なぜ兵庫少年こだま会は生徒を増やすことができたのか?
こんにちは!3.0マガジン編集部です。国内の柔道人口が急激に減少していると言われているなか、100名以上の生徒が集う少年柔道クラブがあります。橋本優貴選手、阿部一二三選手や阿部詩選手の出身道場でもある「兵庫少年こだま会」。その兵庫少年こだま会の監督である高田幸博先生にお話を伺ったところ、高田先生が指導をはじめた数十年前はわずか数名だったそう。では、どのような取り組みを実施して100名を超えるクラブに成長することができたのでしょうか?
高田先生は、約4年前に、これからの指導者の参考になったらと考え、その経験を兵庫少年こだま会のフェイスブックページにて連載されました(2013年10月~12月)。以下、高田先生のご厚意により、全120話にも及ぶ連載のうち、会員増加に関する記事(第11話から第21話)を再掲させていただきます。
兵庫少年こだま会の会員増加の経緯
兵庫少年こだま会監督 高田幸博
第12話:会員増加の経緯・その1
こだま会の会員は、どのようにして増えていったのか…?今回からしばらくの間、このテーマで特集を企画します。
高田監督が既存の「兵庫少年こだま会」で指導を開始した昭和62年の秋(第1話、第7話参照)は、小学生会員の数は10名にも満たず、普段の練習の参加人数は、5~6名程度で、雨が降れば1名ということもあり、保護者が道場に訪れるということは皆無でした。しかし、指導員の数だけは豊富で8名おり、全員が非番の警察官でした。
当初は、先輩指導員が作成した、練習日ごとの担当パターン表の通り、交代で道場に足を運ぶだけでした。個性も指導方針もバラバラの各指導員が、計画性も方向性も示さずに、ただ、その日暮らしのように道場に出没し、中には自分の乱取りだけをやり、何も指導せずに帰ってしまう先輩もいました。
また、気に入らないことがあると、やたらスパルタ式になる先輩もいて、当時は許された?体罰を常習的に敢行し、怖がって「柔道やめます」という子が続出したので、高田監督がその先輩と話し合ったところ、
「やる気のない子は、やめたらええんや。それで誰もいなくなっても構わん!」
と言う始末…。
この時、高田監督の中に眠っていた「少年柔道指導欲」の魂が爆発し、
「先輩の言いなりになるのは今日限り!」
「こだま会の実権を握るため、自分の色に染めていく」
と決心し、まず実践したことは、1時間半だった練習時間を2時間に延長、そして、道場が空いている限り、練習日も増加させました。すると先輩指導員達は、
「そこまでやる気は無い」
「お前に任す」
等と言い残し、ひとり、また一人と次々にこだま会を去って行きました。
こうして高田監督はチームのトップに立ったのですが、すぐに子どもの数が増えた訳ではありませんでした。
・・・つづく
第13話 会員増加の経緯・その2
時代は、まだ昭和の頃、こだま会の小学生は総勢8名程度で、「ゼロ」の学年もあり、団体戦出場辞退やむなしという状態でした。「道場に練習に来る子を強くすること」しか考えていない先輩指導員を尻目に、高田監督は、「人数を増やさないことには、どうしようもない」という思いを抱いていました。
高田監督がまず取り組んだのは、現会員を絶対にやめさせないこと、そして、先輩いわく
「長い間、無断欠席しているから、やめたんとちゃうか?」
という○○くんや△△ちゃんを復活させることでした。とは言っても、facebookはもちろんのこと、携帯電話もメールも無く、自宅電話でも、留守番電話機能がある家庭が少ないという時代に、自然退会した子どもの保護者と話し合うことは困難でした。
そこで高田監督が実行したのが、「手紙作戦」でした。練習に来なくなった理由については一切、追及せずにこだま会の実権を新しく握った高田監督の指導方針をていねいに丁寧に、愛情を込めて綴っていきました。まるで、ラブレターのように・・・
すると、3か月休んでいた、3兄弟(5年男子、3年男子、1年女子)が、笑顔で練習に来てくれたのです!
