【活動報告】2016年12月 カナダ・トロントJUDOプチ留学
2017年12月、カナダ・トロントでのJUDOプチ留学に参加した佐々木康允氏、豊澤克真氏によるレポートです。
カナダJUDOプチ留学レポート 佐々木康允
目標の達成度合い
私は、海外における柔道の礼儀に対する捉え方を知り、改めて礼儀について見直して、教育現場に活かすことを目標とした。目標の達成度合いとしてはまだ3割程度である。それは、英語力の未熟さから全てを理解できなかったから、数名の話しか聞けなかったから、そして彼らの考え方をまだ自分のものにできておらず、教育に活かせていないからである。英語力と話を聞くことができた人数に関しては不甲斐なかったが、SNSでコンタクトを取れる状態にしてきたことは非常によかった。引き続き今後も英語力を身に付けながら柔道対する様々な価値観を聞いていきたい。そして、それらをどのように教育に活かすか、子供たちに伝えていくかを考えていく。
また、目標にはしていなかった事柄についても多くのことを学ぶことができた。事実、質問を考えていた柔道のことよりも文化や価値観、考え方の多様性について学んだことの方が多いかもしれない。もちろん柔道を通して考え方の違いを感じられたのも、とても興味深い経験であった。
カナダ、トロントで経験し、体感し、思ったことを私自身の考えを含めて述べていきたい。
柔道
柔道スタイルの違いについて
日本では右利きなら右組の練習、左利きなら左組の練習をするのが一般的である。しかしカナダでは考え方の違いからか、大きく異なる点があった。技やスキル(一連の動き)を練習する時に両方の組み手で練習するのである。受けた感触としては左右のレベルの差は感じられず、日常的に両方とも練習していることが分かった。そして特に、右組のまま左の内股を掛けてきたときは本当に驚いた。投げられはしなかったものの、1つの技として完成されていた。柔道が世界に広がり、考え方の違いから新しい技やスキルが生まれるのはとても興味深い。
そして、日本人特有の価値観に気付くこともできた。現地の人々は力づくで、自分が倒れてでもポイントを取りに来る。つまり目的を果たせばそれでいいという価値観である。それに対して日本人は、練習してきたことや綺麗な一本を目指すという志といった過程に価値を見出す。価値観の違いであるので、どちらが良いというものはないが、嘉納治五郎先生の柔道、講道館の柔道を受け継いでいる私としては、是非後者の考え方を広めていきたい。
柔道に対する姿勢についても述べておきたい。主に柔道を趣味としているAnnex Judo Academyのメンバーと、強くなりたいと考えているキャンプ参加メンバーの柔道に対する価値観はもちろん違うと思うが、みんなに共通して言えることは、柔道を楽しんでいるということである。そもそもカナダでは、スポーツクラブやジムなどに行く人が多く、習慣的な運動が身に付いているという話を聞いた。したがって運動やスポーツに対するハードルの高さは日本人よりも低く捉えられているのだろう。嫌な顔をしながら柔道をしている人は一人もおらず、楽しいからやる、強くなりたいからやる、そういった自主的で主体的な練習が行われていた。
日本での運動部活動やスポーツクラブでの練習は財政的な理由や指導者の価値観等により、勝利至上主義に陥りやすく、きつく辛い練習が多い。社会人になってからも「運動=きつい」という考え方が残ってしまう。また、過度な労働形態により、運動をする時間の確保が難しいという課題もある。余談であるが、地元の人々に「過労死」という言葉を説明すると、信じられないといった驚きの表情を浮かべ、「日本人は馬鹿なの?休めばいいじゃん!」とごもっともな意見をいただいた。
話を戻すが、このような運動習慣への壁が人々と運動を遠ざけていると考えられる。保健体育の授業では生涯スポーツを推進しているが、まだ定着していないのが現状である。運動をしなければ、その楽しさはわからない。特に、柔道といった格闘技は「もう若くないし」「全然力ないから」と拒絶する人が大半である。運動は楽しむものである、この価値観を指導者が伝えていかなければならない。そして柔道においても、「柔道=楽しい」というイメージ作りを行っていくべきである。
