようような、いわば、孔子のいう「心の欲する所に従って矩を踰えず」のような精神的な発達を遂げ、「他人、社会、国家、人類の自己に対する要求」にうまく適応していくことが必要となる。

経済開発協力機構(OECD)のプロジェク”DeSeCo”の言葉を借りれば、キー・コンピテンシーの核心であるreflectiveness(思慮深さ)を向上させることであり、自他共栄を図ることができる人やreflectiveが十分に向上した人を「大人」と表現するならば、「子ども」から「大人」へと成長することが、この世界で「そのところを得て幸福を味わいうる」道なのである。

「子ども」が「大人」になるシステム

この「子ども」が「大人」に成長するプロセスは個人の幸福に関わるだけではない。教育学者の門脇厚司氏が指摘するように、あらゆる社会的な問題はこのプロセス(「社会化」)の異変から生じる。

このプロセスの異変こそが、いじめ、不登校、退学、無気力、引きこもり、学卒無業者、テレビ依存、薬物依存、リストカット、自殺、売春、児童虐待など様々な問題の根本的な原因であり、逆に、もし、このプロセスを回復させることができれば、これらの問題はもとより、地球環境や貧困や社会的格差、食料問題、紛争などあらゆる問題を解決することができるのである(門脇厚司「社会力を育てる」)。

嘉納は、高等師範学校の校長として徳性の優れた教師の育成に努め、教育大学の設立に奔走、中国からの留学生の学校の校長として留学生を育成、オリンピック委員としてオリンピックの日本への導入を通じた体育の振興、講道館柔道の創設者として柔道を普及、研究者として道徳の原理の探求など様々なことを行ったが、これからはいずれも国内外の「子ども」を「大人」にするシステムの開発強化であったといえる。

これは、例えば、嘉納が中学生向けの教本で、柔道の修行すると自他共栄を図ることができる人(「大人」)になると話していることからも明らかだろう。

人間の本当の生活は、他人にも社会にも国家にも国外の人々にも、妨げをしないで自己の発達を図り、また自己の発達を図りながら、自分以外の人々に出来るだけ多くの利益を与えようとしなければならぬのである。それが人間の生活していくべき道である。そういうと人は、それならどうすれば、それらのことが衝突せず、どこから見ても都合のよい生活の仕方が出来るであろうかと問うであろう。私はそれは柔道という道を徹底的に修行すればよいと答える。

もっとも、嘉納が亡くなって約60年後の平成13年、講道館と全日本柔道連盟は、柔道は人間教育として十分に機能していないのではないか、すなわち、柔道を一生懸命修行しても「大人」にならないのではないか、という危機意識を表明した(柔道ルネッサンス)。

本稿のテーマは、この柔道が人間教育として十分に機能するためにはどうしたらいいだろうか、という点にあるが、この問いは、柔道そのものの問題のほか、「子ども」を「大人」に変えるシステム全般への問いでもある。そこで、まず、「子ども」を「大人」に変えるシステムについてみていきたい。

通過儀礼(イニシエーション)

現代からは想像がつかないが、実は、近代以前の社会(古代社会)には「子ども」を「大人」に変える強力なシステムが存在したという。それが通過儀礼(initiation イニシエーション)である。

通過儀礼(initiation イニシエーション)は多義的な言葉であるが、ここでは、古代社会において「子ども」を「大人」にするために行われた儀礼(成人式、部族加入礼、年齢集団加入礼)をさす。詳細はのちほどふれるが、通過儀礼(イニシエーション)は、概ね、親元を離れ、森の中など日常の世界とは異なる世界にいき(分離)、その異界での共同生活のなかで何らかの試練を経験し(過渡)、帰還して「大人」の仲間入りを果たす(統合)。

宗教学者エリアーデによると、古代社会において、人は、イニシエーションによって「別人」になるほどの精神的な変革を遂げたという。

イニシエーションという語のいちばんひろい意味は、一個の儀礼と口頭教育(oral teachings)群をあらわすが、その目的は、加入せらる人間の宗教的・社会的地位を決定的に変更することである。哲学的に言うなら、イニシエーションは実存条件の根本的変革というに等しい。修練者(novice)はイニシエーションをうける以前に持っていたものとまったくちがったものを授けられる。きびしい試練をのり越えて、まったく「別人」となる。

いろいろのイニシエーションの範疇のなかで、成人式(Puberty Initiation)はとくに前近代人には大切なものと考えられていた。こうした「過渡の儀礼」(“transition rites”)はその部族の全少年に義務づけられている。おとなの仲間入りを許される権利を獲得するためには、少年は一連のイニシエーション的苦業を通過しなければならない。彼がその社会の責任あるメンバーとして認められるのは、これらの儀礼の力によるのであり、またその苦業が課すところの啓示に負うのである。

