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東アフリカでの柔道指導 第1回 青年海外協力隊時代

「先生、これ。」

アンドレアから渡されたものは、タンザニアの国旗が入ったポロシャツ。2016年のリオ五輪で着ていたものだ。「タンザニアの選手を五輪へ連れて行く」と夢想していたのはシドニー五輪の前年の1999年のこと、それから今まで、18年もの間、アフリカで柔道の修行を続けることになるとは、想像もしていなかった。今回、私のタンザニア、現在進行中のウガンダでの経験を書かせていただく機会をいただいたので、3回にわたり記憶をたどりながら書いてみたい。しばらくお付き合いいただければ幸いだ。

大阪市立汎愛高等学校武道科で柔道に明け暮れていた私は、大学で文化人類学を学ぶことにした。誤解を恐れず書くと、人間形成を目的にしている柔道を学ぶ人間が横柄な態度をとったり、暴力的な行動や態度をとったりすることに疑問を感じ「柔道ってなんだろう?」と考えることがたびたびあった。そんな私が、他者・異文化理解のツールとしての文化人類学に心を奪われたのは必然だったのかもしれない。文化人類学を学ぶために柔道部が無い大学に入った私は、いつの間にかアフリカに魅かれ、アフリカに行くために青年海外協力隊(※)に応募。1999年の2月、「合格 派遣国:タンザニア、職種:柔道」と書かれた速達を受け取った。

※青年海外協力隊とは、日本のODAによってJICA(国際協力機構)が実施するボランティア事業。20~39歳までの青年が開発途上国の要請に基づき、2年間派遣される。途上国の社会・経済開発への貢献、国際交流などがその目的。

講道館での研修、そして協力隊の訓練を経て、1999年12月にタンザニアにたどり着いた。タンザニアはアフリカ大陸の東部に位置し、日本ではキリマンジャロ・コーヒーの生産地、野生動物の宝庫として知られている。ここ数年は経済成長を続けているが、1999年当時も現在も開発途上国・最貧国の一つである。私が配属されたのはアフリカ最高峰キリマンジャロの麓の町・モシにある警察学校だった。そして私が求められた活動は、新人の警察官および昇進する警察官に対する柔道授業の運営、そして、警察学校で柔道授業を運営できる現地指導者の育成だった。

配属先に到着し、真っ先に足を運んだ場所は道場だった。派遣前に渡された資料には「屋根あり、壁なし、もみ殻にテントのシートをかぶせた道場」と書かれていた。畳はなかったが、現地で手に入る材料で作り上げられた道場からはキリマンジャロが一望でき、今でも世界一の道場だと思っている。

(写真:道場から見えるキリマンジャロ山)

すぐに授業が始まったわけではない。警察学校には予算がなく、授業の対象となる生徒(警察官候補生)がおらず、また、警察学校のタンザニア人の指導者同士での訓練は定期的に行われていなかった。指導相手のいない間、毎日一人でもみ殻道場に足を運び、一人で掃除し、一人で稽古に励んだ。壁なしの道場では、毎朝、砂が積もっており、雨の日は犬が雨宿りし、カラスはもみ殻をつつきにきた。寒い日はハリネズミがシートの下に潜り込むのでそれを追い出すのが日課だった。毎朝の稽古後は、お茶を飲みながら行われる学校幹部との会議に出席。その後は一人でタンザニアの国語スワヒリ語を勉強する日々だった。

そんなある日、幹部の一人が「この日本から来た柔道の先生、毎日一人で稽古しているぞ。これはよくないんじゃないか?」と言ってくれた。その翌日から交代で現地の指導者が稽古に来るようになった。彼らは警察内の階級が低かったため、生徒がいなくとも学校内の警備など公務についており、稽古に来る時間がなかったのだが、幹部たちがシフトを見直してくれたのだ。「ちゃんと見てくれている人がいたんだ!」とあの時の嬉しさを今でも覚えている。

そして赴任から3か月と少しが経ったとき突然、警察官候補生が学校に現れた。生徒が現れると、そこからは怒涛の忙しい日々が始まった。一番多い日には朝2時間、昼3時間、夕方2時間の授業があった。またそれに加えて希望者を募り、夜間練習も開催した。それが終わる頃には夜の9時になっていた。

初代・2代の隊員の活動の結果、配属先では柔道と空手の授業が必修となっていた。一回の授業には100人から200人の生徒が来た。8m×20mほどしかない道場には当然入りきらず、常にどうやって効率的に指導するかに頭を悩ませた。またタンザニアの学校では体育が十分に行われていないことから、恵まれた身体能力を意識的に運用することができない生徒が多かった。まず、準備運動でけが人がでた。後ろに体を反らすと自身の限界がわからず、頭から倒れけがをする(1人で裏投している状態)生徒が数名出た。足首を回せというと、足首をさするように手のひらを回している生徒が多くいた。前転ができる生徒はわずかしかいなかった。