・・・つづく
第14話 会員増加の経緯・その3
さて、「手紙作戦」(第13話参照)によって、ようやく10名を超えたのですが、現会員がやめてしまっては元も子もありません。そのために高田監督が起こした行動とは・・・?
まず、子ども達とのコミュニケーションを深めるために、全員に声かけ・会話をすることから始めました。それも、出来る限り練習が始まる前に、
「今日も来てくれて、ありがとう!」
「すごくやる気がありそうだね!」
「この前、痛いって言っていた所は大丈夫?」
・・・etc. そのために高田監督は、道場に一番先に顔を出すことを心掛けました。
練習中に、全員と話をしたかどうかチェックして、まだ一言も話をしていない子がいれば、その子の良い所を見つけてほめてあげます。すると、それまで休みがちだった子が、喜んで練習に来るようになったり、無口だった子が、自分から高田監督に話しかけるようになったり、目に見えて効果が現れてきたのです。
このようにして、子ども達の目が輝き始め、徐々に練習が活気づいてきたのですが、道場に保護者が誰一人として全く来ない状況は、まだまだ続いていました。次回は、保護者とのコミュニケーションをテーマにする予定です。
・・・つづく
第15話 会員増加の経緯・その4
柔道に限らず、少年の活動を活発にするためには、指導者の熱意、子どものやる気、保護者の協力、の三要素が重要であると言われていますが、昭和の時代のこだま会は、高田監督が知る限り、全くと言って良いほど、保護者の協力がありませんでした。それもそのはず、普段の練習には、誰一人として保護者が来ることが無かったからです。年に3~4回の公式試合には?というと、何せ顔がわからないし、話しかけてくる人もいないので、来ていたのかどうかさえ、わからない状態でした。
こだま会の実権を握ったばかりの高田監督(第12話参照) は、この状況を打開するため、ある大会の途中で出場している子ども達に、
「今日、お父さんか、お母さんは、来ているのか?」
と聞いてみると、何人かの保護者が応援に来ていたので、高田監督が一人ひとりに挨拶をしたうえで、
「こだま会をもっと盛り上げていきたいので、お忙しいことと思いますが、ご都合の良い時があれば、道場に来て頂けませんか?」
と直訴して回りました。すると、意外な答えが返って来たのです。
「えっ?!道場に練習を見に行ってもいいんですか?」
「どなたもいらっしゃらないので、練習を見てはいけないものだと思っていました。」
「夜は暇なので、これから練習を見に行かせてもらいます!」…etc.
保護者の協力が無いのではなく、指導者側が働きかけないから、知らぬ間に負の連鎖が出来上がってしまっていたのです。これをきっかけに、高田監督は、保護者とのコミュニケーションを積極的に取るため、手紙のみならず、電話や時には家庭訪問までして、協力を要請し、気兼ね無く練習を見に来ることが出来る雰囲気を作り上げていきました。
それによって、保護者同士の交流が自然に芽生えていくことにもなり、その後の会員増加に最も比重が大きい保護者のクチコミへとつながっていったのです。
…つづく
第16話 会員増加の経緯・その5
小学生の人数が、ひとケタだったこだま会が会員増加に向けての、これまでの話を要約しますと、
- ①高田監督がこだま会の実権を握る(第12話参照)
- ②手紙作戦による長期欠席会員の復活(第13話参照)
- ③ひとり一人への声かけを全員に徹底(第14話参照)
- ④保護者を道場に招致する働きかけ(第15話参照)
という流れになります。※以前の話を、まだ閲覧されていない方は、ぜひ御覧ください。また、閲覧の方法がわからない方は、コメント・メッセージなどをお寄せ頂きましたら、ダイレクトに送信致します。
さて、このような下地を作ったうえで、高田監督は実質的に会員を増加させるために、どのようなアクションを起こしたのか?