イニシエーションは志願者(candidate)を人間社会に、そして精神的・文化的価値の世界に導き入れる。彼はおとなの行動の型や、技術と慣例(制度)を習得するだけでなく、またその部族の聖なる神話と伝承、神々の名や、神々の働きについての物語を学ぶ。何よりも、彼はその部族と超自然者との間に、天地開闢のときの始めにあたって樹立された神秘的な関係について知らされるのである。(エリアーデ「生と再生」4~5頁)。

このように古代社会では、「子ども」を「大人」に変えてしまう強力なシステムがあった。イニシエーションをクリアすることができれば、「子ども」は誰でも「大人」になることができたのである(もっとも、イニシエーションをクリアできないと殺されたりした)。

近代の「子ども」を「大人」にするシステム

近代の特色はこのイニシエーションを失った点にあるが、では、近代において、「子ども」を「大人」に変えるシステムとは何だろうか。

非常に大雑把にいうと、近代の特徴は、国家による教育制度「学校」をつくり、子どもに対し、大人になるための猶予期間、様々な試行錯誤ができる期間、「青年期」「モラトリアム期」を与えた点にあるといえる。

つまり、古代社会であれば、ある年齢になったら全員を強制的に「大人」にすることができたが、近代は社会が複雑化し、それも困難になった。そこで、学校にいく機会を皆に与え、大人になる時期を猶予するので(働かないでいい期間を付与する)、その猶予期間の間に各人がいろいろ試して、各自「自己責任」で大人になってください、ということになったのである。

もちろん、「学校」は「子ども」を「大人」に発達するよう支援しているが、経済開発協力機構のプロジェクトDeSeCoが指摘するように、現在の学校教育は、総じて、知識や情報処理能力などの認知的要素の開発に偏り、態度、感情、価値観、倫理、モチベーションといった非認知的要素の開発はおざなりになっている。つまり、「子ども」を「大人」にするシステムとしては十分に機能していない。

この点は、例えば、文部科学省が、日本の教育の本当の危機として、(1)学びに対する興味関心の希薄さ、(2)将来との関連性の見えないままでの学び、(3)受験終了後に剥落する「知」の危険をあげ、キャリア教育を推進していることからも明らかだろう。キャリア教育:文部科学省

個人的なイニシエーション

このように近代はイニシエーションを失い、それに代わる十分なシステムをもたない時代となった。この結果、充分な社会適応ができる人、そうではない人が生まれることになったが、それでは、イニシエーションのない時代において、人はどうやって大人になるのだろうか。

心理療法家の河合隼雄氏は「各人はそれぞれのイニシエーションを自前で自作自演しなくてはならなくなった。」という。

制度としてのイニシエーションは、近代社会において消滅した。しかし、人間の内的体験としてのイニシエーションの必要性は無くなったわけではない。ここに現代人の生き方の問題が生じてくる。子どもが大人になるということは実に大変なことだ。だからこそ、古代においては社会をあげてそれに取り組み、それぞれの社会や集団が、それにふさわしいイニシエーションの儀礼や制度を確立してきた。それを無くしてしまったのだから、個人に対する負担は大変重くなった。言うなれば、各人はそれぞれのイニシエーションを自前で自作自演しなくてはならなくなった。

しかしながら、現代人の多くは近代の流れのなかにそのまま生きていて、イニシエーションの制度のみならず、イニシエーションそのものも「迷信」として否定してしまっている。意識的に拒否していても、人間存在に根ざすイニシエーションの必要性は、無意識の働きとして生じてくる。そのとき両者の乖離があまりに著しいと、いわゆる「問題行動」としてそれが露呈されてくる。かくて、心理療法家のもとに訪れてくる、あるいは連れられて来られる人たちの多くが、イニシエーションの成就を目指しての仕事をわれわれと共にすることになる。(「講座心理療法1 心理療法とイニシエーション」9頁)

「子どもが大人になるということは実に大変なこと」であり、だからこそ、古代社会では「社会をあげてそれに取り組」んでいた。人の意識に変容をもたらすこと、さらにその変容がその人にも社会にも望ましい形にすることは非常に難しい。古代社会では、大人が協力して子どもの意識の変革をもたらさなければ、人はいつまでも社会に適応できない、ということが常識だったのである。

