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嘉納治五郎の柔道と教育20 道に順って負ければ、道に背いて勝ったより価値がある。

前回まで、

  • 嘉納はどのような人を育成しようとしたのか。
  • どのような方法で育成しようとしたのか。
  • 誰を育成しようとしたのか。

についてみてきた。そこで、再び、第一回のテーマ「柔道はよい子を育てるか。」に戻って、現代の柔道の問題についてみていきたい。

現代の柔道の問題点

まず柔道ルネッサンスは、おおよそ次のようにいう。

  • 嘉納は「人間の道としての理想を掲げ、修行を通じてその理想の実現を図れ」と説いたにも関わらず、現在の柔道は、「勝ち負けのみに拘泥」し、し、嘉納が理想とした「人間教育」が充分にはできていない。

柔道がこのように普及してきた理由は、競技としての魅力だけでなく、創始者嘉納治五郎師範の位置づけられた柔道修行の究竟の目的である「己の完成」「世の補益」という教育面が、世界の人々に受け入れられたことに拠るものと思われます。

師範は競技としての柔道を積極的に奨励する一方、人間の道としての理想を掲げ、修行を通してその理想の実現を図れ、と生涯を懸けて説かれました。

講道館・全日本柔道連盟は、競技としての柔道の発展に努力を傾けることは勿論、ここに改めて師範の理想に思いを致し、ややもすると勝ち負けのみに拘泥しがちな昨今の柔道の在り方を憂慮し、’師範の理想とした人間教育’を目指して、合同プロジェクト「柔道ルネッサンス」を立ち上げます。http://www.kodokan.org/j_renaissance/index.html

このように柔道ルネッサンスが提起する問題は、以前から指摘されている。以下、永木耕介氏がその著書『嘉納柔道思想の承継と変容』で取り上げた柔道新聞の記事であるが、記事を書いた杉山氏や望月氏は、

  • 柔道は、本来「体育を兼ねた道徳教育の手段」であり「人格形成の教育を主体とするもの」であるにも関わらず、「単なる勝ち負けを目的とするスポーツ」となってしまい、道徳教育、人格形成の教育として充分に機能していない。

と指摘している。

□杉山恵一(柔道新聞・昭和58年7月1日付2面)

嘉納氏は、柔道を単なるスポーツの一種として普及したわけではなかった。危険の技の多い柔術を、その原理をくずさずに試合可能な柔道に再編成したが、これは試合そのものを盛んにするためではなく、体育を兼ねた道徳教育の手段として普及するためであった。すなわち、優勝劣敗主義の弊を見抜いていたのである。(中略)

しかし、試合可能な技に再編成されたことが、興味主義に走りやすい大衆心理に流されて、いつの間にか、特に戦後は、競技主義となって、精神教育がとりのこされ、試合に勝つための練習が先行独走し、柔道という名のスポーツ(優勝劣敗思想)になってしまった。

スポーツの一種目となった柔道ではなく、嘉納師範の説かれた精神教育の色濃い柔道、すなわち「優勝劣敗」「競技主義」に毒されない「柔道」の中に、教育の原理があるのではないか。(永木耕介『嘉納柔道思想の承継と変容』235頁)

 

□望月稔(柔道新聞・昭和61年3月20日付4面)

そもそも柔道とは何か。単なる勝ち、負けを目的とするスポーツではなく、人格形成の教育を主体とするもので、精力善用とは、単なる畳の上だけではなく、人生各般にわたっての精力を善用することで、自他共栄という目的に向って最善活用する道である。

柔道修行法の中には「試合」があるが、これは目的ではなく、「味ずけ」調味料という程度のもので、修行の本筋は日常の稽古にある。調味料の味がよいからといってこれを主食物の代りにすれば、結局逸脱するのである(この前段ではスポーツ選手の「ドーピングによる死」が述べられている。筆者注)。それでもスポーツ柔道は、道の柔道より進歩し、進化しているといえようか。(永木耕介『嘉納柔道思想の継承と変容』266~267頁)

海外の柔道家からの同様のことが指摘されている。前ロシア大統領(現首相)のプーチン氏は、大統領となる以前に、柔道仲間(シェスタコフ氏、レヴィツキー氏)とともに「プーチンと学ぶ柔道」(その抜粋の翻訳が「プーチンと柔道の心」)を著したが、著者らは、