年齢は20歳台半ば、指導経験も乏しかった高田監督が思いついたのは、ありふれた「チラシ配り」でした。高田監督が“ワープロ”で作成してコピーしただけの、白黒の殺風景な会員募集チラシ・・・、これを、付近の公園で遊んでいる小学生に、なりふり構わず配り回りました。その数、1週間で30枚、・・・すると、そのチラシを見た保護者から電話が入り、
「5年生の息子が、チラシをもらって来ましたが、ちょうど何か武道をさせたいと思っていましたので、3年生の弟と2人で入会します。」
結局、チラシによる純入会者は、この2人だけでしたが、それだけでは終わらず、うれしいサプライズがあったのです。
・・・つづく
第17話 会員増加の経緯・その6
「チラシ作戦」によるサプライズ・・・チラシ1枚で2人が入会、それだけでも嬉しいことですが、これがこだま会の行く先の運命を良い方向に、変えていく出来事になりました。
高田監督は、兄だけが遊んでいる時にチラシを渡したので、入会当日に初めて出会うことになった弟のTくんが、かなりのセンスの持ち主で、初心者にもかかわらず、ほとんど教えなくてもすぐに上手な背負い投げをマスターしました。
実は、高田監督自身が背負い投げが不得手で、実演指導ができなかったこともあり、それまでのこだま会で背負い投げができる選手は、誰もいませんでした。しかし、Tくんを発端としてその後、背負い投げの名手がどんどん増えていき、背負い投げを得意技として、大きな試合で活躍する選手も出てくるようになっていったのです。
そんな大切なきっかけを作ってくれたТくんですが、こだま会入会に関して、あっと驚く逸話がありました。
・・・つづく
第18話 会員増加の経緯・その7
まるで黒船来襲・ペリーのように、こだま会に背負い投げを導入したTくんに隠された逸話(エピソード)とは?
Tくんの保護者がチラシを見て、高田監督に入会希望の電話をした時、
「ちょうど何か武道をさせたいと思っていました」
と言っていましたが、実はTくんは、兄がチラシをもらわなければ、空手をやろうと思っていたのだそうです。つまり、高田監督が「チラシ作戦」を実行していなければ、こだま会ではその後も誰も背負い投げができる選手が生まれないままだった可能性もある訳です。
そうなるとこの話は、こだま会の選手強化の歴史の岐路であったと言っても過言ではありません。しかも、チラシ1枚のサプライズは、それだけでは止まらず、Tくんの父親の知人の中に、こだま会の卒業生がおり、
「柔道経験の無い親の息子が柔道を始めるのなら、当然、自分の息子にも柔道をさせる」
と、間もなく入会してくれたのです。このように一粒の小さい種をまくことが、 やがて芽を出し、枝が伸び、大きな花を咲かせることもある。そして花が散り(こだま会卒業)、その花自身が新しい種をまいてくれるということを経験した高田監督は、
「会員勧誘とは、その子の素質・やる気だけを見て個別に判断するのではなく、今は見えていないあらゆる可能性を含めて好意的に進めて行くものである。」
との信念を持ち、その後も様々な作戦・施策を講じたのでした。
・・・つづく
第19話 会員増加の経緯・その8
「手紙作戦」「チラシ作戦」等により、徐々に会員の数が増えてきたのですが、高田監督の次なる作戦とは・・・
“ここに少年柔道チームがある”ということを近辺に周知させるために
柔道着での集団デモンストレーション
を活発に繰り広げたのです。
道場前の道路で、整列・人員点呼・指示伝達を、できるだけ目立つようにやりました。さらに、ジョギング・山登り・公園でのトレーニング等を、高田監督自身も、子ども達もすべて柔道着のまま決行したのです。
すると、
「あっ、近くで柔道やってるところがあるんや。」
「うちも子どもに柔道させてみたい」
という声をチラホラ聞くようになり、実際にこれを見たから入会したい、という子も現れました。
また、試合・行事等、どこに行くのにもバスをチャーターして集団移動し、前面窓には「少年“柔道”こだま会」の文字を貼り付けて、走る広告塔として、東奔西走しました。なにしろ、メールもインターネットも普及していない時代ですから、宣伝になるようなことなら、とにかく何でもやりました。
そして、最大級の宣伝方法として、高田監督が挑戦したこととは・・・?
