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嘉納治五郎の柔道と教育29 これからの教育からみた柔道(1)

本稿が検討している仕組みは、次のような経験を多くの人々に、特に青少年に提供することである。

  • 異なる地にある道場(国外・国内問わず)にいって、その地の先生の指導を受け、その地の仲間たちとともに稽古をすること、
  • そして、可能であれば関係者宅にホームステイをさせていただき、稽古している期間、その地で生活すること、

「何故、この仕組みが必要か?」という点について、前回は「柔道」という視点からみたが、今回は「教育」という視点からみていきたい。

成果を定義すること

現在、日本の柔道人口は減少しているという。筆者は、日本をよく訪れる海外の指導者から「日本から柔道がなくなってしまうのではない。」という不安の声を聞いた。仮に柔道人口の減少が本当であれば、何故、人々は柔道から離れていっているのだろうか。

様々な原因が考えられるが、嘉納の著書を開くと、「柔道の修行が単に技術の末に流れて修養方面のことを閑却するに至れば、世人は柔道を重んじなくなってしまう」という嘉納の言葉が重く響いてくる。

柔道の修行が単に技術の末に流れて修養方面のことを閑却するに至れば、世人は柔道を重んじなくなってしまう。柔道の教員も技術ばかりを教えて人間を造ることに留意しなければ、生徒からも父兄からも軽んぜられるようになってもやむを得ない。(嘉納・著作集2巻277頁)

(参考):第25回 特殊の人の柔道から国民の柔道へ。 – 勇者出処 ~嘉納治五郎の柔道と教育~

「ややもすると勝ち負けのみに拘泥しがちな昨今の柔道の在り方を憂慮し、’師範の理想とした人間教育’を目指して、合同プロジェクト「柔道ルネッサンス」を立ち上げます。」と宣言し、各地で柔道ルネッサンスを進めている柔道の先生は、おそらくこの嘉納の危機感を共有しているのだろう。

嘉納によれば、人間教育として柔道が十分に機能しなければ柔道が廃れていくのであり、逆にいえば、人間教育として柔道が十分に機能すれば盛んになっていくのである。

それでは、柔道が人間教育として十分な成果をあげるためには一体どうしたらいいのだろうか。

これが本稿の問いである。

本稿は、ドラッカーの指摘を参考に、十分な「成果」をあげるためには、まず「成果」を適切に定義しなければならない、という切り口から検討してきた。

(参考):第1回 柔道は「良い子」を育てるか。 – 勇者出処 ~嘉納治五郎の柔道と教育~

当たり前のような話であるが、実は「成果」の定義は非常に難しい。なぜなら、教育の成果を定義すること、すなわち、「どのような人間を育成するか」を考えることは、

  • 「どのような人間になれば、いい人生を送ることができるのか?」
  • 「どのような人間であれば、いい社会を作ることができるか?」
  • 「いい人生とは?、人の成功や幸福とは一体何なのか?、いい社会とはどういう社会なのか。」

という問いと向かいあうことだからである。この問いに解を出さなければ、教育の成果を定義することができない。だからこそ、嘉納は、「精力善用・自他共栄」という解を出すまでに、40年以上の歳月を必要としたのである。

(参考):第4回 将来臍を噛んでも取返しのつかぬようなことに立至る。 – 勇者出処 ~嘉納治五郎の柔道と教育~

話が少し脇にそれるが、一応確認しておくと、「精力善用・自他共栄」とは、「柔道教育」という限られた分野における成果の定義ではない。人と社会の普遍的な「原理」であり、万人に対する教育(普通教育)における成果の定義である。

(参考):第8回 おのれ自身の我儘を抑えて他のために尽くし得る力を養う。 – 勇者出処 ~嘉納治五郎の柔道と教育~

また当然ながら、「精力善用・自他共栄」は、柔道に限らず、野球やサッカー、学問、ビジネスなど、ありとあらゆる方法から学ぶことができる。たまたま嘉納は、柔術の稽古を通じて体得し、柔術の稽古から学ぶという方法が有効であると実感したことから、万人が学びやすいように柔術の技術体系を再構築して柔道をつくったのである。

