嘉納治五郎の柔道と教育32 これからの教育からみた柔道(4)

これから三つのキーコンピテンシーについて概観するが、今回は「道具を相互作用的に用いる」についてみていきたい。

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「道具を相互作用的に用いること」の具体的な内容は次のとおりである。

  • 言葉、シンボル、テクストを相互作用的に用いる
  • 知識や情報を相互作用的に用いる
  • 技術を相互作用的に用いる

DeSeCoは、「道具」という言葉について、言葉(母国顔、外国語など)、数字、表やグラフ、知識・情報(理科や社会など)、技術(特に、情報・コミュニケーション技術)など広い意味で使っている。

このキーコンピテンシーは、概ね従来の「知育」の分野に該当する概念であるが、ポイントは「相互作用的に(interactivelly)」という点にある。

それでは「道具を相互作用的(interactivelly)に用いる」とはどのような意味なのだろうか。DeSeCoは次のようにいう。

グローバル経済及び情報社会における社会的、職業的な要請によって、コンピュータのような物理的な道具と同じく、言語、情報、知識のような、知と相互作用をするための社会文化的な道具を身につけることが求められている。

道具を相互作用的に用いるためには、これを扱うために必要となる道具や技術的なスキルを利用する(例えば、テキストを読む、ソフトウエアを使う)以上のものが必要となる。

個人は、また、知識やスキルを創造し、それを適応させる必要がある。これには、道具そのものに精通すると同時に、どのようにしたら道具を世界と相互作用できるよう変化させることができるか、どのようにしたら道具をより大きな目標を達成するために使うことができるか、という点を理解することが必要となる。

この意味で、道具とは、単なる受動的な媒体というだけではなく、人とその環境が活発に対話するための装置なのである。

人は、認知的、社会文化的、物理的な道具を通じて世界に出会う。これらの出会いによって、今度は、どのようにして世界を理解するか、どのようにして世界において役立つ存在となるか、どのようにして転換や変化に対処するか、どのようにして長期にわたる難題に対応するか、という点が定まる。

道具を相互作用的に用いることは、人が世界を理解し、世界とかかわりを持つことについて、新しい可能性をひろげる。(key competenciesno title10頁)

内容が捉えづらい感じがするが、ポイントは、道具を用いることに関し、態度、感情、価値観や倫理、動機付けなどの「非認知的要素」を最大限活用するという点にある。

その切り口が「道具を通じて世界に出会う」という理解であり、例えば、日本語という言葉を使えるからこそ日本という「世界」に出会うことができ、「相互作用的に」とは、単に話したり聞いたりするだけではなく、他者と対話し、他者に影響を与え、また他者から影響を受けて、自分自身の価値観やアイデンティティが変容し、同時に、その人の日本という「世界」もまた変容していくプロセスを表している。

それでは、「道具を相互作用的に用いる」という成果の定義は、従来の知育と比較して、どのような特長をもっているのだろうか。具体的には次の2点を意味している。

知識や技術を実社会で活用する

一つは、学校の教育目標を「テストでいい点をとる力」の育成から「実社会で知識や技術を活用できる力」の育成へと転換することである。

もし、道具を通じて世界に出会い、自らの世界観やアイデンティティの形成にその道具を密接に関係づけることができれば、自己実現や良き社会の実現に向けて、その道具を積極的に活用することができる。

逆に、多くの知識をもち様々な技術を使うことが出来ても、自らのアイデンティティや世界観に関連付けられなければ、いわゆる「マニュアル」通りにしか使えず、自らの善き生の実現に向けて活用することができない。

PISA

この点、経済開発協力機構(OECD)は、この「道具を相互作用的に用いる」というキーコンピテンシーに関する教育の効果を測定するため、義務教育修了段階の 15 歳児を対象に、次のような国際的な学力調査(PISA)を実施している。

□読解力

  • 自らの目標を達成し、自らの知識と可能性を発達させ、効果的に社会に参加するために、書かれたテキストを理解し、利用し、熟考し、これに取り組む能力

□数学的リテラシー

  • 数学が世界で果たす役割を見つけ、理解し、現在及び将来の個人の生活、職業生活、友人や家族や親族との社会生活、建設的で関心を持った思慮深い市民としての生活において確実な数学的根拠に基づき判断を行い、数学に携わる能力

□科学的チテラシー

  • 疑問を認識し、新しい知識を獲得し、科学的な事象を説明し、科学が関連する諸問題について証拠に基づいた結論を導き出すための科学的知識とその活用。
  • 科学の特徴的な諸側面を人間の知識と探究の一形態として理解すること。
  • 科学とテクノロジーが我々の物質的、知的、文化的環境をいかに形作っているかを認識すること。
  • 思慮深い一市民として、科学的な考えを持ち、科学が関連する諸問題に、自ら進んで関わること。