・・・つづく
第20話 会員増加の経緯・その9
最大級の宣伝方法として、高田監督が挑戦したこととは…?
テレビ出演
でした。
神戸の地方局のサン・テレビで、少年スポーツにスポットを当てた連続番組があり、大きな大会前には、少年柔道が取り上げられていたのです。しかし、テーマになるのは当時、全国的に名を馳せていた「S少年柔道クラブ」を始め、強豪チームばかり…、いつも1回戦負けだった「兵庫少年こだま会」に声がかかるはずなどありません。
そこで高田監督は、出演希望の手紙を局宛てに出しましたが返事がないので、直訴するために電話をかけたところ、
「出演の約束は出来ないが、道場まで打ち合わせに行く」
との回答…。
このチャンスを逃してなるものかと、必死に考えた結果、
「学習塾と柔道を掛け持ちして、文武両道を目指す姉弟が高田監督指導のもと、大会初勝利を目指す」
というドキュメンタリー形式で取材してもらえることになりました。
姉弟が塾へ行く途中に、高田監督の職場を訪れて感謝の花束を手渡すシーンもあり、NG無く進んだのですが、いざ大会となると筋書き通りにはいきません。応援に会場まで来ていた両親の願いも叶わず、健闘虚しく二人とも敗れ、こだま会はまたもや初戦敗退…
しかし、その直後、筋書きの無いドラマが…
試合後のインタビューを受けた姉弟は、最初は気丈に話していたものの、
「応援に来てくれたご両親に何か一言を」
と言われた時、その目からは本物の涙がキラリ…。
そして「今度こそ絶対に勝つ」と約束してくれました。
それを聞いた両親の目からも涙が…。
予想以上に良い内容になったと、局のディレクターから感謝され、1時間番組のうち、約半分が、こだま会の特集となりました。この番組を見て、新たにこだま会の門を叩いた小学生がいたことは、言うまでもありません。次回で会員増加の経緯は、最終回とします。
第21話 会員増加の経緯・その10[最終回]
テレビ出演(第20話参照)という最大の宣伝方法をも経験した高田監督は会員増加のためなら、思いついたことを臆することなく、次々と実践していきました。
知名度も低く、兵庫県外に至っては全くの無名(当時の試合は県内のみ・合同練習は皆無)であったのを、こだま会の名を広く周知してもらうため、まずは公式試合の大会プログラムに広告掲載しました。
高田監督の出身高校の卒業生名簿にも、指導風景の写真付きで掲載したところ、それを見て遠方から入会してくれました。その他、年賀状や暑中見舞での勧誘や、中学・高校の大会会場で、小学生の弟や妹がいないか聞き回ったり、先生方に名刺を配り回ったり、体格のいい子や素質のありそうな子に目をつけるのではなく、とにかく一人でも多く入会してもらうために、可能な限り何でもやりました。
大会の結果も出始めた平成6年には小学生50名を突破しましたが、その翌年の「※阪神淡路大震災」により、一気に25名に激減、とても柔道どころではない厳しい状況から苦難を乗り越え、こだま会は高田監督と共に生き続けました。
震災で本拠地を失ったため、警察署に問い合わせがあった場合に、高田監督に伝わるようなシステムの構築や、それを機に当時まだ高価であった携帯電話の活用に踏み切ったことにより、不死鳥のごとく蘇り、3年後に再建された道場は66畳でしたが、高田監督は「100人をめざす」と公言しました。
小学生にまで「増え過ぎたら教えるの無理や」とささやかれましたが、高田監督は「命を賭けても、やってやる!」と意欲を強烈にアピールして理解を求め、平成18年には99名に達しました。
その後は、やや減少傾向になるも、インターネットへの掲載により、70~80名を維持しておりました。
ところが、平成23年頃から、「柔道は危険なスポーツ」とマスコミが過熱報道したこと、さらに「暴力問題」等の噴出による柔道人気の凋落により会員は50数名に減少、平成25年の1月~3月には新規入会者ゼロという、今までに経験したことのない事態に・・・