この「精力善用・自他共栄を体得した人を育てる」という長期的目標を見失い、例えば「試合で勝利する人を育てる」という短期的目標に囚われてしまったこと(=成果を適切に定義できなかったこと)が、柔道が人間教育として十分な効果を発揮しているのか?、という疑問が生じた大きな原因ではないだろうか。

実際、嘉納は「柔道を競技的に取り扱う・・ただそういうことをしただけで柔道本来の目的は達し得らるるものではない。」という。

さりながら競技運動の目的は単純で狭いが、柔道の目的は複雑で広い。いわば競技運動は柔道の目的とするところの一部を遂行せんとするに過ぎぬのである。柔道を競技的に取り扱うということはもちろん出来ることであり、また、してよいことであるが、ただそういうことをしただけで柔道本来の目的は達し得らるるものではない。(嘉納・著作集2巻376頁)

(参考):第20回 道に順って負ければ、道に背いて勝ったより価値がある。 – 勇者出処 ~嘉納治五郎の柔道と教育~

とはいっても、成果を定義する、目標を定める、このことの重要性はある意味自明であり、目標の設定ミスが原因ではないか、という指摘に目新しい点はない。そもそも柔道ルネッサンスが、柔道教育における成果の定義を見直そうという動きである

それでも、ドラッカーが指摘するように、「何を成果として定義をするか?」という問いが重要であることを認識し、

ひとたび「精力善用・自他共栄を体得した人を育てる」というように成果を定義すれば、選手権大会という近代スポーツの仕組みは最も効果的な方法の一つであるが、それでも一つの方法にすぎない、別の方法も必要である、という結論に至るのではないだろうか。

さて話を戻して、

あらゆる教育機関がこの成果の定義を行っているが、近年、注目すべきプロジェクトが行われた。それが、経済開発協力機構(OECD)が1997年から6年間かけて行ったプロジェクト、通称DeSeCoである。

(参考):OECDのDeSeCoのHPno title

正式名称「コンピテンシーの定義と選択:その理論的・概念的基礎(definition & Selection of Competencies; Theoretical & Conceptual Foundations)」というDeSeCoは、(1)教育の成果の定義に関する各国、各界の先行研究を分析、(2)様々な分野の専門家(哲学者、心理学者、社会学者、人類学者などから、政策担当者、政策分析家、経営者、労働組合代表者など)による共同研究、(3)OECD内の12カ国における検証(日本は参加していない)、という作業を経て行われた。

このことから、教育学者の福田誠治氏は、「「学力の標準」を作り上げるような流れを作り出しており、この流れはもはや逆戻りすることはないだろう。」と指摘している。

この計画の作業過程を見ていくと、関連分野の厚さと関連分野の広がりから、先進国の間にきわめて高い社会的合意を得て、否定しにくい教育論理を作り上げていったことが分かる。いわば「学力の標準」を作り上げるような流れを作り出しており、この流れはもはや逆戻りすることはないだろう。

福田誠治「競争やめたら学力世界一」202頁

さらに重要な点は、OECDは、このDeSeCoの定義した成果を図るため(測定できるものは一部であるが)国際的な学力調査(「OECD生徒の学習到達度調査」通称PISAOECD生徒の学習到達度調査 – Wikipedia)を行っている点である。

各国は、このPISAの調査結果を重要な資料として自国の教育制度の成果を図っており、各国の教育制度は、DeSeCoの定義する成果に誘導されているといっても過言ではない*1

したがって、DeSeCoは、これからの教育のあり方を検討し、教育の成果を定義した最も優れた、かつ影響力のある研究のひとつであるといえる。そこで、DeSeCoを手がかりにしながら、これからの柔道のあり方をみていきたい。