柔道の練習メニューで感じたことについて
はじめに、クリスマスキャンプの練習の大まかな流れを述べておく。ランニングから始まり、アップ代わりのトレーニング、スキル講習、そして乱取り、最後に投げ込みやトレーニングで終わる。練習時間は午前と午後2時間ずつであった。
クリスマスキャンプに参加して一番驚いたことはその練習時間の短さである。カナダのゼッケンをつけている中高生が集まった練習が1日に4時間しかない。そして1日だけ来ようが4日間とも来ようが自由であり、来なかったことや遅れてきたことについて咎める人は誰もいない。日本の合宿と比べると考えられない練習体系である。日本の合宿では午前と午後3時間ずつ、それに加えて朝練習や夜練習もある場合がある。合計で8~10時間ほどの練習を5日間、またはそれ以上の期間、毎日強制的に参加させられる。改めて考えると恐ろしい練習体系である。
このように考えると、日本での柔道の人気のなさが分かる気さえする。4時間だけの練習は疲れ過ぎることがないので、次の日の練習にもあまり悪い影響はないし、「もっとやりたかった」と思える。ゆえにその次の日の稽古にも自主的、主体的に参加していけるのである。「柔道をしたい」と思わせる方法として短い練習時間はとても効果的であると感じた。
上記した練習の流れを見て気付いた方もいるかもしれないが、打ち込みがなかったことも驚いたことの1つである。日本では小学生からトップ選手に至るまで打ち込みを欠かすことはない。私の経験上でも、打ち込みのない練習は今までになかった。日本人が打ち込みを大切にするのは、日本人特有の価値観が要因ではないだろうか。実家の仕事を受け継ぐという文化のある日本では専門的な技や芸を取得し、それを磨き続けることに美徳を感じてきた。現代では職業観も変容し、実家を受け継がない人も多いが、1つのものを極めるという美徳は人の心にあり続けている。現地の選手と乱取りをやる中で、彼らの技の雑さを感じることが多々あり、改めて打ち込みの大切さを実感することができた。
また、いわゆる準備体操がなかったのは少し驚いたが、「準備体操は最大筋力を下げる」といった話も聞いたことがあるので、日本でも準備体操をしない方がよいという考え方は順次広まっていくのではないだろうか。古い常識にとらわれず、伝統と新しい知識の合流が大切である。
現地での礼儀の考え方・実践の仕方について
柔道の礼儀について否定的な意見を持つ人はいなかった。日本人が考える礼儀の意義と変わらない礼儀についての意見を聞くことができた。
「弱い人にも強い人にも、小さい人にも大きい人にも、性別が違っても、国が違っても、尊敬の念を持つことはとても大事なことである。礼儀というはその尊敬の念を伝えることができる素晴らしいものである。」私はこの話を聞いていてとても嬉しくなった。それと同時に、特に競技としての柔道の中で見られる粗雑な礼法を積極的に廃絶していかなければならないと感じた。
そして次に、「日本」の礼儀作法を使う理由としては、以下のような意見があった。「世界中には様々な礼儀がある。お辞儀をする人、両手を合わせる人、右手で握手をする人、左手で握手をする人、ハグをする人などである。そのすべての人々がお辞儀という共通の礼儀作法を身に付けることによって、お互いに相手の気持ちを理解することができる。そしてこれは加納治五郎先生が考える世界平和を実現する足掛かりになると思っている。」
とてもカナダ人らしい答えである。「カナダ人らしい」というのは、カナダが移民の国だという知見からであり、この話については後述したい。
日本に来る外国人にとっての礼儀の意義としてこのような意見も聞くこともできた。「日本人は慣習的に礼儀を大切にしている。だからこそ日本の礼儀を学ぶことは、日本人に受け入れられる力を持つ。」この話を聞いて、私は思わず納得してしまった。日本古来の文化として、礼儀はとても大切にされている。小さい頃から礼儀やマナーについて教育されることはとても多いだろう。そしてそれはみんなが当たり前だと思っている。そこに日本の礼儀作法についてあまり知識を持っていない外国人が、礼儀の欠けた言動をすると白い目で見られてしまうのである。反対に、礼儀を知っていれば、優しい人、しっかりしている人と思われ、親しみを持てる存在だと認識される。しかし、文化が違えば礼儀も違う。日本人はこのことをもう少し理解しなければならない。