日本では、このPISAの成績の下落を一つのきっかけとして(例えば、2000年、数学リテラシーが1位、科学的リテラシーが2位であったが、2009年、数学リテラシー9位、科学的リテラシー5位)、学力低下の指摘やゆとり教育批判が行われ、全国学力テスト全国学力・学習状況調査 – Wikipediaが復活したが、

教育学者の門脇厚司氏は、「OECDが想定している学力は、多くの日本人が考えている学力観とはまったく異なるものである。」として、次のようにPISAの特長を説明している。

これは、日本で一般的に理解されているような、児童生徒の知識の量をみるといった試験ではない。日本ではいまだに、「学力」とは教えられた知識をどれだけ記憶しているかのことと考えられており、それゆえ「学力」があるとは、記憶している知識の量が多いことであると理解されている。

しかし、OECDが想定している学力は、多くの日本人が考えている学力観とはまったく異なるものである。

OECDが想定している学力とは、知識のあるなしではなく、学校で学び身につけた知識をこれからの社会生活にどれだけ有効に活用し、将来遭遇するであろう様々な問題を自分で考え、さらに他の人の考えを聞きながら判断し、自分で、あるいは皆と協力しながら問題を解決することができる能力である。

そうした能力こそこれからの社会で求められる「学力」(PISA型の学力)であると考え、その程度を、すなわち問題を解決できる知識活用能力をどれだけ備えているかを確認しようという試み(プログラム)が、学習到達度国際調査なのである。(門脇厚司『社会力を育てる』29頁)

生涯学ぶ

もう一つは、人生の一時期にだけ学べば十分というのではなく、生涯学び続けることができる人の育成である。

もし、道具を通じて世界に出会ったならば、道具を通じた世界と対話を通じて、道具の使い方や道具そのものを変化・成長させていくことができる。つまり、社会のの変化に適応し、豊かな人生を送ることができる。

他方、「世界」との出会いがない学びであれば、継続することは困難だろう。学ぶことをやめると、社会の変化に適応することが困難になる。

最近(平成23年2月)、都内の電車にこれをうまく表現した広告コピーが掲載されていた。ソフトバンクのホワイト学割の広告である。

もう一回、学生やり直すってどう?

ところで、ニッポンどうなんだろう。いろいろ期待したのになかなか変わっていかない。元気がない。とはいえ、誰かを叩いたり足を引っ張ったりしている場合ではない。

学んでる?勉強は学生がするもの、その考えがいけないんだと思う。

だから多くの大人は学校でたら学ばない。古い考えにしがみついて変わろうとしない。この国がなかなか元気にならない理由はそこにあるんじゃないのか。

学ぶことに年齢なんか関係ない。学ぶことに卒業なんてない。いま大人こそ学ばなきゃ。俺も学ぶよ。もちろん学生諸君も!

ニッポンは学生から元気になるのだ。

「非認知的要素」

以上、簡単に「道具を相互作用的に用いる」というキー・コンピテンシーの内容をみたが、このように、自己実現のために知識や技術を活用することや生涯学びつづけるためには、モチベーションや価値観、態度といった「非認知的要素」の開発が不可欠である。

「問題がむずかしいとやりたがらない子、むずかしい問題ほど目を輝かせる子。一度の失敗で、もうダメだと落ちこむ人、失敗すると、何がいけなかったのか考える人。このちがいはどこからくるのか?」

この点を研究した心理学者のキャロル S.ドゥエック氏は、いくら努力しても自分の知能や才能は変わらないという知能観と、知能や才能は成長するという知能観の違いにあると指摘したが、このような知能観という「非認知的要素」が知識や技術の習得に大きな影響を及ぼすのである(キャロル S.ドゥエック 「「やればできる!」の研究」)。

現代の教育の問題点

それでは、「道具を相互作用的に用いること」が身につくような教育が現在、行われているだろうか。

教育学者の福田誠治氏は、端的に、次のように指摘する。

テストのための勉強では本当の実力が付かず、子どもだちの能力は開発されない。米英同様、日本でも、この点をきわめて多くの大人たちが理解していない。ここが一番の問題なのだ。(福田誠治『フィンランドは教師の育て方がすごい』227頁)

では、「テストのための勉強では本当の実力が付かず、子どもだちの能力は開発されない。」ということは、具体的にはどのような意味なのだろうか。

教育学者の佐伯胖氏は、本質的な問題について、次のように指摘する。

教育の問題を本気で考えるとすると、コトはもっと複雑で深刻である。

端的に言えば、子どもにとって、「わかること」や「できること」の意義が見えなくなってきている、ということである。「わかって、何になる」、「できたからといって、それがどうした」ということである。