□ネット上の文献

DeSeCoの報告書の要約(英文)no title(以下「key competencies」と略。適宜訳した。)

キー・コンピテンシーについてのノート

中央教育審議会 初等中等教育分科会 教育課程部会 教育課程企画特別部会(第15回)配付資料 [資料2] OECDにおける「キー・コンピテンシー」について-文部科学省

中央教育審議会 初等中等教育分科会 教育課程部会 教育課程企画特別部会(第15回)配付資料 [資料2] OECDにおける「キー・コンピテンシー」について-文部科学省

キー・コンピテンシーと「DeSeCo計画」 1.キー・コンピテンシーの定義と目的 今西幸蔵

□書籍

ドミニク・S・ライチェンほか『キー・コンピテンシー 国際標準の学力をめざして』(以下「キーコンピテンシー」と略)

福田誠治『競争やめたら学力世界一 フィンランド教育の成功』

福田誠治『フィンランドは教師の育て方がすごい』

DeSeCoの概要

まず、DeSeCoは、教育の目的は、万人の「人生の成功(successful life)」と「正常に機能する社会(well-functioned society)」を実現することにあるとする。

「人生の成功」とは、以下の要素から構成される。

  • 経済的地位と経済資源(有給雇用・収入と財産)、知的資源(学校教育への参加・学習基盤の利用可能性)、住居と社会基盤(良質の住居・居住環境の社会基盤)、健康状態と安全(自覚的・他覚的健康、安全性の確保)、社会的ネットワーク(家族と友人・親戚と知人)、余暇と文化活動(余暇活動への参加・文化活動への参加)、個人的満足感と価値志向(個人的満足感・価値志向における自律性)

また、「正常に機能する社会」とは、以下の要素から構成される。

  • 経済生産性、民主的プロセス、連帯と社会的結合、人権と平和、公正・平等・差別観のなさ、生態学的持続可能性

その上で、DeSeCoは、この「人生の成功」と「正常に機能する社会」を実現する成果の定義について、「固有の文脈に対して、その複雑な需要にうまく対応する能力」(キーコンピテンシー65頁)という、需要志向のアプローチで定義することにした。

つまり、嘉納は「あらゆる人に普遍的に妥当する原理とは何か?」というように「原理」から考えたのに対し、DeSeCoは「人が対応を求められる様々な需要・課題のうち、最も重要な需要は何か?」というように「需要」から考えたのである。

こうしたアプローチにより、教育の成果は、次の図のように定義された。

f:id:sakais:20110211204956j:image

DeSeCoは、(1)道具を相互作用的に用いる力、(2)異なる集団の中で交流する力、(3)自律的に活動する力、という三つの力(コンピテンシー)を身につければ、「人生の成功」が実現し、「正常に機能する社会」を築くことができるとした。

したがって、このDeSeCoの枠組にそって考えると、もし柔道によって「道具を相互作用的に用いる力」「異なる集団で交流する力」「自律的に活動する力」を身につけることができるならば、柔道は優れた教育であるということになる。

したがって、「柔道が人間教育として十分な成果をあげるためには一体どうしたらいいのだろうか。」という問いへの切り口は、

柔道によって、

  • どうやったら「道具を相互作用的に用いる力」を身につけることができるか。
  • どうやったら「異なる集団の中で交流する力」を身につけることができるか。
  • どうやったら「自律的に活動する力」を身につけることができるか。

このような問いを検討することにある。

このようにDeSeCoは、これからの教育のあり方を示し、これからの柔道教育のあり方に示唆を与えるものであるが、次回以降、このキー・コンピテンシーの意義を詳しくみていきたい。

*1:なお、日本は、このPISAの順位が下がったことがきっかけになって「ゆとり教育」をやめたと言われているが、脱ゆとり教育という方向は、DeSeCoが示した方向とは異なると指摘されている。

※本記事は、2010年8月から酒井重義(judo3.0)によってブログで連載された研究論考「勇者出処~嘉納治五郎の柔道と教育」の再掲です。

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