また、AnnexのDavid先生はこのような話もしてくれた。「私は、講道館柔道だけが柔道だと思っている。IJFなどがつくるルールはメディアの影響が強く、嘉納先生が考えた本来の柔道ではない。私は嘉納先生の考えに感銘を受けたので、嘉納先生の教え、講道館の教えをそのまま世界に広めていきたい。礼儀についても同じで、尊敬の念をお辞儀によって表すのが柔道であると考えている。膝が悪いので、立礼だけにするといった多少のカスタムはあるが、できるだけ講道館柔道そのままの形で柔道をしていきたい。」
私は小学1年生から中学3年生までの9年間、そして指導に携わらせていただいてから約2年間、今までにこれほど講道館に所属していることを誇りに思ったことはない。講道館に所属している、または所属していた私と同世代の者で、指導者を目指している者は少ない。そのため、講道館出身者の指導者として私が頑張らなければいけないという責任感はあった。しかし、今まで以上に講道館にいられることの貴重さや有難さを感じ、私が抱えている責任の重さが想像以上であることを実感した。
文化
現地の人々との交流を通じて感じたことについて
私がこの研修で一番感銘を受けたことは、現地の人々の寛容さである。カナダ、特にトロントは移民が多く、あらゆることに寛容的なのである。そのことで私が一番助けられたのは言語についてであった。恥ずかしながら私の英語力は高校レベルで、話すにも聞くにもやっとという状態である。そんな私は現地に到着しても、受け入れてくれるのかが不安であまり積極的には話せなかった。しかし、2日目の午後、Annexにて技の講習をしたり、メンバーと交流したりする中でその不安は解消された。
それは拙い英語を喋る私の話を理解しようとみんなが耳を傾けてくれたからである。上手く伝えられなくとも何度も聞き返してくれるし、言葉に詰まれば言いたいことを読み取って単語を教えてくれる。少し日本語を勉強している人は、頑張って日本語で伝えようともしてくれた。決して会話を終わらせようとは考えず、私の言葉を理解し、私に伝えようと必死になってくれた。その次の日からは、まだ一抹の不安はあったものの、人と話す機会は多くなった。そこで気が付いたのは、Annexのメンバーに限らず、現地の人々はみんな話をよく聞こうとしてくれるということである。その要因は移民国家であるからだという話を聞くことができた。今では英語を話せる移民の人々もかつては話せない人が大半であり、今までにたくさんの苦労と努力をしてきた。
そしてかつてのカナダ人もそのような人々を拒絶することなく受け入れた。現地の人々は昔から様々な人種と暮らしているから、また、かつては自分たちも英語を話すことができなかったからこそ、英語が話せることを当たり前だと考えず、あまり話せない人に対しても寛容的になれるのである。他の英語圏の国では正しい英語を話せなければ馬鹿にされたり、拒絶されたりするという。そういった点で、カナダはとても日本人向きの国であるといえるのではないだろうか。そして寛容的なのは言語だけではない。人種や宗教のほか、ファッションから、障害の有無、LGBTといった性志向まで、様々なものに対して寛容的であり、いかにもどんな人がいてもおかしくないといった様子であった。
特に興味深かった体験を2つほど紹介する。
12月21日にカナダに到着したこともあり、街はクリスマス一色であった。そこで私が目にしたのはサンタの帽子を被った一人の女性である。彼女はどこかの店の店員というわけでもないし、小さい子供というわけでもないし、はたまた友達と一緒に仮装しているわけでもない。1つのファッションとして、また、自分なりにクリスマスを楽しむためにその帽子を被って1人で歩いていた。そして周りの人々もそれを珍しそうな目で見る人はいなかった。