  • 「嘉納柔道の真髄は、それが倫理的人間を形成する手段であるということにある」にもかかわらず、「勝敗が唯一の大事になり」、現代の「柔道」は、「嘉納治五郎が意味したものとは遠」いものになってしまった、

と話している。

嘉納治五郎は、自分が創始した柔道が国籍や老若男女を問わず、真に大衆のスポーツとして大成する日を見ることはなかったが、何百万という人々が柔道に親しむ今日、柔道の父嘉納の大願も成就したかのように見える。しかし、嘉納治五郎の柔道は、決してスポーツではなかった。競争心旺盛な若者たちが、誰が一番か試合で決着をつけようとするのも自然なことだと理解を示しつつ、嘉納は柔道を競争の手段とみなすことを厳しく戒めた。すでに老齢に入ってから、ある試合会場を訪れた嘉納が、その後、門弟を集めて叱咤したという。

「諸君の試合は闘牛である。今日わしが見た試合には技の切れも、美しさもなかった。このような柔道を教えた覚えはない。諸君が皆力一辺倒で勝てると思っているのなら、講道館柔道もこれまでよ。」

今日、柔道はスポーツの部分が先走りし、勝敗が唯一の大事になりつつある。今日われわれが「柔道」という言葉で呼んでいるものは、かつて講道館柔道の創始者嘉納治五郎が意味したものとは遠く、嘉納の柔道理論や哲学訓はほとんど省みられることがない。われわれが目にするのは実は氷山の一角であるのに、この目に見える部分だけが時の流れとともに姿形を変えてしまい、終いには原形と似ても似つかぬものになってしまったのである。

嘉納柔道の真髄は、それが倫理的人間を形成するための手段であるということにある。惜しむべきことに、今日注目されるのは結果であり、ゴール、採点、記録と、わがロシアスポーツ界に少なからぬ害を及ぼした諸概念である。家元の日本でさえ、世界の畳上で記録を残すことに注意を奪われ、偉大なる教育者嘉納治五郎が目指したものが後景に押しやられてはいないだろうか。(『プーチンと柔道の心』99~100頁)

『代表的日本人』(ちくま新書)において嘉納を取り上げた斉藤孝氏も、

  • 精力善用・自他共栄という「概念を技として、普遍的に活用できること」が嘉納の目指すところであり、「ただ柔道が強くなればいい、というのではありません。」

と話している。

嘉納治五郎が唱えた「精力善用」や、様々な理念・観念は、常に身体を動かすことと結びつけられているところがポイントです。普通、観念は、観念の世界、実地は実地の世界とまったく区別されていますが、治五郎の場合は、実施に即して観念を身につけていこうとしました。概念を技化していくという視点が重要です。 これが上達の普遍的原理となります。

ただ柔道が強くなればいい、というのではありません。めざしているのは精力の最善活用であり自他共栄なのであって、その概念を技をとして身につけるために柔道があるのである。そして、そこで身につけたものを、生活のすべてに広げなさい、と治五郎は説いたのでした。もちろん、身体を丈夫にしたり、闘う気構えを持つ教育は「武」の中にあるのですが、それが最終地点ではありません。柔道が強くなり、併せて人格形成ができるというだけではありません。概念を技として、普遍的に活用できるようになって始めて、治五郎のめざすところが実現するのです(斉藤孝「代表的日本人」92頁)。

競技としての柔道についての嘉納の見解

それでは、嘉納は、柔道を競技として取り扱うことについてどのように考えていたのだろうか。

そもそも柔道というものは毎々私が説く通り大きな普遍的な道である。そしてそれを応用する事柄の種類によっていろいろの部門が別れ、武術となり体育ともなり知徳徳育ともなり、実生活の活用ともなるのである。

しかるに競技運動とは勝敗を争う一種の運動であるが、ただそういうことをする間に自然身体を鍛錬し、精神を修養する仕組になっているものである。競技運動はその方法さえ当を得ていれば、身体鍛錬の上に大なる効果のあるものであるということは争う余地はない。