このピンチに高田監督の策は、なんと「子宝神社への願かけ」・・・
今までの苦労を神様が見ていてくれたのか、これが本当に御利益があり、70名超にまで回復しました。
とは言うものの、今も昔も一番大切なのは「保護者の口コミ」です。そのために高田監督は、初心を忘れず、自らを厳しく律し続けることにより、信頼関係を築く努力を怠ってはならないと再認識するのでした・・・
【会員増加の経緯】これにて・・・【完】
(追録)第11話 近況
本日は、こだま会の練習は休みでしたが、高田監督の携帯に「入会希望」の問い合わせの嬉しい電話がありました。2学期に入ってから、すでに5人が新規入会し、さらに先日の練習日には、1日でなんと3家族5人の入会希望者が見学に来ました。柔道界を取り巻く諸問題が昨今のマスコミを賑わし、底辺とも言える少年柔道の人気が急落していましたが、ここに来てようやく持ち直してきた実感があり、小学生以下70人を、再びキープできる状態に戻ってきました。
しかし、見学に来てくれたからと言って、必ずしも入会してくれるとは限りません。小学生以下だけで90~100人を数えていた、「入会バブル」の頃は、黙っていても次から次へと子どもが増えていきましたが、最近の「氷河期」では、高田監督による充分な説明・案内が、入会の可否の大きな決め手となっています。
その説明・案内とは・・・
まず、第一印象が最も大切であるため、時間の許す限り、練習直前に入浴します。不可能な場合でも最低限、髭を剃って洗顔します。そして、いつ入会希望者が来訪してもいいように、たとえ指導中であっても、決して面倒くさがったりせず、歓迎していることが伝わる態度が取れるように、道場に入る前に精神統一します。
また、一方的な説明にならないように、保護者からの質問・要望・意見を引き出すことに重点を置きます。低学年・幼児の場合は、同い年の子を呼んで、柔道の魅力を語らせます。女子には女子に、「柔道を習って良かった!」と、言わせます。
高学年の乱取りを見て、圧倒されて敬遠しないように、「一生懸命やっていれば、投げられても、負けても、怒らないし、絶対に叩いたりしない。」ことを強調します。
入会すると明言を避けて帰る人の場合にも、道場の出入りの際の一礼だけは覚えてもらい、礼儀重視の方針であることを体感してもらいます。・・・など等、etc.・・・です。
先日は、5人の入会希望者に対して、誠心誠意の「お・も・て・な・し」をするため、練習の進行をほとんどキャプテンに任せ、高田監督は、2時間の練習時間のうち、1時間以上をその説明・案内に費やしました。全員の練習をもっと見てやりたい・・・、という葛藤もあるのですが、過去に対応が不充分であったために、
「いつになったら、ちゃんと説明してくれるんですか!」
と、気分を害して途中で帰られてしまった苦い経験を二度と繰り返さないように、高田監督は今日も次の練習日に来るであろう見学者に配布する案内プリントの整理、説明内容の予行演習に余念がありませんでした・・・。
高田 幸博
たかた・ゆきひろ 神戸市垂水区出身。星陵高、関大を経て兵庫県警に入り、27歳で兵庫少年こだま会の監督に就任。阪神淡路大震災で被災し、行方が分からない生徒を探し回ったというそのご経験については、神戸新聞の特集記事「疾走20年いつも胸に 大震災とスポーツ人(5)柔道・兵庫少年こだま会監督 人とのつながり 第一に」を参照。
※本記事は2013年10月から12月にかけて兵庫少年こだま会のフェイスブックページに連載された記事の再掲となります(写真は高田先生よりご提供いただきました)。こだま会のフェイスブックページはこちら。最新の情報が常時アップされています。