もしも日本人が日本でそのような、他人とは趣向の違った格好をしていたらどうだろうか。驚きの目で凝視し、中には指を差して笑う人もいるかもしれない。しかしカナダでは違った。自分が着たいものを着て「自分」をありのままにアピールできる。そして外に表された「個人」をみんなが受け入れる。こうして作り上げられたアイデンティティはとても豊かで、一人ひとり違った魅力があるのである。異質なものは排除される日本ではこのようなアイデンティティは育たないだろう。
そしてもう1つは、障害のある人々との共存についてである。Annexのメンバーにも数名いたと後日聞いて驚いたのだが、それほど自然に溶け込んで一緒に柔道を楽しんでいるのは、私にとしては新鮮でとても素晴らしいと思った。クリスマスキャンプを行ったToronto Pan Am Sports Centreでも障害のある方をお見掛けしたが、周りの人々も特に珍しいといった様子もなく、その人が困っていればみんなは自然に助け、共に運動を楽しんでいた。この素晴らしい光景を日本のスポーツ施設でも見たいと思ったし、心身の障害が社会での障害となっていないカナダの文化を見習わなければならないと強く感じた。
日本人は優しいとよく言われており、私もそうだと思っていた。しかし、カナダに行ったことで、そこに疑問を感じることができた。日本人は「受け入れる」という優しさ、寛容さを持たなければならない。
現地の街の様子・社会システムについて
出発前に、カナダは移民の国といわれており、特にトロントは人口の半分が移民であるということを耳にして驚いたが、聞くのと見るのでは全く違う印象を受けた。トロントに到着してはじめに向かった先がToronto Eaton Centreというショッピングモールのフードコートであった。「移民が多いと聞いたけど、どうせみんな白人だろうし見分けなんかつかないよな」と高を括っていた私は、そこにいる多種多様な人種の人々を前に驚きを隠せなかった。
ヨーロッパ系、アフリカ系、そしてアジア系の様々な国の人々が、一目でこんなに目に映ることは今までになかった。そして特におもしろいと感じたのは、様々な言語が聞こえてくるところである。英語や仏語はもちろん、中国語や韓国語、日本語、そして聞いたこともないような言語が周りを飛び交っている。とても不思議な感覚であった。「カナダってどんな国?」「カナダらしさって何?」、こう聞かれてもどのように答えていいのか分からない、そんな第一印象であった。
そのような中で1つ、興味深かった体験としてこのようなものがある。初めて会った現地の人と会話した時に、「トロント出身ですか。」と聞かれたのである。明らかにアジア系の私にそんな質問をしてくることが日本人である私からすれば可笑しく、思わず笑ってしまった。しかし聞いてみると現地ではよくある話なのだそう。それを聞いて、違うのであれば住んでいる国を聞いたり、留学か観光かを聞いたりするのが一般的らしい。
また、現地に住んでいる日本人にも英語で話しかけられる。名乗ったり、日本語で話す姿を見られたりして初めて日本人だと認識されるのである。カナダに到着した日に道を聞かれたという話も聞き、日本ではあり得ないであろう、カナダらしさ、トロントらしさを感じることができた。
反対に、David先生はこんな話をしてくれた。「日本人は外国人を外国人としてしか見ていない。日本に6年間住み、日本の文化にも言語にも精通していながら、最後まで外国人扱いをされた。日本は大好きだが、そこが唯一嫌いなところだ。」私がこの話を聞いた時、私もその内の一人であったことにとてもショックを受けた。
余談だが、アメリカ出身で日本に住んでいるBobby Judoという方がYoutubeに投稿している動画内で彼は、「知らない外国人に『Where are you from?』とか『Why did you come to Japan?』と聞くべきではない。私自身10年間も日本に住んでいる。日本語も分かるし、日本の生活にも慣れている、日本のことをホームだと思っている。長期滞在している外国人に対してそういった質問をすると、ふざけた質問だと捉えられてしまう。これからはぜひ、最初に日本にいる期間を尋ねて欲しい。」とコメントしていた。