さりながら競技運動の目的は単純で狭いが、柔道の目的は複雑で広い。いわば競技運動は柔道の目的とするところの一部を遂行せんとするに過ぎぬのである。柔道を競技的に取り扱うということはもちろん出来ることであり、また、してよいことであるが、ただそういうことをしただけで柔道本来の目的は達し得らるるものではない。それ故に柔道を競技運動的に取り扱うことは今日の時勢の要求に適ったものであるということを認めると同時に、柔道の本領は何処にあるかということを片時も忘れてはならぬのである(嘉納・著作集2巻376頁)

このように嘉納の見解は、

  • 柔道を競技として取り扱ってもいいが、競技としての柔道は、柔道の目的の一部を遂行するのみであり、それだけでは本来の目的を達することはできない。したがって、柔道の本来の目的を片時も忘れてはならない。

というものであった。

長期の目標と短期の目標のバランス

ここで嘉納が言わんとすることは何か。

結論からいうと、これは経営学者ドラッカーのいう「長期の目標と短期の目標のバランス」の問題だと思われる。

『非営利組織の経営』におけるドラッカーとアメリカ教員連合会の会長アルバート・シャンカーとの対話に以下みていく(「ドラッカー名著集 非営利組織の経営」147~154)。

□ドラッカー

アルバート、あなたは学校に責任をまたせ、教育中心の学校にする運動の先頭に立ってこられました。学校の成果をどう定義しますか。

□シャンカー

学校の成果を考えるということは、どのような人間をつくるかを考えることだと思います。ところが教師の多くは、毎日のテストや大学進学適性試験の結果など、学校の成果をあまりに狭くとらえています。学校があげるべき成果は三つあると思います。第一は知識です。第二は社会的な能力です。第三は人としての成長です。残念ながら、これらの成果を評価測定できるところまではとうていいきません。

□ドラッカー

学校の成果を定義するにあたって、重要なポイントは何でしょう。

□シャンカー

長期的に見ることだと思います。学期や学年に目を奪われていると重要なことを見失います。試験のための勉強にとらわれます。試験後一週間もしたら意味がなくなるようなことを覚えさせることになります。

まず、ドラッカーは「学校の成果をどう定義しますか。」と問うたが、この問いが非常に重要であることは第1回でふれた。

次に重要な点は、ドラッカーの「学校の成果を定義するにあたって、重要なポイントは何でしょう。」という問いに対し、シャンカーが「長期的に見ることだと思います。」と回答した点である。

「教師の多くは、毎日のテストや大学進学適性試験の結果など、学校の成果をあまりに狭くとらえています。」というシャンカーの発言は、「柔道の先生の多くは、試合の結果など、柔道の成果をあまりに狭くとらえています。」とそのまま言い換えられるのではないだろうか。

ここで、ドラッカーは、短期的目標と長期的目標のバランスに失敗した事例として、病院の例をあげている。

私はいくつかの病院の相談相手になっています。それらの病院のいずれもが、もう20年も、長期的な目標は、患者を入院させるのではなく、病院の外にクリニックをつくり、そこで診るようにすることでなければならないといっています。いまの医療の進歩の方向からすると、いつまでも入院患者を抱えようとする病院は厳しい状況になると思います。こうしていまや、患者を抱え込まないことが長期的な目標でなければならないということに、関係者の全員が一致しています。

でも、それ以上先へは誰も進もうとしません。医師も看護婦もそういうことは論じたがりません。寄付で病院を支えている人たちも論じません。すでに病院ではなく、小さなクリニックを好む患者が増えています。もちろん外部にクリニックを開設した病院はうまくいっています。

長期的目標(病院の外にクリニックを作る)が何であるか知っているにも関わらず実行せず、短期的目標(患者を入院させる)を追求する。このようなケースは枚挙に暇がないが、柔道ルネサンスの言わんとするところは現代の柔道がこのケースに当てはまるということなのではないだろうか。

ここでの対話によると、米国の教員の労働組合には、組合員の給与と労働条件を守るという短期の目標と、公立学校の、多様な人種、宗教の人たちが一緒に学び「アメリカ化」するという長期の目標があったという。

しかし、シャンカーが就任した当時、組合は短期目標を追求し、ストをやりすぎた結果、教師は「子供に関心のない輩」というレッテルを貼られ、教員に対する反発は最高潮に達した。このとき、シャンカーは、短期的な目標ではなく、長期目標を追求し、その結果、「長期的な目標が達成される中で短期的な目標が実現」されたという。