・・・このような状況で柔道を指導することは容易ではなかった。派遣前に妄想していた五輪への夢は、正に夢であった。それでも警察官として将来、危険な任務に就く彼らの為になる授業の内容を考えることは楽しかった。通常の授業に加えて指導者育成、初めての対外試合、特別機動隊の創設など大忙しの2年だった。それらの活動に関しては講道館の機関紙「柔道」に書かせていただいたことがあるので、ここではその報告では書かなかった2つの出会いについて書かせていただきたい。

柔道とは何かを考えさせてくれた現実~ルワンダの悲劇~

(写真:もみ殻道場。柔道着は手に入らないため思い思いの恰好で生徒がくる。)

先に書いた夜間練習には、毎日、日替わりで10名ほどの生徒たちが来た。電圧が足りず、蛍光灯が点かず、月明かりを頼りにした稽古は、楽しいものだった。厳しい環境ではあったが、柔道が好きだと行ってくれる生徒のために、柔道着なしでもできる稽古を考えることは本当に楽しかった。熱心な生徒の中でも特に真剣に稽古に励む生徒が一人いた。彼はタンザニアの隣国ルワンダの警察から研修のために来ていた。誰より早く道場にきて念入りに準備・補強運動を終わらせていた。彼の柔道に対する取り組みは真剣そのものだった。そんなある日、熱心な彼を我が家での夕食に誘い、カレーを振舞った。

「なんでそんなに熱心に稽古しているの?」私にとっては何の気のない質問であった。しかし、彼から帰ってきた答えは私の柔道との向き合い方やその後のアフリカとの関わり方にも影響を与えるものだった。

『先生、ルワンダの悲劇のことは知っている?』

1994年、複雑な歴史的・社会的・政治的対立を抱えた二つの民族が紛争を開始。一つの民族が、別の民族を虐殺し始め、紛争が治まるまでの100日間に100万人が銃やナタ、こん棒などで虐殺されたといわれている。

『家族全員が殺された。兄は目の前で眉間に銃を突き付けられ殺された。だから柔道を学び、いつか同じようなことがあったときに自分の身を守るんだ。』

この時の会話を思い出すたびに私は今でも寒気を感じる。武道とはむやみな争いを治めるための手段であると信じてきた。しかし、世界のどこかにはそんなのんびりした考えをかき消す現実が起こっている。また彼とは友人のような感覚を覚えたが、なにか乗り越えることができない距離もその一方で感じた。

様々な現実の問題を乗り越え、人間同士のつながりというものはどのように生まれるのだろうか?社会全体が一つの狂気的状態に向かった時に私自身は知性を保ち続けることができるのができるのだろうか?

今でも解決していない私の中の課題だ。また彼との出会いを含めてタンザニアの人々の現実の生活と向き合う日々を経験し、国際交流という言葉を聞くと、両者の対等性や「つながる」という意味について考えてしまうようになった。

先進国の我々は「交流」という言葉がかき消す現実の格差と本当に向き合っているのだろうか。

そう考える一方で狂気的な虐殺を止めるのは、交流を通じた顔の見える関係の積み重ねしかないことも感じている。いつかルワンダ人の彼と再会し、稽古することは私の夢の一つだ。

もう一つの出会いは、その後のタンザニアでの柔道人生とつながっている。タンザニアの首座都市ダルエスサラームには、それほど多い人数ではなかったが、柔道家がいた。時間が許せる範囲で警察学校から外に出て、地域の道場に顔を出し、稽古に参加した。その道場の指導者の一人アブダラ先生が、新たにキストゥという場所で指導を開始。そこでも指導をさせてもらった。畳9枚であったが、そこにも柔道を愛する人たちが集まった。

嘉納師範が永昌寺で12枚の畳の部屋で講道館柔道を創始したことを話すと、「畳9枚のこの道場をタンザニア柔道の発展の拠点にしよう」とみんなが喜んでくれた。実はこのキキストゥ道場がその後、タンザニアのナショナルチームの稽古場となり、私がこの道場でナショナルチームのコーチとなるとはその時は想像もしていなかった。冒頭のアンドレアともこの道場の稽古を通じて出会った。この話に関しては、詳しく次回に書かせていただくことにする。

私の後に2名の柔道家が派遣され、今でもタンザニアの警察学校では柔道が指導されている。タンザニアの柔道はまだまだ発展途上であるが、そこには「柔道とはなんだろう?」ということを考えさせてくれる様々な出来事や現実がある。あと2回の投稿を通じて、少しでも日本の皆さんに私の思考の過程を伝えていければと思う。

溝内克之(みぞうちよしゆき)

大阪市立汎愛高等学校武道科卒。京都文教大学文化人類学科在学時に青年海外協力隊に参加。2年間、タンザニアの警察学校で柔道を指導。その後、大学院の研究や日本大使館やJICA(国際協力機構)での勤務の為にタンザニアに滞在(合計9年)。現在はJICAウガンダ事務所で仕事しながら、ボランティアで柔道の指導をしている。


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