こうした、日本に住む外国人が不快に感じることの原因として、日本人が「ウチとソト」で人を捉えているからだと思われる。例えば日本人は日本以外の国の出身の人を「外国人」と呼ぶ。文字の通り「ソト」というニュアンスが入っている。対して、私はカナダで「Visitor」もしくは「Japanese」、そして「佐々木康允」として受け入れられた。日本が島国であるからか、人種の多様性があまりないからか、その原因は様々なものが考えられるが、どのような原因にしろ、他に対する感じ方、捉え方は根本から違うと感じた。
言葉以外にも、スーパーなどで知らない人と会話が始まったり、終点に着いたバスの中で寝ていた私たちを他の客が起こしてくれたり、昨日知り合った私たちをホームパーティに招いたりと、「ウチとソト」の壁の薄さに驚かされることは多々あった。もちろん、どちらも一長一短はある。日本の「ウチとソト」という考え方があるからこそおもてなしの心があると思うし、日本が外国人に人気なのは「ソト」に対する待遇が素晴らしいからなのだと思う。しかし日本の「ウチ」にいる、もしくは「ウチ」側にいきたいと思っている外国人が「ソト」の対応をされれば不快な思いをするのは当然のことである。
そして、大半の日本人は異質なもの、「ソト」を嫌う傾向にあると私は感じている。例えばいじめもその1つであろう。個人の異質な部分を見つけては馬鹿にしたり、それを理由として暴力をふるったりするのである。私はその原因を教育に見出している。家庭教育から学校教育まで、「みんなと一緒に」「空気を読んで」「整列して」と出ている釘を打たれ続けてきた。こうした教育は「みんなとは違うものは変だ」「みんなと違うものは除外していい」という価値観を生み出す。他人と違うこと、それは素晴らしいことだと思う価値観を、まず親や教師が持たなければならない。
また、ここで間違ってはいけないことがある。「他人と違うこと」と「他人に迷惑を掛けないこと」は全く別物だということである。ここでいう「迷惑」とは「余計な厄介」という意味である。しかし小さな頃から、ただ「迷惑を掛けるな」とだけ言われ育てられれば、なるべく他人の目につかないようと委縮してしまうのが一般的であろう。人に厄介を掛けない生き方などできない。お互いに厄介を掛けるからこそ社会というものが必要なのである。教育者は言葉の使い方に注意してほしい。そして他人と違うことをどんどん褒めてあげて欲しい。
「ウチとソト」、外見や使用している言葉が「異質」である外国人はいつまでも「ソト」であり、「ウチ」に入れないのはこうした価値観があるからだろう。この考え方を否定するわけではないが、伝統的な日本の家のように、心にも軒先をつくっていくべきである。また、このような価値観のもとではアイデンティティなど生まれるわけがない。戦後は一定の生産効率をあげるために一斉教授法が重宝された。それがここまで経済発展した今でも取り入れられているのは遅れていると感じる。子供たちのパーソナリティを引き出してあげるためにも、大きな教育改革が必要ではないだろうか。そして人を「個人」で見ることができるようになれば、より魅力的な日本となっていくだろう。
はじめはカナダらしさを答えることはできないと思った。しかし今では、人種が入り乱れ、文化が入り乱れ、価値観が入り乱れているのがカナダなのだと答えることができる。
今後について
今回の活動を通して視野が広がり、自分の未熟さに気付くことができた。そして改めて自分のこと、自分がやりたいこと、柔道に対する考え方、教育観、人の捉え方、日本や海外についての捉え方、そして将来のことを見直す機会を持つことができた。この機会を逃さず、しっかりと自分の中で答えを見つけていきたい。また、冒頭にも述べたように英語力やその他の語学力を身に付けて、様々な人々の考え方、価値観を知り、教育に活かしていく。そして、海を渡って柔道をしたら世界が変わった体験をたくさんの人に広め、一人でも多くの人が素晴らしい経験を得られるよう尽力していきたい。