シャンカーは、この例として、過去、教員の労使紛争が激しく、学区外に引っ越した人もいたというニューヨークのロイチェスターの例を挙げている。

ここでは、経験豊富な教師が新人教師を評価し、また、試用期間中に一人前になれそうか否かを判定する協定が結ばれ、この協定が結ばれた結果、最高水準の教師は年収が4万ドルから7万ドルに増え、教師全体の刺激にもなっているという。

そして、再びドラッカーはいう。

それらのことが意味することは、長期的な目標を見失ってはいけないということだと思います。目標に向ってしっかり歩いていけば、やがて信頼を得る。あとは成果を定義してその成果に責任をもつことです。

(「ドラッカー名著集4 非営利組織の経営」152~154頁)

ドラッカーの「長期的な目標を見失ってはいけない」という言葉と嘉納の「柔道の本領は何処にあるかということを片時も忘れてはならぬ。」という言葉は同じだろう。

試合に勝つ、という短期的目標と、倫理的な人間を育成する、いう長期的な目標のバランスの問題であり、長期的な目標を見失ってはいけないのである。

長期的な目標を持った試合

以下、長期的な目標を見失わない、という意味を具体的にみていく。

近年、学校間の対抗試合などを見る時は、往々柔道の高尚なる目的を忘れて目前の勝つとか負けるかということが柔道の目的であるかのように思い違いをしているのではないかと疑われる。勝負である以上、勝つがよくて、負けるが悪いということはもちろん分かり切ったことである。しかし、勝つにしても道に順って勝ち、負けるにしても道に順って負けなければならぬ。負けても道に順って負ければ、道に背いて勝ったより価値があるのである。(嘉納・著作集2巻87頁)

試合において、道に背いた勝利(短期的目標の追求)より、道に順った敗北(長期的目標の追求)のほうが価値がある。

柔道と近代スポーツの本質的な相違点はこの一言に現れているとも思われるが、これに続けて、嘉納は、試合をするにしても長期的な目標を追求せよ、という。

対抗試合その時の勝ち負けが修行の真の目的でなく、真の目的は何時あることか分からぬが真剣に勝ち負けを決する必要の生ずることのある場合に不覚を取らぬためである。

(中略)

まず第一に、前述の如くその際勝つとか負けるとかいうことは主たる目的でなく、他校の人と交わる稽古をしよう、他校の人と技を闘わして互いに楽しもう、平素試合をせぬ人はどんな技をもっているのであろうか、思い掛けない技を掛けられて敗けるであろうか、こちらの技を知らぬため先方がどんな不覚を取るであろうか、単に柔道の技術の試合のみでない、柔道の修行によって磨き上げたこちらの精神や態度を先方の精神や態度と比較して、もし及ばぬところがあるならば先方に学ぼう、己が優っているのであれば先方を導こう、われは今こそ学校を異にしているが、他日国家社会に立って共々に働くのであるから、こういう機会に互いに親睦しておいて、他日社会に立つ時は何校出身というような狭隘な考えをもって隔ての出来ないように心掛けよう、などいうふうに考えて、この種の試合を挙行しなければならぬ(嘉納・著作集2巻88~89頁)。

もし、長期的な目標を追求せず、短期的な目標を追求してしまったらどうなるか。嘉納は、社会から柔道は尊重されなくなるという。

柔道の技術は大切である。また貴重なものである。しかし、もし技術が単独に存在して智徳の修養に伴われていなかったならば、世人は左程柔道家を重んじないであろう。他の修養と離れた技術は、軽業師の技術と比較し得るものであって、特に取り立てて尊重する価値が認められまいと思う。柔道の修行者が文武の両道にわたって研究練習を積んでこそはじめて国家社会に大いに貢献することも出来、世人から尊敬を受くることも出来るのである。(嘉納・著作集2巻89頁)

実際、嘉納は、柔術が廃れ、一部の柔術家が興行を行い、軽業師のごとく扱われた時代に修行した。嘉納の脳裏には、明治初期の廃れた柔術の姿が思い浮かんでいたのではないだろうか。

それでは、(柔道ルネッサンスの問題認識を前提とすると)、何故、柔道は、長期的目標と短期的目標のバランスを失ったのか、次回はこの点をみていきたい。

※本記事は、2010年8月から酒井重義(judo3.0)によってブログで連載された研究論考「勇者出処~嘉納治五郎の柔道と教育」の再掲です。

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