ところが、近代はこのイニシエーションを失った。しかし、社会に適応するために意識を変革する必要性は変わらない。したがって、結局、人は自己責任で意識の変革を行わなければならない。「自作自演」でイニシエーションを行わなければならなくなったのである。

例えば、河合隼雄氏は次のような例を挙げる。

ある大学1年生の学生が大学にいかなくなった。人前に出るのが何となく怖い、人の中にいると落ち着かない、不安になる、という状態で、父親からは学校にいけ、と叱責される。あるとき担任の先生に「退学したい」と相談したところ、勉強する気がないものはさっさとやめるべき、と言われた。もっと同情されるかと思ったところ冷たく言われ、退学しても働ける見込みもなかったことから自殺しようと決意する。しかし、ふとしたきっかけで死ぬことがばからしくなり、父親や担任の先生を見返してやろうと思い、大学に行き授業を受けるようになる。期末のテストを無事乗り切ったところ、いつのまにか、人前に出るのが怖い、とか人の中にいると不安になるという症状が軽減されていた。

この学生は一度は死のうと思い、しかしそこから立ち上がり勉強を頑張ったところ、対人恐怖症的な症状は消えていたのであるが、つまり、この学生は、死を感じるような試練を体験し、試練を乗り越えた結果、精神的な発達を遂げた。古代は制度として万人にこのような試練を課し精神的発達を支援していたが、近代は、この学生のようにたまたま個人的に経験するしかなくなったのである。

近代社会になって、制度としてのイニシエーションは消滅してしまった。しかしながら、個人の生き方をよく注意して観察してみると、現代人においても、個々人にとっては、大人になるためのイニシーエーション儀礼とでもいうべきことが、個人として生じていることがわかってきたのである。たとえば、既にあげた対人恐怖症の大学生の例について考えてみよう。彼が大学の担任教師に退学を賛成され、自殺しようと決意し、その後にやはり頑張ってみようと思い直す過程は、彼にとって個人としてのイニシエーション儀礼の体験をしたといえないだろうか。それは未開社会における修練者が体験する「実存条件の根本的変革」とまではいえないにしても、ある種の「死と再生」の体験をしたということができる。このことは、彼個人にとってのイニシエーションの儀式であったのである。河合隼雄「大人になることのむずかしさ」65頁)。

 

無意識的なイニシエーションへの欲求

それでは、このような個人的なイニシエーションは多くの人々にとって本当に必要なものなのだろうか。イニシエーションを経ずに大人になることはできないのだろうか。

河合隼雄氏は次のようにいう。

・・このように考えて人間の成長過程を見ていると、つまずきの必然性、あるいは必要性などということさえ主張したくなる。人間の成長につまづきはつきものだと考えるのである。確かに、外から見ていると、何のつまずきもなく成長してゆくように見える人がある。しかし、よく確かめてみると、それ相応のつまずきを体験しているものである。それが内面的な過程であったり、小出しに継続的に続いていたりして、他人の目に見えないだけのことである。私は職業上、多くの人の秘密の話を聞く機会が多いので、ますますこのように思わされるのである。他人から見て何の苦労もなく大人になっているように見える人でも、よく話をきくとそうではないことが多い。(河合隼雄「大人になることのむずかしさ」36頁)

ここでポイントになってくる点は、「意識的に拒否していても、人間存在に根ざすイニシエーションの必要性は、無意識の働きとして生じてくる。」ということ、つまり、人は無意識的にイニシエーションを求めているという点である。

文芸におけるイニシエーション

この点、エリアーデは、多くの人々がイニシエーションの構造をもつ小説や映画が消費していることはイニシエーションを無意識に求めていることの証左だという。

例えば、著名な映画では、オードリー・ヘップバーンの『ローマの休日』(城を抜け出した王女アンが新聞記者ジョーとの切ないひと時を過ごしたのち、王女としての精神的成長をとげて帰還する)、スティーブン・キング原作の『スダンドバイミー』(死体探しの旅にでた少年たちが様々な冒険をして精神的に成長して帰還する)、宮崎駿の『千と千尋の神隠し』(少女千尋が異界に迷い込そこでの冒険を通じて成長し帰還する)がイニシエーションの構造をもっている。

・・昔話の主人公の試練や冒険がほとんど例外なく加入礼的用語で翻訳できることは否定できない。これこそが最も重要なもののように思えるのだ。昔話が今あるような形になったとき―これは特定のむずかしい問題だが―未開たると文明化されたとを問わず、人びとはよろこんで何回も何回もくりかえし聞いて飽きなかった。このことは加入礼的筋書きが、昔話のようにカモフラージュされてしまっても、人間の最深部の欲求に答える心理劇的表現であるからだといってもよい。だれでも何か危険な状況を体験し、またとないような試練に直面し、他界へ困難を排して進み入ろうと考えている―そして昔話を聞いたり読んだりすることで、想像の世界で、あるいは夢の世界で、これらを経験しようとするのだ。(エリアーデ「生と再生」252頁)