カナダJUDOプチ留学レポート 豊澤 克真
1 目標達成の度合い
私の目標であるカナダの柔道の礼法やスタイルを学ぶことについて、7割近く達成できた。残りの3割は私自身の英語力が未熟だったため、理解することができなかった。しかし、英語力が未熟ながらも一生懸命にコミュニケーションを取れたことは良かったと思う。
2 柔道
2−1 柔道スタイルの違いについて
私がカナダの柔道スタイルを一言で表すとしたら「自由」である。右組みで左の技をかけたり、前襟と袖にこだわらない組手をしたりと、日本ではみられない型破りなスタイルだった。もちろん日本人も右組みで左の技をかけることもある。例えば足払いや袖釣り込み腰などだ。しかし、カナダの柔道スタイルは右組みで左の大内刈りもかける。このテクニックを使用する選手は日本ではほとんどみられない。驚いたことに、投げられはしないものの私は十分に崩された。その逆技からの連絡技で私は何度か投げられた。私は左組みで足技が得意だが、右の大内刈りはかけたことがなかった。なぜなら私にはそういった発想がなく、そのような指導を受けてこなかったからだ。カナダの柔道スタイルは私の固定観念を覆した。
寝技では、日本よりも関節技のレベルが高いと感じた。多少力任せの部分もあったが、抑えなければならないポイントが極められていた。
また、力強さも大きな違いだと感じた。私はカナダ人が日本人に比べて瞬発的に発揮する力が強く、主に相手に密着して投げるスタイルと感じた。一方で日本人は、主に相手との間合いをとり技に入るスペースを作るスタイルである。また、カナダ人は基本的に力を入れ続けるのに対し、日本人は力の緩急を使うという違いも感じた。
2−2 柔道の練習メニューで感じたことについて
私が練習メニューで感じたことは大きく分けて三つある。一つ目はウォーミングアップだ。四日間の計七回の練習の中で、日本で行われているような準備体操やその場で行う静的ストレッチストレッチが行われたのはたったの一回のみだった。しかし、ウォーミングアップをしないわけではなく、鬼ごっこなどのアクティブな運動や、足の振り上げなどの動きながら行う動的ストレッチなどを行った。これは私の主観だが、カナダで行ったウォーミングアップの方が日本で行っているウォーミングアップよりも体が温まったと思う。一方で、今までとは全く異なるウォーミングアップで怪我をしてしまうのではないかという懸念は少しあった。二つ目は打ち込みだ。日本で行う打ち込みは、十本を複数回繰り返した後にスピード打ち込みや移動打ち込みと展開していくが、カナダでは相手に持たれた奥襟を切ってからの技や、組み際の技など、試合での場面を想定した打ち込みだった。そもそも打ち込みとは技をかけるための基本的な練習方法の一つである。残念なことに日本では打ち込みをウォーミングアップ捉えている指導者もいる。技を身につけなければ相手を投げることもできない。そのため、打ち込みはとても重要な練習メニューである。一方で、日本で行われているような打ち込みだけでは実践に向いているとは言えない。なぜなら、実践では相手も抵抗してくるからだ。そのような場面に必要とされるのがカナダで行われているような場面を想定した打ち込みだと思う。もちろん日本でも場面を想定した打ち込みをしているチームもあるが、少数ではないだろうか。また、カナダでは力任せの技が多いように感じた。これは基本的な打ち込みの反復回数が少なく、技がしっかりと身についていないためだと考えられる。私はどちらの打ち込みにも長所と短所があり、それらの打ち込みのどちらが上位ということはないと思う。今回のキャンプは、自身の打ち込みをみつめなおす良いきっかけとなった。三つ目は補強運動だ。日本では腕立て伏せや腹筋、背筋などだが、カナダでは三人一組になり二人が一人を引きずり回すというものや、騎馬戦など、遊びの中の補強運動というように感じた。また、日本よりもトレーニングを楽しんでいるようにも思えた。私自身はトレーニングとはきついというイメージがあったが、遊びという要素が加わることで楽しむことができた。このことは声掛けや少しメニューを工夫することで、普段のトレーニングにも応用できると思う。その他には、乱取りのインターバルが長いことも日本との違いだと感じた。