こういう「わかって、何になる」式の不安と「先の見えない」閉塞性が、教室全体にかぶさり、教師や子どもも、それに圧し潰されていることがありありと観察できる。そこで子どもはやる気を失うか、受験という目の前の目標に自らを縛り付けて、「それ以外は考えないことにする」ということで当座を切り抜けようとしている。

教師も同じであって、教材をどういじっても、教授技術をどう工夫しても、「先がない」状態での一時しのぎをしているのではないかという疑問と不安をぬぐい去ることはできない。そこでともかく日々、カリキュラムにしたがって、「これを教えるのだ」と自らを限定してカラ元気で動き回り、気をまぎらせているのが現状である。(ジーン レイ, エティエンヌ ウェンガー 「状況に埋め込まれた学習」佐伯胖氏のあとがき 184~185頁)

DeSeCoによると、これからの人は、「革新的、創造的、自律的、自発的であること」、「道具を相互作用的に用いること」、知識や技術を自己実現やよき社会の実現に向けて活用し、また、生涯、新しい知識や技術を学び続け、研鑽していくことが求めらられている。

しかし、「わかって、何になる」「できたからといって、それがどうした」という本質的な疑念をもちながら、受験以外を考えないようにしてテスト勉強をし、10代20代を「切り抜けてきた」子どもたちが「革新的、創造的、自律的、自発的」に育つだろうか?道具を「相互作用的に」用いることができるだろうか。

福田誠治氏は、国際的な学力調査を分析し、次のようにいう。

PISA調査など各種の学力調査の結果を分析してみると、大きな矛盾に突き当たる。日本の子どもたちは勉強する気がない、勉強の対象となる教科に興味がない、学力を自分の人生とつなげて考えていない、それなのにテストの点数は高いのである。日本の教育は、やる気のない子どもを追い立てて、点数をとらせることでは世界一かもしれない。(福田誠治『フィンランドは教師の育て方がすごい』51頁)

「勉強する気がない、勉強の対象となる教科に興味がない、学力を自分の人生とつなげて考えていない」というのであれば、いくら知識や技術を身につけても「道具を相互作用的に用いること」はできないだろう。

このように現在の教育は問題がある旨指摘されているが、では、どのようにすればいいのだろうか。

この点は改めてふれてみたい。ここでは、DeSeCoが従来の「知育」の分野における「非認知的要素」の開発を教育の成果と定義したこと、まずはこの意義の大きさを確認しておきたい。

柔道

それでは、「道具を相互作用的に用いる」というキーコンピテンシーは、柔道のあり方にどのような影響を及ぼすだろうか。ここでは簡単に二点あげておきたい。

一つ目は、柔道もまた「道具」であること、つまり、「柔道を相互作用的に用いること」が教育目標になりえるということである。

要は、DeSeCoは、選手権大会という晴れ舞台で活用するだけではなく、実社会のなかで自己実現や豊かな社会の実現に向けて柔道を活用できる人材、そして、若い頃だけ一時的に稽古するのではなく、生涯、稽古することができる人材を育成すべきではないか、と言っているのである。これは嘉納が話している内容と殆ど同じだろう。

二つ目は、柔道は、言語や数学、知識や情報、IT技術など他の「道具」の体得をサポート・促進する役割があるという点である。

柔道は、有酸素運動の一つとして 脳内を活発化する効果があり、道具(言葉、数字、知識、情報、情報技術など)の体得を容易にする効果がある。

(参考)

したがって「道具を相互作用的に用いる」というキーコンピテンシーの体得に必要不可欠な運動のひとつとして柔道を積極的に活用する必要があるだろう。

日本の教育には、「おまえはバカなんだから、勉強しなくてもいい。その分、運動でかんばれ」とか、「頭いいんだから、運動とかしてないで、勉強だけしてればいい」的な、知育又は体育のどちらか一方だけでいいという風潮が一部にあったように思われるが、このような教育がどれほど人の成長を妨げてきたのだろうか。

古代ギリシアの哲学者プラトンは次のようにいう。

人生において成功するために、神は人にふたつの手段を与えた。教育と運動である。しかし、前者によって魂を鍛え、後者によって体を鍛えよ、ということではない。その両方で魂と体の両方を鍛えよ、というのが神の教えだ。このふたつの手段によって、人は完璧な存在となる。(ジョンJ・レイティー「脳を鍛えるには運動しかない」)

※本記事は、2010年8月から酒井重義(judo3.0)によってブログで連載された研究論考「勇者出処~嘉納治五郎の柔道と教育」の再掲です。

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