心理療法におけるイニシエーション

さらに、人の心の変容を取り扱う心理療法において、イニシエーションというモデルを用いていることもまた、人が無意識にイニシエーションを求めていることの証左であるという。

エリアーデは次のようにいうが、

ある見方からすると、精神分析は加入礼の非聖化形態とも見なしうる。つまり非聖化の世界へ近づこうとする加入礼である。しかし加入礼のもつ類型はここにも認められる。すなわち、心性の深層に下降すること、怪物とともに住むことは地下界への下降にひとしい。こうした下降に内包される真の危険は、例えば、伝承社会の典型的な試練と結びつけうる。うまくいった分析の結果は、人格の統合であるが、この心理過程は加入礼にともなう精神的変革に似なくもない(エリアーデ「生と再生」263頁)

心理療法家のユングやヘンダーソンは、心理療法における心の変容とイニシエーションにおける心理の変容が類似している点を見出し、イニシエーションというモデルによって心の変容が理解できることを示した。

(橋本 朋広「心理療法におけるイニシエーション・モデルの検討」CiNii 論文 –  心理療法におけるイニシエーション・モデルの検討

例えば、これまで問題行動を起こしたことのないような子どもが突然万引きをした。本人に理由をきいても、本人は何とも言わない。このようなとき、ユング派の心理療法家の河合隼雄は「原因」ではなく「意味」を問うべきという。

つまり、「原因」を考えると、本人の意思が弱かったからだ、父親が仕事で多忙で不在がちだったからだ、母親の育て方が悪かった、学校の先生が悪かったのだ、など様々考えられるが、結局、悪者さがしになってしまい、問題は解決されない。

しかし、「万引きをした」ということはどういう「意味」を持つのか、と考えたらどうだろうか。

このとき役に立つのがイニシエーション・モデルである。つまり、子どもは、イニシエーションをもとめ、その欲求が満たされないため「問題行動」として現れたのではないか、大人になるための精神的成長のため、日常の世界から抜け出し、試練を経験しようとして「万引き」したのではないか、という理解である。このように捉えると、はるかに建設的に考えることができる。

「異常」あるいは「病的」などというレッテルを容易に貼られそうな行動に対して、それがイニシエーションという人間の成長において必要な行為の一部として解釈されるとき、それは「意味」あるものとして本人にも、それを取り巻く人たちにも受けとめられる。それは時に長い道程であるにしても、イニシエーションの段階として知られている、分離・過渡・統合の過程を踏みしめてゆくことになる。(「講座心理療法1 心理療法とイニシエーション」10頁)

もちろん、このようなイニシエーション・モデルだけで問題行動がすべて説明され、解決されるわけではないが(実際、河合隼雄氏も、分離・過渡・統合というイニシエーションのプロセスにおいて、過渡において過渡で終わるという覚悟が必要と指摘する)、イニシエーションというモデルがカウンセリングで有益であることは、人が無意識的にイニシエーションを求めていることを表しているように思われる。

現代の課題

以上、非常におおざっぱであるが、古代社会には「子ども」を「大人」に変える強力なシステム「イニシエーション(通過儀礼」)があったこと、現代の問題は「子ども」を「大人」に変えるシステムの機能不全に起因すること、そして、人は今なおイニシエーションを求めていることをみた。

とすれば、である。

現代の課題とは、現代という時代に即した形でイニシエーションを再び創り出だすことにあるのではないだろうか。つまり、嘉納が求めた「各々そのところを得て幸福を味わいうる、仏教でいう極楽の如き世界」をもたらすためには、各人が自前で自作自演しなくてはならなくなったイニシエーションを、現代に即した形で、再び社会が、大人が協力して作りだし、「子ども」たちに提供することではないだろうか。実は、このような視点から柔道をみると、広大な視野が開かれてくるのである。

もっとも、この点に後ほどふれることにし、まず、そもそもイニシエーションとは何か、どのようにして人を「別人」のように変えるのか、そして、何故、近代はそれを失ったのか、を見ていきたい。近代はそれ相当の理由があってイニシエーションを失ったのである。

※本記事は、2010年8月から酒井重義(judo3.0)によってブログで連載された研究論考「勇者出処~嘉納治五郎の柔道と教育」の再掲です。

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