2-3 現地での礼儀の考え方、実践の仕方について
私は今回のキャンプに参加するまで、日本以外に国はそこまで礼法に力を入れていないと思っていた。しかし、予想に反し礼法はしっかりと実践されていた。特に印象に残っているのは、先生が中央に集めて説明をする前後に、受けの生徒との礼を一回一回丁寧に行っていたことだ。あそこまで一回一回丁寧に礼をする指導者は日本ではあまり見られない。海外での丁寧な礼法を見ることができて良かったと思う。これは今回のキャンプで気づいたことだが、練習の開始と終了の礼は全て立礼だった。先生に座礼はしないのかと質問したが、返ってきた答えは残念ながら聞き取り理解することができなかった。先生は一生懸命話してくれていたが、私が知りたかった情報は得ることができなかった。また、柔道の基本理念である精力善用、自他共栄の精神を講道館の英語訳のあるパンフレットを用いて私なりに伝えてみたが、うまく伝えることができなかった。この出来事がきっかけに、より一層英語学習に励もうと思った。また、柔道がもつ教育的要素については、日本よりも伸びしろがあると思った。
3 文化
3-1 現地の人々との交流を通じて感じたことについて
私が一番心に残っていることは、一生懸命伝える努力をすれば、相手は一生懸命に話を聞いてくれるということだ。私はこれまでに英語学習に対して真面目に取り組んだ時間はとても短い。そのため、ボキャブラリーは少なく、スピーキング、リスニングともに未熟である。だからこそ私は恥じらいを捨て、積極的にコミュニケーションをとった。今まで知らなかった「vending machine」という単語もジェスチャーと知っている単語で知ることができた。トロントは移民が多いためか、英語ができない人への対応もあたたかく感じた。日本では日本語を話せない人は排他される傾向がある。そのような中で、英語を話せない人がいて当然というような雰囲気は、私にとってコミュニケーションが取りやすい環境だったと思う。
3-2 現地の街の様子・社会のシステムについて
私が初めてカナダでバスに乗った時、バス停の多さに驚いた。その間隔の短さは東京のバス停よりも短かった。また、日本のバスは緩やかに発進し緩やかに停車するのに対し、カナダのバスは急発進、急ブレーキだった。電車では、朝から大きなサイズのティムホートンのカップを持っている人を見かけたが、その光景には毎回驚かされた。ウィークリーパスは電車とバスのどちらも使用できたが、ほとんどの係員はしっかりと確認をしていなかった。これも日本との大きな違いだと思った。日本の法律では車よりも歩行者が優先だが、実際は車が優先されており、歩行者は慌てて通行しているのが現状である。しかし、カナダでは驚くほど早く車が道路を横断させてくれた。交通手段では、日本とカナダで大きな違いを感じることができた。買い物では飲食代は日本より高く、衣類等は日本より安いように感じた。私が滞在していていた期間がボクシングウィークだった影響かもしれない。
4 今後について
私は四月から茨城県の警察官になり、競技者として柔道も続けていく。また、将来的には指導者になりたいと考えている。これからの生活について、まずは英語学習に力をいれていこうと考えている。おそらく私は2020年の東京オリンピックに関わる仕事をすることになるだろう。日本語を話せない海外の人が日本に来た時に、少しでも力になりたい。また、柔道指導において、勝ち負けよりも人間としての成長の手助けができる指導者になりたい。そして、今回の貴重な体験で友達になった人とこれからも繋がっていきたい。具体的にはキャンプでお世話になった先生の道場に訪問したり、彼らが日本に来た時にアテンドをしたい。
一週間という短い期間でしたが、とても貴重な体験をすることができました。酒井さん、長崎さん、秋田さん、佐々木君、ありがとうございました。
And Thanks my canadianfriends!